何故こうなったか、という理由を思い出していた。二人で飲茶がしたいとの甄姫殿の誘いを二つ返事で引き受け、私室に来たまではよかった。ほかほかと温かく芳醇な香りの点心に舌鼓を打ち、甄姫殿と語らうひとときを送っていた最中、甄姫殿がふと「名前殿の着飾った姿が見たいですわ」と言い出したのが事の発端だった。話の流れは思い出せないが、あれよあれよと準備させられ、あとは自分が着替えるとだけとなってしまう。

「さあ。観念してくださいませ。なんとしてでも着ていただきますわよ」

躙り寄る甄姫殿は見惚れるほど美しい微笑を浮かべているが、肩越しに女官が持っている衣を見て冷や汗が下りる。意匠は見事。鮮やかな色の中に施された細かい刺繍は、それとしか形容できないまでに綺麗だ。これが、他の女性であったら喜んで腕を通すだろうと思わせる出来だが、自分にそんな喜びは持っていない。武を振るい、功を立てる。武人としての喜びしか持ち合わせていない女であるため、俊敏さが損なわれるような衣に腕を通すのは躊躇われた。それでなくても着飾るのは苦手としている。

「甄姫殿、ああいう服は甄姫殿にこそ相応しいと思うのだが……」

「そんなことありませんわ。私が名前殿のためにと仕立てさせた物ですもの」

「いつの間にそんなことを……」

流石は我が主、曹丕殿のご令室。本人に気取られぬほどの慎重さには感服するほかない。しかしそれはそれ、これはこれ。彼女には良くしてもらっている手前要望を断るのは心苦しいのだが、こればかりは二つ返事とはいかなかった。

「私は女の身を捨て、武人に生きることを選んだ身。もはや女にありませぬ。であれば、それは私には分不相応となりましょう」

「あなたが我が君のために戦場を駆け回っているのは聞いていますわ。けれど、戦場に立つからといってその身が男になるわけではありませんでしょう?
―――ほら。剣を持つ手は私と同じ大きさですし、ここも私と同じく女の線をしていますわ」

「し、甄姫殿っ……!」

彼女の華奢な指がするりと脇の下から腰までの稜線をなぞり、くすぐったさと恥ずかしさに身を捩る。距離を取ろうとしても、片手が彼女の手にしっかり握りしめられているため動きが封されてしまった。同性同士だとわかっていても、彼女が醸す官能的な雰囲気に呑まれて鼓動が不自然に乱れる。

「こんなにも良い体をしておりますもの、似合わない道理がありませんでしょう?」

艶やかに美しく微笑んだ彼女に、とうとう自分は降参した。

「……ここだけの秘密としていただけるのであれば」

見越していたのか、はたまたそういう気性なのか、浮かべた表情に変化はなく、艶やかに微笑んだまま泰然と頷いた。

「勿論ですわ。荒野に花を落とすような真似はいたしませんことよ」

「は、花……」

彼女のことは好きだが、こういうところは少し苦手だ。無粋な私には刺激が強すぎる。


 衣を持っていた女官たちにあれよあれよと仕立て上げられ、心の準備もそぞろな状態で甄姫殿の前に放り出されてしまった。

「まあ……!」

お茶を飲んでいた彼女が、衣装を変えた私を見て目を丸くする。驚嘆の声に居心地の悪さを覚えたが、着ると言った手前二言する気はなかった。

「大変よく似合っておりますわ。花と見立てた私の目に狂いはありませんでしたわね」

「それは些か持ち上げ過ぎかと……。花というのは甄姫殿のように嫋やかな女性を言うのであって、私のような武人は言いませぬ」

自分なりに的を射た反論だと自負していたが、途端沸き起こったさざなみのような笑い声に、肝がきゅっと縮まる思いをした。甄姫殿も背後の女官たちも、一様にくすくすと目を細め肩を震わせている。男所帯の中でもこれほどの疎外感を覚えたことがあろうか。いいや、ない。あそこに居た時はむしろ己の責務に夢中だった。もしや気づかなかっただけで、自分はこんなにも肝が小さな人間だったんだろうか。ぐっと拳を握った時、ふと甄姫殿のしなやかな手に包み込まれた。

