若干のグロ、流血描写含む。



澄み渡る晴天。うららかな日差しの元で剣を振るっていると、女官の色めき立つ声とそれに交じった男の声が聞こえてきた。つい、と視線を滑らせ胸中が暗澹となる。二人の女官に挟まれて破顔する郭嘉殿。宮中の誰しもが見慣れた光景がそこにあるだけ。だが、その度に自分の心は鬱悒いとなる。奥から滲み出す暗い感情を払うように頭を振り、剣を構える。この時間だけが救いだ。雑念に囚われなくて済む。

「――名前殿の姿はいつ見ても私に勇気を与えてくれますね」

「……郭嘉殿」

「こんにちは」

肩を叩いた声に剣を下ろすと、彼は和らげに笑んで手を振った。廻廊を降りて日差しの下に出てくると、色彩の薄い金の髪が陽光を返して綺麗に輝く。日頃室内で執務する彼の肌は女の私より色白で、晒された首元から堪らず目を逸らした。その先には手入れされていない自分の手があり、気持ちが更に塞がる。

「おひとりで鍛錬ですか?」

「ええ、まあ……。次の戦でも功を立てるためにも」

「精が出ますね。私にもわけてほしいくらいだ」

「……郭嘉殿はいつもと変わらぬように見えるが」

「そうですか?」

先程とか、と本音が胸を衝き、慌てて飲み込む。悋気を起こしたと明かすようなものだ。気分が音を立てて騒ぎ始めたため、この場を離れることに決める。

「……于禁殿に呼ばれている故、これで失礼する」

揖した後、その場を後にした。道中、ふと廻廊より外へ目を遣る。強い日差しが落とされることによってあらゆる物には濃い影が伸びていて、それはまるで今の自分の心境に酷似していた。



――許昌から遠く離れた地。ここは幾度もの戦が繰り広げられており、おかげで有様は惨憺たるものであった。地は割れ、細長い亀裂は干上がった川のよう。生える植物といえば日光を養分とするものくらいで、それも強い日照りによって地面へ項垂れている。何里も先の峨々と連なる山脈がありありと見える。天候に恵まれ、視界は良好。来る途中で慈雨にありつけ、兵士たちの士気も万全。だというのに、突如本陣への撤退命令が下された。

 撤退途中で思わぬ襲撃に遭い、拠点に着く頃には半数近く減ってしまった。到着後、そのまま郭嘉殿ら軍師の居る天幕へ向かった。見張りに通すよう言うと一度中に入り、すぐにまた出てきて「どうぞ」と通された。中には、地図を広げた机を囲むようにして三人の男が立っている。そのうちの一人が郭嘉殿だった。私を見るなり、戦時中らしからぬ柔和な笑みを浮かべる。

「無事の帰還を待っていました、名前殿」

「早い撤退のおかげで思った以上に兵が残りました」

「いや、読みを間違えたのはこちらの落ち度だ。不味いことになってしまいましてね」

郭嘉殿が苦々しく言うと、その後を継いだのはもう一人の軍師の男だった。

「間者が紛れ込んでおったのですよ。おかげでこちらの情報はあちらに筒抜け、糅てて加えて先の降雨で緩まった地盤に苗字殿の軍を引き寄せ、足を掬われたところを、こちらの想定以上の伏兵と共に一息に叩く腹積もりだったようです」

「道中の伏兵はそのためだったか」

「状況は芳しくありません。敵方の主将は我々が容易に手が出せない場所に居る。軍を引き連れてなど到底不可能」

もう一人の男が暗く吐き捨てる。静まった天幕で声を上げたのは、郭嘉殿だった。

「――主将を名前殿に任せたい」

郭嘉殿は私を見据える。薄く笑んでいるが、それが冗談の類ではないことを知っている。わざわざ私を指名したということは、兵士たちを引き連れて向かえ、ということではないのはすぐに悟った。否を説いたのは他二名の男たちだった。

