魏帝崩御の報は、瞬く間に宮中に波及した。父・孟徳が六年前に病没し、後を追うようにしてその長子・子桓も病没した。因果か天命か。血相を変えて慌ただしくなった宮中を抜け出し、厩に訪れた。目論見通りそこには愛馬を撫でる文烈の姿があった。

「―――お前はいの一番に子桓に会いにいくものと思っていたぞ」

声に振り返り、愛馬の首を撫でていた手を離し揖する。必要ない、と言葉で言っても聞かぬ気性だと理解した私は片手を立て、構えを解く意を示した。腕を下ろした彼は自嘲気味な薄ら笑いを浮かべ、愛馬に視線を落とす。

「報せを聞き、すぐにお会いしました。子桓殿は安らかに眠っておられましたので、眠りを妨げてはいけないと思いこちらへ」

「……ああ、あの集まりようでは却って邪魔になる、か」

考えるように顎に指を当て、厩の天井へ視線を上げる。今しがた抜けてきた子桓の私室の情景が蘇り、そう吐いた。人が良い文烈は「みな子桓殿が大切だったのですよ」と言うが、いつもの威勢の良さはなく、表情はやや翳りを帯びていた。意外にも目元を腫らしていない彼だったが、しかしこれでは泣いていた方がよかっただろうと憐憫してしまうほど、痛々しい目をしていた。我慢など、この曹魏で一番似合わない奴だというのに。

「子桓も馬鹿な奴だ」

そう吐く私を、文烈は驚いた目で見遣り、即座に「何をおっしゃいますか!」と怒り半分窘め半分で声を張る。なるほど曹操にも子桓にも似ていないと思っていた顔立ちだったが、気色ばむと確かに血縁者であることを語る。驚く彼とは対象に、自分の心境に波は立たない。怒るだろうことも織り込み済みだ。

「父・孟徳の跡を継ぎ、しかし父とは違う次代を作ると豪語しておきながら、たった六年で父と同じ末路を辿るとはな。私を引き留めてまで力を乞うたくせにあっさり逝きやがった。馬鹿者以外、どう評せよと」

「子桓殿は立派な方でした。殿の没後、途端荒れた宮中を宥め、挙兵する諸将を説き伏せ、曹魏の地盤を確かなものへとしました。子桓殿以外ではできなかった所業です」

「だが死んでしまえばそれまでだ。骸は語らぬ。骸は動かぬ。骸には、誰も拝さん。せいぜい価値を測る物差しに利用される程度」

「そのような言い方……!」

「事実、後継を曹叡にするべきか他を立てるべきか争う者が出てきている」

声量を落とし静かに言うと、文烈ははっと目を見開いて閉口する。どれほどの人心を集めようが、どれほどの武功を立てようが、一度没してしまえば最後。途端、保身に走る者と出世を目論む者に分断される。孟徳についた時覚悟していたつもりだったが、それでも気分が晴れるものではない。汚泥を口に詰め込まれたような心地になる。ほんとうは孟徳が死んだ時に宮中を去るつもりでいた。それを留めたのは子桓だった。「次代を拓くには力はあって困らん。望むものを見せてやるから力を貸せ」と不遜に言い、私はやむなしと再度降った。というのにその子桓も息絶えた今、正直自分がここに留まる理由などない。

「孟徳も子桓もただの測りとして落としたくないならば、お前自身が測りとなればいい。お前は誰よりも近いところで二人を見てきた人間だ。曹魏を掌中之珠と思うなら、もう一度駆けてみせろ」

湛える笑みに、文烈は名を呟き、自身の愛馬へ顔を向ける。高く持ち上げられた鼻梁、孟徳とも子桓とも似通う目元、馬の尾のように揺れる高く結われた髪、程よく引き締まった長駆。これほどに輝かしい玉を翳らせるのは忍びない、と老婆心が働いてしまうほどには、この文烈という男に当てられていた。赤壁の戦いで、ただの傭兵である私に全幅の信頼を無条件で渡していなかったら、こうまで入れ込むこともなかったろう。孟徳と言い子桓と言い、曹家の男は何故こうも。と、考えてはっと我に返る。鼻先にまで詰めていた文烈の顔に気づいたからだ。一歩後退した私に気づき、目に見えて胸を撫で下ろす様に「どうした」と声を掛ける。