「馬鹿にしているのではありませんの。ただ、あなたがあまりにもいじらしいことを仰いますからつい」

「い、いじらしい……」

そんなことは初めて言われた。気心知れた仲間には「お前の武は頼りになる!」と評されるが、こんなことは一度もない。いじらしいというのは、子供の無垢なる心根に胸を打たれる時に使う言葉。自分は武人であり、それからもっともかけ離れた場所に居る者。とてもそぐわない言葉であるというのに、彼女はさも当然かのようにさらりと言いのけて、自分に反論させる雰囲気を与えない。他の女官たちまでもが甄姫殿に同調するふうに見受けられるので、いよいよ自分の認識が誤っているのだろうかとさえ錯覚してしまった。

「……私、願っておりましたの」

重さを含んだ声につい、と視線を持ち上げる。

「名前殿と友人のようにこうして飲茶できたら、と」

「甄姫殿……」

「それが叶って、らしくもなく喜んでいますのよ」

にこりと笑った顔に、今までのような艶っぽさよりも子供のような純粋さを垣間見た。

「……甄姫殿、私は―――」

自分の言葉は女官の悲鳴に遮られた。突如として背後で湧いた甲高い声に振り返れば、どこからか乱入した男がこちらに向かって迫ってきていた。服装は身軽、陽光を受けて鈍く反射する得物は短刀一つだけで、腰や他に暗器を忍ばせているようには見えなかった。忍ばせていたとしても出させなければいい。さっと袂に手を入れ暗器を取り出す。鎖で繋がれた打撃武器を振るい、男の手をしたたかに打って落とさせる。よもや女の自分に反撃されるとは思ってもなかったんだろう。男の目は衝撃に丸められ、容易く得物を落として無防備となったおかげで、簡単に懐に入り込み鳩尾に蹴りを入れられた。低く呻いて地面に臥すのを透かさず上から押さえつけ、抵抗できぬよう男の腕を捩じり上げる。一連の流れを呆然と見ていた女官たちだったが、甄姫殿の一言でさっと動き出して一人が衛尉えいいを呼んできてくれた。青い顔をする衛尉に男の身柄を渡し、素性を調べ上げるよう言いつける。緊迫した空気は衛尉と共に男の姿が消えたことで溶け出し、そこではっとなり甄姫殿に向き直る。

「ご無事か?甄姫殿」

男の狙いが誰であったかは不明だが、こちらに向かっていたのは事実。被害が及ばぬよう注意を払ったつもりであっても、緊急事態となるとそれが必ずしも完璧にこなせるとは限らない。しかし、彼女はやんわり笑んで頷く。

「大丈夫ですわ。名前殿が咄嗟に前に出たおかげで、お茶もこぼれておりません」

「そうか……。それは良かった」

ほっと胸を撫で下ろす。護衛でないとはいえ、日頃良くしてくれる彼女に怪我がないのは喜ばしいことだ。視線を落として袂が汚れてしまっていることに気づく。

「も、申し訳ない甄姫殿!お借りした衣に染みを作ってしまいました……」

おそらく翻った際に茶器を倒してしまったんだろう。美しい衣だったというのに、茶を吸い変色したせいでそれが損なわれてしまっていた。青褪める私に「構いませんことよ。後で綺麗にさせますから」と言ってくれた。

「しかし、せっかくの美しい衣を台無しにしてしまった……」

「―――それが困ったことになりましたの」

ほう、と息をついて片頬に手を宛てがう。憂いを見せる表情に「甄姫殿?」と名を呼んで首を傾げた。

「私も美しいと思っていた衣でしたのに、今ではあなたの美しさの方に魅入られてしまって、衣が褪せて見えるようになってしまいましたわ」

「甄姫殿!?」

「一からまた作り直さなければいけませんわ。けれど、どんな布を使えばあなたの美しさに引けを取らない仕上がりになるか……。これは一度蔡文姫殿とも話し合う必要がありますわね」

「そ、それはぜひ辞めていただきたい……。蔡文姫殿が困りましょう」

「あら、そんなことありませんわよ。時折二人で音曲を合わせますが、名前殿に合う衣は何かと彼女と話すこともありますの」

二人でどんな話をしているんだと恥ずかしくなった。肝がきゅっと縮まる痛みが戻ってきて、肩身が狭くなる。居た堪れなくなり顔を落とすと、視界の端に白い手が滑り込んできて、そっと頬に添えやんわり持ち上げる。硝子細工のように透き通った綺麗な瞳と視線が交わる。

「顔をお上げくださいませ。美しい花が萎れる様は、心が痛みますわ」

花じゃないという言葉は喉元まで上がっていたが、とうとう吐き出すことはなかった。