「なっ……、何を言うのだ郭嘉殿!苗字殿一人に任せるなど無策が過ぎますぞ!」

「軍を引き連れて進行できない場所であることは確かですが、かといって一人ではあまりにも……。せめて五十、いや三十はつけませんと……」

「その方がいい。だいたい女人一人でなど――」

「名前殿を一人で行かせる以上の名案が、貴殿らにはあるのかな?」

郭嘉殿が遮り、空気はぴたりと静まった。痛いところを衝かれた彼らはぐっと押し黙り、居心地悪く視線を泳がしている。名を呼んだ郭嘉殿が私を見遣る。

「お任せしてもよろしいか?」

真剣な眼差しに、こちらも力強く首肯した。

「無論。今度こそ敵の首級を挙げてみせよう」

「郭嘉殿!勝てぬと知って捨て鉢となられたか!」

「――軍師殿」

叫んだ男に向き直ると、私の視線に怯んで押し黙った。しかし、その目には強く非難の色が散っている。

「将軍の座は決して飾りではない。その座を拝命する以上、尖兵となって散ることを臆していては曹操殿の覇道は切り開けぬ。私は確かに女の身であるが、郭嘉殿は腕を見込んで迎え入れた。であれば、その信頼に報いるのは武人の本望」

ここまで強く言えばさしもの彼らも納得せざるをえないようで、空気は一転してこちら側に有利となった。ただでさえ策に弄された兵士たちは傷ついているというのに、身内の揉め事で士気を下げたくない。決行は月が出始める夜間ということで決まり、天幕を辞した。

 そして夜。空には雲が多く、月明かりはそれに隔てられて僅かにしか届かない。昼間の熱気がうっすら漂う中、支度を済ませた自分は天幕を出ようと剣を手に取った。そこで、入口の布を払って入ってくる人物が居た。

「……郭嘉殿」

思いもしなかった人物にしばし瞠目する。そして彼の持っている物に気づいて眉を顰めた。持っていたのは酒瓶だった。それと二つの盃。飲んでいたのか、これから飲むつもりなのか。どちらにしろ不謹慎に思えた。非難する語調にも彼は態度を崩さず、のらりくらりと私を座らせ、向かい側に彼も膝を折った。とくとくと盃に酒を注ぐのを見てもう一度名前を呼ぶ。

「戦時中であることをお忘れか」

「だからですよ」

「何を言って――」

「あなたと酌み交わしたいのです」

普段の私であれば嬉しさを胸に押し込み、辞退していただろう。だが、今の言葉はどこか切なげに響き、柔和な笑みに影を感じてしまった。その理由はわからない。これでなくても自分に彼の真意を探ることは敵わないというのに、いつも以上の距離を感じてしまっては盃を断ろうはずもなかった。一献だけ、という約束の下に盃を貰い受ける。それには黄色の菊の花が乗っていた。

「郭嘉殿、これは……?」

「菊花酒をご存知ですか?」

ゆるりと首を振る。

「厄を払い、健康と長寿を願って飲む酒です。ですからどうしてもあなたに飲んでいただきたかった」

本来は一晩浸すんですけどね、と彼は笑う。酒は付き合いで嗜む程度なので、そういった知識は皆無だった。菊を浸して飲む酒があるなんて初めて知った。そしてそれを飲ませる理由も察しがつく。ふ、と口角が緩んだ。

「郭嘉殿の信頼に応えるためにもいただこう」

「十分応えてもらっていますよ」

「郭嘉殿の盃にはないようだが、貴殿は飲まれないのか?」

指摘すると、手元に顔を落とした彼は静かに目蓋を伏せて笑う。

「女性と飲む酒以上に効く薬はありませんから」

「貴殿は相変わらずだな」

不思議と気分は沈まなかった。ここが戦時中というのもあるかもしれないが、一番は彼が酒をわざわざ持参し、私を案じてくれたからだろう。二人きりというのに気分は寝静まったように落ち着いていて、言葉がなくとも心地良さを覚えた。その中で一つ意を新たにする。天幕を出る時振り返って、彼の名を呼んだ。

「貴殿に出会えたことは、我が人生最大の喜びだ。向けられた信頼には全霊を以て報いよう」

彼を密かに慕っていたこの気持ちは、この地に置いていく。これよりは郭嘉殿の一番槍として武を振るおう。天幕を出た自分の胸は、天啓を得たように晴れ晴れしていた。

 深く繁茂する木々の間を夜目頼りに進み、ふと空を仰ぐ。高くそびえる大木の梢は、さながら天を隠さんと伸ばす腕のように互いに絡み合い、雲から覗いた月の明かりは今度は葉によって遮られる。なんと恵まれているのだろうか。これほど夜襲に適した天候はない。加えて夜間に活動する野良の動物とも遭遇しないまま、敵主将が踞する天幕にまでやってこれた。

