暖かい日差しが午睡を誘う昼下がり。鍛錬終わりの子龍様とばったり出くわし、たわいない言葉を応酬させていた。そんな中、子龍様が突然呟いた。
「好きだ」
月餅の美味しい店を知っているという話の最中、彼は突拍子なくそう言い放った。自分の聞き間違いかと一瞬沈黙したが、その沈黙は彼もで、お互い目を丸くさせているものだから、私はそれが間違いなく彼から発された言葉であると理解した。固まった空気で最初に言葉を発したのは、意外にも子龍様だった。
「す、すまない……!変なことを言った……」
物腰穏やかな方にしては珍しくあからさまに狼狽した。たちまち顔を赤く染め、言葉を撤回する。槍を持たせれば負け無しと恐れられる武人からはおおよそ想像つかない反応に、驚きで止まっていた心臓がとくんとくんと逸り出す。針先で突くような痛みが胸を苦しませ、芯に火を灯されたかのように体がかっと熱くなる。痛みも熱さも決して不快なものではなくて、むしろ酔ってしまいそうなほど甘やかだった。
「……私も、子龍様をお慕い申しておりました」
気づいたら胸に秘めた気持ちを告白していた。ほんの僅かに目を見開いた子龍様だったが、言葉を飲み込むと腕を上げ頬に触れた。篭手の固い感触しか伝わらないが、それは表面上だけの話に限る。頬を撫で、私を見下ろす目のなんと柔らかなことか。鉄の感触しかしなくとも、それを冷たいなどとは思わなかった。これほど優しく触れるこの手が冷たいはずがない。万感の想いが胸を押し上げ、涙が滲み出す。はらりとこぼれた一縷の粒は、優しい指が拭ってくれた。
念願叶って子龍様と通じ合い、幾月過ぎて季節が一周した。梅の梢が鮮やかに彩られる時期。冬を無事に越せたことを祝って母から寿桃包を貰った。
「もうすぐ子龍様も帰ってこられるし、お茶を淹れなきゃ」
酒宴に誘われたとかで帰宅はいつもより遅い。蜀で彼以上の腕を持つ武人が居るとは考えられないが、やはりそれでも夜では心配するもので。夜襲されないだろうかとか、酔いすぎないだろうかとか色々。考えすぎはよくないと幼少期から母に注意されてきたが、大人になっても改善できていないようだ。息をついてお茶の支度を進める。月も傾いた頃だしそろそろ帰ってくるだろう。その読みは事実的中した。
「今帰った」
表側から愛しい彼の声が聞こえ、作業もそのままに厨から飛び出る。そこには平服姿の子龍様が立っていた。
「おかえりなさい!」
「ああ。変わりはなかったか?」
「はい。あ、母から寿桃包を貰ったんです。お茶を淹れたので一緒に食べませんか?」
「ああ、貰おう。あなたの淹れる茶は一段と美味しいから、寿桃包によく合うだろうな」
「子龍様にそう言ってもらえるなんて、頑張った甲斐がありますね」
見た限り子龍様のどこも怪我しているように見えない。受け答えもしっかりして、焦点も私に定まっている。やはり心配し過ぎたようだ。直さないとな、なんて考えつつ家の中へ戻ろうとしたのだが、子龍様が微動だにしないで私を見つめていることに気づく。
「子龍様?どうかされましたか?」
やはりどこか悪くされたんだろうか。収まったはずの気がざわざわし始め、よく見ようと彼を覗き込む。なんとも言えない神妙な顔をしていた。それの意図するところがわからず、私はただ困惑する。視線の先に自分を捉えたまま動こうとしない子龍様。時間が経つにつれて、自分も微動だにせず彼を見つめ返してしまう。月に照らされる子龍様の髪は綺麗だな、なんて場にそぐわない感想を抱いた時。名前を呼ばれた。真剣みを帯び、どこか緊張している声色に感じられた。
「……今日、酒宴で各々の伴侶の話が上がった」
「はい」
「不満を洩らす者、もっと良い妻が欲しかったと嘆く者、反対に自分には過ぎたるものだと褒める者、子細を挙げて好きだと言う者、色々見た」
「まあ……」
「だが、一様に帰りを待つ女が居るというのはよいものだと口を揃えて言う。この身は劉備殿のためにあり、劉備殿の志のためであればたとえ死ぬことも厭わない。そう覚悟して剣を振るってきた。だが、今はあなたが居る。いつこの身が朽ちようとも悔いはないと思っていた私が、戦場で思うのはあなたのことだ。……あなたの居るところへ帰りたい、そう考えることが増えた」
彼が紡ぐ言葉一つ一つが胸を満たしていき、指先までじんわり暖かくなる。心臓が歓喜に震え、その波の激しさにじんわり涙が浮かんだ。どうして彼はいつも私を喜ばせる術を知っているのだろう。貰う分以上の愛を返したいと思うのに、これでは返す分より貰う分の方が多くなるではないか。ただでさえ今ある分も返しきれていないというのに。こぼれそうになる涙を堪えて、彼を見つめる。この目にしっかり焼き付けておきたいのだ。彼のどんな姿も。
「―――この先、あなた以上の方とは出逢えないと思っている。どうかこの趙子龍の妻となって、帰りを待ってもらえないだろうか」
嬉しい。こんなにも嬉しいことがあるなんて。胸を満たすこの気持ちを上手く言い表せられないのが悔しいけど、それでも自分のとる行動だけはしっかり決めていた。
「名前は待ちます。子龍様の帰りを、ここでいつまでもお待ちしております。―――お慕いするあなたを出迎えるために」
堪えていた涙はとうとう流れ落ち、頬を滑り落ちる。篭手をつけていない彼の肌が直に触れる。涙を拭う指はいつかの日を想起させるほど優しく、暖かいものであった。