その日もいつも通り書簡をまとめ、伯言に持っていく。長い廊下を歩いていると、その先で伯言の姿を捉えた。部屋まで行かなくて済むと喜び勇んで近づこうとし、一歩踏み込んだところでぴしっと固まる。

「あー、はいはい。彼女ね」

伯言の背中に絶妙に隠れて見えなかったが、ちょっと位置をずらすと見知った女官が現れる。野に咲く小さな花のような愛らしい笑みを浮かべ、小柄な彼女は伯言を見上げている。伯言も伯言で、そんな彼女と会話を弾ませ、頬をほんのり淡い色に染めていた。誰の目にも彼らは通じ合ってるように映るだろう。だが、彼らがまだ蜜月な関係には至っていないことを、私は知っていた。

「―――あ」

話し終えたらしい伯言が、くるりと振り返りこちらに歩いてくる。近づくにつれて向こうも私に気づいたみたいで、今度は伯言の方が喜び勇んで駆けてきた。彼の喜色満面にこの先が自ずと読めてしまった。それでも相手するのが私だ。

「ちょうど名前を探していたんです」

「私も」

「用事でしたか?」

「うん。伯言宛の書簡をお届けに来ましたー」

「そうなんですね。これらは後ほど返書を出します」

丸めた竹簡を渡すと今度は自分が聞き手に回る番だ。言いたくて堪らないといった伯言に苦笑いして、先を促した。

「あなたが勧めてくれた点心がとても気に入ったようで、あの方と今度お茶をするんです」

「へえ、やったじゃん。伯言、あの子をずっと誘いたかったもんね」

「はい。だから、名前には感謝を伝えたいと思っていたんです。あなたのおかげで最初の頃と違ってだいぶ親しくなれましたから」

頭まで下げかねない雰囲気に「大袈裟だねえ」と返してなんとか回避させる。孫呉の軍師の頭を下げさせる女官なんて周囲に知られたら、自分の立場が大変なことになる。彼と違い、私はただのしがない女官なのだから。周りと違う点なんて彼と昔馴染みなことくらいか。利点かはなんとも言えないけど。

「名前が居なければ、あの方とこうして言葉を交わすことは叶わなかったでしょう。ありがとうございます」

「感謝されるほど大袈裟なことしてないって。伯言が頑張ったから今があるだけでしょ。気にしない、気にしない」

「……子供の頃からあなたには助けられてばかりですね」

「そう?お互い様じゃない?」

「そうでしょうか。私からあなたに何かした覚えはありませんが……」

「呉のために頑張ってくれてるじゃん。だからいつも助けられてますよ、陸軍師殿」

揶揄うつもりでわざと言ってみれば、彼は瞠目した後ふふと笑みをこぼした。あどけなさが残る笑顔を見ていたら、伯言が用事を思い出したらしく、別れた。自分も持ち場に戻りますか。来た道を引き戻そうとしたところで会いたくない人に遭遇してしまった。

「俺を見た途端逃げんなって」

「違います用事を思い出しただけです」

「ならなんで来た道と逆の方行こうとしたの」

「…………そっちに用事あったから」

「無理あるでしょ」

私は凌統殿が苦手だった。だから早く立ち去りたいのに、彼は通せんぼしてくるし、これでも立場は彼の方が上だから無視するなんてできない。つまり退路も迂回路もないってこと。詰んだ気がする。

「また陸遜に助言してたのかい?あんたも懲りないねえ。泣きを見るのは自分だって言うのにさ」

「泣きませんよ別に。彼が好きなのはあの子ですから」

「へえ……」

含みのある視線を送られ、気分がざわつく。負けじと睨み返す。

「なんですか」

「ま、泣くことになったら俺のとこ来なよ。胸くらい貸すから」

「要りません!」

全く、なんなんだこの人は。これだから凌統殿は嫌いなんだ。こっちは必死に平静になろうとしてるのに、それを平然と混ぜっ返しては何処吹く風で去っていく。好きになれるはずもない、あんな人。


 別の日。伯言に持っていくよう頼まれた書簡を抱え、またしても長い廊下を進む。裾は長いし書簡は持ちづらいしで苛立ってしまうが、ぐっと堪えて先を急ぐ。ちょっとでも帰りが遅いと「どこで道草食ってたんだ」ってぐちぐち突っかかってきてうるさいから。

「伯言殿にお届けものでーす」

「どうぞ」

入室すると、室内には伯言の姿しか見当たらなかった。訊ねると、どうやら他の官はみんな出払っているらしい。証拠にいつもは数本の竹簡が積まれているだけな机の上には、倍の竹簡が積まれている。朝から一人でこの量をこなしているらしく、流石に大変そうだったので出来上がった竹簡を指定の場所に収める程度の手伝いを買って出た。申し訳なさそうに眉尻を下げ「頼ってばかりで申し訳ありません。いけませんねこれでは」と暗い顔したので、口癖の気にしない気にしないを連呼して作業に取り掛かった。権謀術数の軍師のこんな姿を見たら、他の宦官は卒倒するだろうな。女に遜るな、と。でも伯言は性別を免罪符に威張り散らすことしない。そういう人だってよく知ってる。それは多分、あの子も一緒だろう。

「ああ、そうだ。名前に伝えたいことがあったんです」

「んー?」

「―――先日ようやくあの方と結ばれることができました」

腕に抱えた竹簡の一つを棚に入れるべく腕を上げる。しかし、次いで出た言葉が後頭部を殴り、その衝撃で場から動けなくなった。思考ができなくて、口の中はやけに渇き舌が張り付く。どれほどそうしていたかはわからないけど、目に痛さを覚えて視界が滲み出したところでゆっくり手を下ろす。

「……へえ、よかったじゃん。伯言ずっと好きだったもんね」

違和感のないよう絞り出す。息してるはずなのに鼓動がうるさくて、鼓を耳元で叩いてるようなけたたましい音が身内から響いてくる。息苦しさを覚え、胸元を掴む。伯言からは位置的に自分の姿は見えない。その逆も然り。

「名前には感謝しても足りないくらいです。今度何か贈らせてもらいますね」

「いいよそんなの。気にしない、気にしない」

「私が気にします。様々な助言を貰って恩を返さないなど、気にしすぎて執務に集中できませんよ」

「えー、しょうがないなあ。じゃあ美味しい蓮蓉包期待してる」

「はい。任せてください」

とびきり美味しい物を届けますね、と言う伯言の声音は嬉しそうだった。軍師らしくなく感情を面に表す様に胸が大きく軋む。あ、泣きそう。