「と言っても、流石にここは堅固か……」

見た目こそ他と同じ天幕だが、一目でわかる過剰な見張りの数が、そこに主将が居るのだと教えている。万が一に備えて細心の注意を払い、近づく。正攻法では返り討ちに遭って終わる。天幕を離れ巡回する一人の見張りの男を茂みに引きずり込み、口を押えて首を斬る。事切れたのを確認してから男が持っていた松明を取り、男の体に点火した。轟々と燃え上がる炎から素早く離れ、わざと「火事だ!」と叫ぶ。すると、どうだろうか。糸を張ったような緊張感が一気に崩れ、喧騒が起こる。何処だ何処だと方々を駆け、見つけた炎の元を鎮めようと大勢の見張りが持ち場を離れた。天幕から一度だけ主将が顔を覗かせたが、事態を知るや否や興味を失ったかのように中へ入り、出てくることはなかった。男に着けた火はたちまち木々へ移ろいだので、喧騒は今後しばらく収まらないだろう。

「なら今しかない」

呟き、その中を突っ切った。想像以上の火力に驚いたようで、周囲へ散らす注意力はないらしい。難なく主将の居る天幕にまで辿り着き、大胆にもそのまま入った。

「誰だ貴様!!」

「曹魏大将軍苗字名前。我ら曹魏の礎となられよ」

「なっ……!魏軍の大将軍だと!?ふざ――」

狼狽も覚めやらぬ状態で出ていこうとするので、衣に忍ばせていた剣を脚に狙って投げ、呻きながら倒れる男を上から押さえつける。誰かが来る前に事を終わらせようと、脚の剣を抜いて今度は首に刺す。鮮血が散って、暴れていた手脚もしばらくすると静かになった。切断した首を布で包んだところで背後で物音が立つ。

「丞相殿……!――貴様っ、魏軍の奴だな!?おい!誰か!魏軍の手先が紛れているぞ!!」

「もう嗅ぎつけられたか」

「一人で来たのが運の尽きよ、決して逃がさぬわっ!」

男の怒声を聞きつけ、ぞろぞろと敵兵が集まってくる。天幕内での戦闘は避けねばならない。剣で布を切り、外へ出る。既に情報を回っていたようで、何十人もの武装した敵兵が待ち構えていた。我先にと伸ばされるいくつもの剣先を掻い潜り、退路を進む。夜間に敵兵の足音はよく響いた。松明を持って追いかけるので明かりに事欠かず、おかげで来た時よりも走りやすい。待て、と後方から怒号が飛んでくる。このまま行けば後は郭嘉殿がやってくれる。慌ただしい足音が遠くなり、脳裏に郭嘉殿に伝えられた計画が蘇る。計画はこういうものだった。闇に乗じて敵将を討ち、追走する敵兵をとある場所まで引き連れるというもの。わざわざ大群率いて向かう必要はない、刺激して引きずり出せばいい、というのが郭嘉殿の考えだった。しばらく走っていたが、急に視界が開ける。空を覆っていた梢が取り払われ、月明かりが直に降り注ぐ。銀色の光に照らし出されたのは、峨々とそびえる山々の肌だった。目的の場所に到達したことで脚を緩めると、ひゅん、と風を切っていくつもの矢が体に刺さった。

「ぐっ……!」

脚にも刺さり、思わず膝を突く。だがすぐに立ち上がって敵兵たちを捉えた。深い繁茂からぞろぞろ出てきた敵兵たちは、みな一様に勝利を確信した笑みを浮かべており、中には同士と笑い合う者も居た。

「まさに袋の鼠だな。覚悟しろ」

そう言って剣を振り下ろす。負けじと自身の武器で応戦した。四方から突き出る剣先を捌くのは、存外困難を極めた。と言って死を甘んじるわけにはいかない。曹操殿の覇道のため、何より郭嘉殿に報いるため、易々と死に晒すわけにはいかない。間近に迫っていた剣先を払った直後、鋭い衝撃が横腹に伝わった。

「ぁがっ!」

刺した男がにんまりと笑う。どくどくと男の剣を赤く染め上げ、留まることなく血が滴る。したり顔の男を渾身の蹴りで遠くへ飛ばすと、激痛が走って地面に手を突いた。刺された箇所を抑えるが、指の濡れる感触しかしない。止血などできようはずもない。敵兵は続々と集中してくる。口の中で広がる鉄の味を吐き捨て、再度剣を取った。が、しかし眼前に立ちはだかった男の脚によって払われてしまう。

