宴席というのは総じて騒々しいものだ。元は祝い事なので当然と言えば当然なのだが、そこに酒が絡むといよいよ手が付けられなくなる。酒乱を起こす者、大声で笑う者、無意味に絡む者、少数ではあるが中には陰鬱な空気を醸し沈黙する者も居る。この男は間違いなく後者だった。
「―――やはり俺では駄目なんだろうか」
かつてこれほど酒を鬱々と飲む男が居ただろうか。酒屋の隅を陣取り、ちびちびと酒を呷る。自分自身酒は嫌いではなく好む方だと自負しているが、肴が男の泣き顔であれば食指も鈍くなるというもの。俺を嫌う者らの泣き顔であればその限りではないが。
「ええと、聞いてるかな法正殿。いや、こんな話聞きたくないだろうけど……。すまない、俺が頼りないばかりに法正殿に迷惑をかけて……」
「聞いている。毎度同じ話をな」
「すまない……」
「謝るくらいならとっとと別れたらどうだ。前にも言ったがあの女は一生ああだぞ。あれはそういう気性の女だ。家に入れようとどうせすぐまた出る」
「そんな正直に言わなくても……。ああでも、そうだね、自分もわかっているんだ……。彼女は俺だけでは満足しないって。彼女は俺だけを選んではくれないって……」
陰気は色を濃くした。涙でもこぼすように息をついて、酒を呷る。少量の酒程度で和らぐものがあるのか気がかりだが、こうして酒の力も頼らないと満足に憂さ晴らしもできない男であれば、毒も薬になり得るかもしれないと思った。俺は駄目な男なんだ、と机に突っ伏すのを見下ろし、酒を呷る。滔々と泣き言を垂らすこの男には懇ろの女が居る。大人しかったのか装っていたかは知らないが、当初はこの男も本懐を遂げたことによって幾分か見れる顔だったのに、それがこうまで陰気臭くなるにはそう時間はかからなかった。女はとにかく気が移ろいやすかった。男にしろ物にしろ、手に入れるのも早く飽きるのも早い。質が悪いのはそれに無自覚であることだ。女の浮気に連夜飲みに駆り出され、我慢の限界に達した俺は女に直談判したことがある。しかし、あろうことか「浮気なんてしてませんよ。元直様をお慕いしておりますもの」と平然と言い、であれば他の男の元へ行くのはどうなんだと訊ねると、「何故です?」とさも不思議そうに逆に訊ねらて、女の気性を悟った。女にとっては、懇ろの男もそうでない男も大差ないのだ。自分に好意を示せば同じく返す。関係に名前がついたのはこの男がそうしたいと言ったから女も了承しただけで、これがもっと早くに別の男が言い出しても同じことをしていただろう。今以上に気落ちされては手に負えないので言わないが、そういう女であると火傷した後に気づいたならばいい加減別れるなり割り切るなりしてほしかった。
「この先もお前はあの家で帰りを待ち続けるつもりか?これは面白い。今のあなたは身持ちが固い人妻そっくりですよ」
「別にそんなつもりは……」
「では別れますか」
問いかけに、この男はうんともすんとも反応しない。怒られた子供を想起させる顔で視線を泳がせ、力なく項垂れる。こういう進展のない愚痴に付き合うのは、自分の時間をいたずらに浪費するようで嫌いだ。軍師という立場とそれに見合う実力を持っていない男だったら、飲みにも誘わなかったしどうなろうと知ったことかと一切関与しなかった。いつまでこのくだらん関係を続ける気だ。そもそもお前は切ろうと思えば切れる人間だろうに。徐元直という男は見てくれや言動は頼りないが、中身は意外とこちら寄りだった。自分は血の通わない冷たい人間だ、と自評するところを見るに自覚はしているんだろうが、深いところまでは見通せていないようだった。その気になればたとえ寝食を共にした奴相手にも情を切れるというのがこの男の本性であると俺には見えているからこそ、どうにもならん一人の女なんぞのために際限なく気を揉む姿は見ていて腹立たしい。いっそこれ以上の面倒事を起こさないためにも秘密裏にあの女を片付けてしまおうか。そんな考えが過ぎった時、肌を刺すようなあきらかな敵意を感じ取った。
「ええと、名前には手を出さないでほしいんだ」
自虐的に笑う男に、寒気を覚える。同時に癇に障ったのでやり返すことにした。
「嫌われたくないと言って手も出さず、行くなも言えない代わりに裏でこうして酒に溺れる男に言われてもな。これでは他の男に行きたくもなる」
図星を突けば予想通り更に肩を落として暗い雰囲気を濃くさせた。