「いえ、急に黙ってしまわれたので気になって……」

おまけに注意力もある。一見、ただのお人好しかと思うが、内には堅剛な精神を秘め、あの二人とは違う求心力を持っている。愚直なまでの素直さが彼を彼たらしめているのだろう。これではあの二人を笑えない。

「名前殿に感謝を。子桓殿を亡くし途方に暮れていたのですが、その言葉にこの曹文烈がしなければならない責務を今一度思い出すことができました。……曹操殿も子桓殿も、名前殿を頼る気持ちがわかります」

「気にするな。知己の沈んだ顔を一日に二度も見るのは、流石に気が引けただけだ」

「名前殿も子桓殿を大切に想っていたんですね。そうとは気づかず失礼しました」

「鳥肌を立たせる気か、お前は。……だが、その顔を見るにもう私はいらんな」

「それはつまり―――」

「ああ。出ていくよ、ここを」

首肯してみせた私に狼狽を露わにし、肘を掴んだ。

「何故です!これからという時にあなたが居なければ……!」

「お前が居るだろう。それに私は傭兵、気に入った主君にしか従わん。孟徳につき、子桓にもついた。それは国のためでなく、自分が気に入ったからだ」

「曹叡殿にはつかない、と?」

「そうだな。つくほど思い入れもなければ、二人亡き今の宮中に留まるほどの興味もない」

「では、これからどうなさるのですか?あなたは」

「孟徳に出会う前の日々に戻るだけだ。田を耕し、賊に絡まれれば退治し、雨には大人しく家にこもって書に耽る。そんな日々にな」

「そんな……」

手を振り払われた子供のような目をする文烈に、胸がちくりと痛んだ。いつから私はこうも緩くなったんだろうか。間違いなく孟徳のせいだ。あいつに出会ってからというもの、一人が常だった自分の心境も生活もがらりと一転してしまった。昔の自分なら、他者に揺さぶられる情など持ち合わせていなかったというのに。

「俺にはまだ名前殿が必要です。人の言葉をそのまま受け取るきらいがあるとおっしゃったのは、誰でもないあなただ。あなたの教えをまだ理解しえていないのだ、……だからどうか、一人にしないでほしい」

「文烈」

「無礼は承知の上です。本来ならあなたは二人に仕える将であって、俺に仕える将ではない。それでも傍に居てほしい。そう思ってしまうのです」

切々とこぼす文烈の本意に、言葉が迷った。迷ってしまう自分が居ることに、困惑を覚えた。元来人付き合いを嫌う自分にとって、権謀術数が渦巻くこの場所は天と地のように相容れない。だが、この男にその気持ちが揺らいでしまう自分が居るというのもまた、受け入れ難い事実だった。肘を掴む手を払うことは簡単だ。強固な意を示せば、この男は不承不承ながらも引き下がるだろう。長考の末、口を衝いて出たのは深い溜息だった。

「私はこの先誰かにつく気はない。曹叡であってもお前であっても、それは変わらない」

「……そう―――」

「だが、お前が助力を求める時はいつでも応えよう。同じ戦いを生き抜いた、一人の戦友として」

仕方ない、と薄く笑んでみせた私に、悲痛な面持ちをたちまち輝かせる文烈。こうもありありと心情を語られれば、感化されても仕方ない。この男のために剣を振るうことも、やぶさかでない。つくづく曹家の男に翻弄されるのが私の天命のようだ。ふ、と肩の力を抜く私の肘を離して力強く揖礼する。

「曹文烈、この感謝は一生忘れず、あなたが曹操殿の時代から守ってきたこの魏のため、いっそうの武を振るってみせることを約束します!」

快活な声が響く。孟徳、子桓よ、私がそちらに赴くには今しばらく時間がかかるらしい。