「しぶとい奴だ。いい加減死ね」

冷たく見下ろす男が、剣を振り上げる。同時に遠くから音が聞こえ、ふっと笑みがこぼれた。男は怪訝な顔を見せる。

「――窮鼠猫を噛む、という言葉を知っているか」

「……何?」

胡乱な声を上げた男に被せるように、別の男が「なんだあれは!」と叫んで指をさした。見下ろしていた男も声に釣られて顔を上げる。ごろごろと鳴動のような音が遥か上からすれば、どんな者でも見上げるだろう。その隙を突いて茂みに飛び込んだ。何処行ったと張り上げた声が、悲鳴に変わるまでに時間はかからなかった。見晴らしが良いというのは裏を返せば障害がないということ。急峻な山々の足下まで誘き寄せるのが自分の役目だった。そこまで来たら後は一網打尽。山の高みより岩を落とせば殲滅できる、が郭嘉殿より伝えられた案だった。これで長く続いた戦いもようやく終わる。ほう、と息をついた時、体が傾いた。全身はすっと冷えていき、やがて意識は暗転した。



――次に目を覚ましたら見慣れぬ天蓋が飛び込んだ。上体を起こそうと力むと激痛が横腹に走った。

「うっ……」

痛みに呻く。手を宛てがったそこは確か敵兵に刺されたところだったか。首を巡らせ状態を見る。腹には包帯が巻かれ、その他の傷も手当されている。室内は整えられており、どこぞの官の房かと思った。無理を押して上体を起こし牀から脚を出す。自分の私室ではない。茂みに身を潜めた以降の記憶が欠けている。そこで気を失ってしまったようだ。さっと武器を探すが、どこにも置かれていない。身にまとうのは寝衣の一枚のみ。ここが知らぬ場所である以上心許ない。何か武器になりそうなものはないかと手近な物を探っていると、ふいに扉が開けられた。

「ああ、よかった。目を覚ましたんですね」

郭嘉殿だった。破顔する彼に、自分は瞠目する。平服姿の彼は茶杯を一つ持っていた。

「郭嘉殿、ここはもしや許昌だろうか」

「流石、察しが早い。そうですよ。ああ、これは薬湯です。傷に効きますよ」

牀に腰掛けるよう促され、並んで座る。手負いの体だと知っているが、独特な臭いに食指が固まる。茶杯を受けても飲まずにいる私に、郭嘉殿は苦笑した。色々聞かねばいけないことがある私は、それを傍らに置いて彼と向き直った。

「戦がどうなったかお聞きしたい。我々は勝てたのだろうか」

心臓が不自然に脈打つ。泰然自若であるべきだと己を律しているのに、抑えられない。図らずも拳を握ると、彼が失笑するのが聞こえた。

「郭嘉殿?」

「名前殿はどこまでいっても強い人だ。……ええ、こちらが勝利しましたよ。これも名前殿の尽力の賜物。傷が癒えたら褒美を出したいと曹操殿がおっしゃっていました」

「曹操殿が……。いやだが、よかった。これでまた殿の覇道が近づいた。郭嘉殿、手間をかけさせて申し訳ないのだが、殿には褒美は要らないと伝えてくれないだろうか。ほんとうは私が赴かなければいけないのだが、動くまでには時間を要してしまう」

「これくらい構いませんよ。ですが、いいので?せっかくの褒賞の機会を失くすことになりますよ」

「過ぎた物は望まない。殿の剣となりお役に立てれれば、それで十分なのだ。それに此度の勝利は私だけのものではない。郭嘉殿の賢才あってのこと。むしろ自分に回される褒賞は、貴殿に差し上げたいくらいだ」

からからと笑う。横腹が痛んでそこを抑えた。本調子に戻るにはまだまだ時間がかかるみたいだ。ふいに郭嘉殿が動き、横腹を抑える自分の手に彼自身のそれを重ねる。

「か、郭嘉殿?」

「……それが本心なら、ありがたく頂戴してもよろしいでしょうか」

そう言ってみせた彼の声は、かの地で酒を酌み交わしたあの声に似ていた。切なく、どこか淋しげで、影を感じさせる。とくん、と心臓が跳ねる。置いてきたはずの気持ちが蘇りそうになり、慌てて蓋をする。いけない。これは置いてきたのだ。今からは彼の一番槍となって武人に生きると決意した。女としての幸せは望むまいと決めただろう。だというのに傷を撫でる彼の手つきに、思い詰めたように見つめる眼差しに、胸の奥が痛んで何かを叫ぶ。振り払うように顔を背けても、その声は指を通り抜けて自分に聞かせてくるのだ。あらん限りの否定の言葉さえも効かず、たった一つの言葉を繰り返し繰り返し聞かされる。やめてくれ、私はそれを捨てたのだ。