「……やはり俺は男として駄目なんだ。彼女のことを大切にするあまり満足させられないなんて……。でも、もし触れでもして拒まれたら自分はきっと立ち直れないな……」
「今でも立ち直ってはいないだろ。そんなに気になるならさっさと触れ。名ばかりとはいえ、仮にも男女の仲なのだからあの女も拒まんだろう」
「名ばかり…………」
そこだけを拾うこの男に苛立って強く舌打ちした。愚痴に付き合うのも今夜を限りにするか。進展があるならまだしも、この男はうだうだ言うだけ言って結局何もしない。明日もまた本心を殺して女を見送るだけだ。
「お前は趣味が悪い。あんな女のどこに惚れて未だ手元に置いているか理解に苦しむ。お前なら自分に従順な女をいくらでも見つけられるだろう」
「……名前はとても眩しいんだ。こんな俺にも優しく接してくれるし、好きな物を覚えてくれてるし、きっと面白くないだろう話も聞いてくれる。彼女じゃなきゃ駄目なんだ、俺には彼女が居ないと……」
「向こうはそうでもなさそうだが」
「もう少し言葉を選んでくれても……。いやでも、そうなんだよ。俺には彼女だけだけど、彼女はそうじゃない……。きっと彼女の中の俺は随分下の方に居るんだろうね……」
「自分で言って自分で傷ついては世話ないな」
「……法正殿にはわからないよ、俺なんかの気持ちは」
「安心しろ。理解する気はない」
「酷いな」
はは、と笑う男に酷いのはお前の頭だと返したくなった。これほど憔悴しきって尚あの女のことばかり考えている。憐れを通り越して不気味とさえ感じた。こいつの自評の低さは散々見てきたが、ここまで来るとこれがこいつの気性だと言わざるをえない。こんなのでも戦場では化けるというのだから、つくづく食えない男だ。夜も更ける時分だと思い出し、そろそろ帰るかとなった時。
「―――元直様、元直様」
喧騒甚だしい酒屋で、その声はよく通った。鈴を転がすような高い声に俺もこいつも顔を向けると、そこには件の女が立っていた。硬直していたが、すぐに我に返って慌てて腰を上げる。
「どうしてこんなところに……!?」
「元直様の帰りが遅かったので、城の方に訊ねたらここに居ると教えられ迎えに来ました」
「供も付けず一人でなんて危なすぎるよ……」
それには流石に同調した。雲もなく月明かりが満遍に降り注いでいるとはいえ、時分は遅い。女が独り歩きしていい時間帯ではないのは確実だ。何を考えているんだこの女は。
「帰宅の遅い元直様を心配して来たのですが、迷惑でしたか?」
きょとんと首を傾げるので、怒るに怒れず男はゆるりと頭を振った。すっかり絆されたようだ。つい先程まで暗雲が立ち込めていた顔は和らぎ、放っていた陰鬱な気は払拭されている。女を前にするあの男は頼りなげに、しかし心から穏やかな笑みを浮かべていた。この女の言一つでこうも翻弄されるとは。やたら威張ればいいとも思わないが、こうもいいようにされているのは見るに堪えない。女も女で、日の明るい時間帯はずっと他所の男へ通っているというのに、どういう風の吹き回しだ。ますます気性が掴めなくなった。成り行きを見ていた俺に気づき、女は揖する。
「こんばんは、法正殿。今日は月が綺麗ですね」
「ええ。おかげで鬱陶しいものもよく見えましたよ」
隣の男を目で示すと、意図を理解した徐庶殿は肩を縮こまらせる。女は疑問を浮かべて両者間に視線を遣った。
「元直様がお世話になったようですね。お礼は後ほどさせていただきます、法正殿」
ぴしっと空気が固まる。自分の男を傍に置きながら眼前で粉を撒く女の肝には、流石の俺でも驚いた。さて、どうしようか。茶屋遊びは人並みに愉しむが、略奪に興じる趣向はあいにくない。それに、薮を突いて巻き込まれるのも面倒な上、目先の欲に眩み、何に手を出すのか見えぬ馬鹿な男共と十把一絡げにされるのも癪だ。断ろうとした俺よりも、隣の男が動く方が早かった。細い肩を抱き寄せ、俺との距離を無理やり作る。
「……法正殿への返礼なら俺がするから、きみは気にしなくていいよ」
「そうですか?」
「うん。ええっと、そういうわけだから、また明日でいいかな、法正殿」
そこで正気に戻るのか。小さく嘆息して首肯した。
「……いいですよ。たっぷり返してもらいますから」
「法正殿が言うと洒落にならないな……。頑張ってみるよ」
じゃあ、と言って女の手を引いて店を出ていく。その姿を見送ってから酒を呷った。
「なんだ、触れるじゃないか」
一人呟き笑みを浮かべる。結局しばらく飲んでから帰宅した。