奇跡にも満たない逃避行



 買ったばかりのアロマデフューザーが広くはない寝室に不透明の煙を柔らかく吐き出している。ベッドのシーツに沈み込みながらその香りを吸い込んだ。ふんわりとした甘い中に鼻腔に通る清潔さがあるこの匂いは私が使っているホワイトムスクの香水に似ている。私の大学院の入学祝いに刀也くんが贈ってくれたものだ。このアロマは私の好みで選んだものだけれど、初めてアロマを焚いた日刀也くんは「ナマエの好きな香りだ」ってちょっと笑っていた。
「ナマエ」
 背後から声がかかって、細い指が私の首をなぞった。「くすぐったいよ」「こっち向いて」「ん、」体の向きを変えて振り返る。お風呂上がりでドライヤーをかけたのにまだしっとりしている刀也くんの髪が1番に目に入って、前髪越しに私を見つめる瞳を見つけた。刀也くんはよく私を見つめている。じっと見つめて視線を外さない。それはちょっとだけ、獲物を狙う鷹の目ようだと思う。そしたら彼の獲物は私になってしまう訳だけど。でもたしかに、今この状況なら私は彼の獲物間違いないだろう。だって、今にも食べられそう。
「……ぁ。ふ……ん」
 そんな思考を読まれたのか期待を悟られたのか、頬を優しく、けれど刀也くん本意に掬われる。目を瞑ればすぐに溺れるようなキスが降ってきた。分厚い舌が私の唇に押し当てられてあげてもあげても足りないっていうみたいに求められて、酸素が足りなくなっても逃してはくれなくて、それでも私の頭はきもちいの一点張りだ。薄く目を開けば鼻の先に刀也くんの目があって、視線が交わる。その瞳がすっと薄められるのと同時に刀也くんの唇が離れていって、大きく息を吸った。その反動で思わず咳き込みかけて、今度は慌てて息を吐く。
「っげほ、」
「ごめん、大丈夫?」
「だいじょうぶ、だからもっかい」
 お前さぁなんて呆れたため息混じりと共に下唇が柔らかく喰まれた。喰んだ後に舌同士がくっついて、さっきつけた保湿リップの少し甘い味。取れちゃったかな。あとで塗り直さなきゃ。食い尽くされていく傍ら意識はひとつ上のレイヤーで中身のない考え事を滑らせる。
「……ちゃんと、意識して。今、俺がお前にキスしてんの」
「ん、っま、て息くるしい」
 少しだけ息を吸いたくて顔を離したら、それを許さない刀也くんが被せるようについてきて、それを支えきれなかった私の腕はシーツを滑りそのまま2人して倒れ込む。上あごをなぞられ反射的に喉が引き攣った。拍子に鳴ったキュ、という音に刀也くんが小さく笑う。「鳥なの」「鳥かも」「飛べるやつ?」「幸せの青い鳥、なんちゃって」「あぁ、じゃあ鳥籠が必要か」お前を閉じ込めて逃げないように、なんて、私はとっくに刀也くんに囚われてどこにもいけないのに。今だって、体の両横に置かれた刀也くんの腕のせいでここから抜け出せもしない。
「私の居場所は、刀也くんの隣でしょ」
 目の前にある刀也くんの頭に腕を回して引き寄せる。そのまま勢いで触れるだけのキスをすれば刀也くんはちょっとだけぽかんとあほみたいに目を丸くしてから、眉を吊り上げた。「煽るねぇ」そうだよ。煽ってんの。だから、もっと刀也くんをちょうだい。今度こそ骨の髄まで溶かされてしまう。ありったけに降ってくるキスに目を閉じて、息までもをあなたにあげてしまおうか。



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