「あなたが確かにここに居るという証を、私にください」

「……郭嘉殿」

「今一時だけで構わないのです。あなたに触りたい」

切なげな眼差しで、甘やかに囁く。何かが外れたのを自覚し、彼の肩を押した。

「……それだけはできません。できないのです、郭嘉殿。貴殿に渡せるものを、私はあの地に置いてきてしまった。今の私には何もない」

私は郭嘉殿を慕っていた。武一辺倒で女としての華など持ち合わせていない私を、彼はいつも花のように扱い、女の身で戦場に立つことを否定しなかった。忌避することも、貶すことも、憐れむことも、嘲笑うこともなかった。綺麗なあなたに女として扱われる度、自分が如何に女として欠けているか思い知らされた。彼に懸想する女性はみな嫋やかで可愛らしい方ばかり。気に入られようと研鑽する人も居た。だが、自分にはできなかった。女を磨くことより武を磨く方を選んだ。初めての恋慕は、その選択をした日から永劫叶わないものとして日陰に追いやることにした。彼に女として好かれなくていい。武人として認めてくれればいいと、他の女性に声をかける様を見て痛む胸を鎮めてきた。それもいい加減終わらせようとし、あの場所、あの夜にひっそり置いてきたのだ。

「武功しかあなたに渡せない。郭嘉殿、どうかこんな女はおやめください」

こんな言葉を言う日が来ようとは。胸の痛みは、敵兵に刺された腹の痛みより余程強烈だ。顔が見れなくて項垂れていると、頬に温かな熱が当てられた。やんわり持ち上げられ、郭嘉殿の顔が目に入る。嬉しそうに微笑む彼が居た。頬に当てられた彼の指が目元を優しく撫でる。

「私はね。あなたを一目見た時から、あなたのことを忘れられなくなったんですよ」

「…………え」

「傷ついても尚、華奢な体で戦場に立つあなたの姿は、誰よりも勇ましく美しかった。あなたに斬られる敵を羨ましく思ったこともあるんです」

「か、郭嘉殿……」

「あなたの剣を振るう姿は私の心を穿ち、あなたの笑う様は私の視界を輝かせ、あなたの言葉は容易く私の心を拐っていってしまわれた。――同時に、女性に臆したのはあなたが初めてだった」

「郭嘉殿が?何故……」

ふ、と息を吐き出し目蓋を伏せる。長い睫毛が目元に影を落とした。

「あなたがあまりにも真っ直ぐで、美しいから。こうしてあなたの許しを乞わないとままならないのです」

「わ、私はそんなたいそうな女では……。郭嘉殿の買いかぶりです」

「そうかな?だが、あなたに心を奪われたのはほんとうですよ」

鼓動が逸る。白昼夢を見ているんじゃなかろうかと自分を疑ってしまうほど、信じられない言葉だった。だって自分の想い人が自分を慕っていたなんて、そんな幸福あろうはずがない。じわりと視界がぼやける。胸の奥が痛くて堪らないのに、不思議と辛くない。

「私に渡せるものはないとおっしゃったね。だったら私の心をあなたに渡すから、あなたの心が欲しい」

「……本意で言ってますか」

「あなたのことに関してはいつでも本気ですよ、私は」

嬉しさが胸を突き上げる。限界だった。堪えていた涙はぽろぽろ溢れ、頬にいくつもの筋を作る。拭おうとした私の手よりも早く、郭嘉殿の指が涙をそっと拭う。優しく、温かい。良いのだろうか、女としての幸せを望んでも。きっといいはずだ。だって彼がそれを望むのだから。頷く代わりに彼に抱き着くと、驚きつつも背中に腕を回してくれた。とくん、とくんと控えめな鼓動が布越しに伝わってくる。これがほんとうの天啓かもしれない。





夜ごと胸に殖える呪文
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