名前殿は何処に居られるか!と叫びながら方々を走り回る御医が一人。捕まったら最後、とばかりに茂みに隠れ物陰に隠れ、挙句見張り番に扮してまで逃げ回った甲斐あり、小言多き御医に見つかることなく書庫へ逃げ遂せることが叶った。

「―――何の騒ぎ?」

だが、自分は一つ失念していた。小言の多い御医よりも面倒で厄介で、怒らせると恐ろしい人物が居ることを。静謐に落とされた声の主は書簡が収められた棚から姿を現し、戸口に立つ私を捉える。つう、と冷や汗が下りたのは言うまでもない。

「な、なんでしょうね。私にはさっぱり……」

「あなたの名前を呼んでいるようだけど」

「そ、そうですか?元姫の聞き間違いでは―――」

言いかけた途中で目を細められ、言葉が引っ込んでしまう。気まずい沈黙をどう解釈したのか、元姫の眉根は顰められ、雰囲気は剣呑を濃くさせていき、それに伴い房の温度が冷えていく。逃げてしまおうか、と脚を動かそうとした刹那。

「ぎゃっ!」

足先を向けようとしたその先に突き刺さる、見覚えしかない数本の鏢。調子の外れた情けない悲鳴を上げ、思わず尻餅つく私のすぐ後ろには元姫。恐る恐る見上げた彼女は、それはそれは見事な冷たい眼差しを湛えて仁王立ちしていた。美しい琥珀色は、今や鉄でできた城壁を想起させる。

「あなた、また何かしたのね」

「またって。まるで、いつも何かしてばかりみたいな言い方……」

「事実でしょう」

否定できないのが悔しいところ。ぐっと押し黙って視線を外す私に、元姫は溜息をついた。なんか親の手を煩わせた子供みたいな心地になり、むっとなる。だからってここで反論しようものなら、先程の鏢よろしく理路整然にまとめられた私の日頃の行いを非難する文章が突き刺さるだけなので、素直に認めることにした。逃げ回ってばかりの子上も、たまには人の手本になるようだ。

「今度は何をしたの」

怒らないから言いなさい、と表現できる物言いをされ、そこは慌てて否定してみせた。

「なんもしてないよ!」

「だったら何故、あなたの名前が叫ばれているの?」

「………………私のことが大好きな追っかけ、とか?」

たっぷり間を置いた後、ちょっぴりおちゃらけて言ってみせると、元姫の双眸が一気に冷えた。まだ冷えるのか、と謎に感心する私の前に飛び込んできたのは、今まさに撒こうとしていた御医その人だった。げっ、と苦い顔をする私に詰め寄る御医。怒髪天を衝いたようで、普段垂れている眦は見事に吊り上がっていた。

「名前殿!ここにいらっしゃいましたか!方々を走り回って手間をかけさせないで大人しくしてください!」

「…………なーんで今来るんですかあ」

泣き言を小さく漏らす私の後ろの人物にようやく目がいったようで、はっと佇まいを正して「これはこれは。お見苦しいところを見せつけてしまい、申し訳ありません王元姫様」と恭しく揖する。彼女はそんな御医の構えを解かせ、事の次第を訊ねた。

「はっ。つい先程潜り込んだ間者に負傷されたのですが、このように逃げ回られて、ほとほと手を焼いていたのです」

「事実なの?」

つい、と視線を落とされ、固くなる。

「それはなんというか、言い過ぎというか、誇張というか……。別に大した傷じゃ……」

「何を言いますか!どんな些細な怪我でも、放っておくとやがて大病の元となりますぞ!」

うるさいんだよきみ。そんなふうに言ったら、否が応でも行かざるをえなくなるでしょうが。主に元姫のせいで。そんな意を込めて睨めつけるも、流石は一癖二癖もある宮中でやっている御医というべきか、全く動じる様子はない。なんなら「なんだその目は。口答えする気か、もっと痛くしてやるぞ」とばりに言外で脅され、背筋が凍った。何こいつ怖い。それでも行きたくないと言う私に、元姫が溜息をついて、御医に言った。

「私がきちんと手当するから下がっていいわ」

「そうですか……。元姫様がおっしゃられるのであれば、私はこれで失礼させていただきます」

「…………私の時はあんなにうるさかったのに」

去っていく後ろ姿に愚痴を呟くと、頭上で冷たく名前を呼ばれ硬直した。今度は元姫に小言貰うのか、と内心気落ちしたところにふいに手を伸ばされ、その先を辿る。私を見る眼差しは呆れを孕みつつも柔らかいものだった。

「いつまで座ってる気なの。立って」

「あ、うん」

反射的に自分の手を重ね、立ち上がる。ついていたらしい埃を払われ、ふ、と息をつかれた。

「子上もあなたも、どうしてそう手を焼かせるのかしら。もう大人なんだからしっかりしてほしいのに」

「元姫が細すぎるんじゃ……。いえ、なんでもありません」

咄嗟に前言撤回し、書庫の奥へと進む彼女の背中を追う。逃げようかと考えたけど、ここを逃げてもあの小うるさい御医に捕まるだけだし、糅てて加えて怒らせた元姫にまで追われかねない。大人しく手当を受けるほかない、か。大したことないんだけどなあ。御医も元姫も細すぎる。生きてりゃ死ぬし、宮中でそれなりの地位に就けば更にその機会は増えるし、手当しようがしなかろうが死ぬ時は死ぬのに、まるで切り傷一つ治せば不死が入るとでも言うような考えは、正直納得できない。間者のこともそうだ。それで死ぬならそれだけだった、という話に過ぎないのに。普段を一緒にするのは嫌だけど、考えは賈充と重なるのでこういう時はそっちへ逃げたくなる。

「傷見せて」

書庫の奥にはちょっとした開けた空間があり、一つの榻が設けられている。そこに腰を下ろした元姫は隣に私を座らせ、催促した。

「ほんとうに大したことじゃ―――」

「しばらく太医令の下から出られなくなる方がいい?」

「わ、わかったよ!」

ほんとうにやりかねない雰囲気に負けて衣を緩める。胴を雑に一周する布を見て、彼女の眉間に険しい山ができる。確実にお叱りを受けるやつだ、と諦念を抱きながら布も取る。露わになったのは横腹を掠めた切り傷。布を巻いたおかげか出血は止まっていて、白い布には血が滲んでいる程度。なんともないでしょ、と言おうとした口から出たのは呻きだった。

「いっ……!」

断りなく傷口に指が触れ、鋭い痛みが走る。そんな私に元姫は呆れたふうに溜息をつき、新しい布やら膏薬やらを持ってくる。ご丁寧に水を張った桶まで。汚れた布を水に浸し、軽く湿らせた新しい布で傷口を拭く。痛い、と堪らず上げた私を「我慢して」と素気無く黙らせ、黙々と、しかし慣れた手つきで手当を施していく。膏薬を塗り新しい布を巻いたところで、彼女の手が事を終えたように下がっていった。ほう、と安堵の息をつく彼女。

「お腹切られて放置なんて、呆れた」

「大袈裟な。切られたって言ってもただのかすり傷じゃん」

「御医に言われたでしょ。どんな些細な傷でも大病に繋がるって。それなのにどうしてそう能天気で居られるの、あなたは」

そりゃ死んだらそれまでだからね、とは言えなくて笑うことしかできなかった。元姫は、私のような考えを嫌うだろう。自分を損なわないで、と言って下手したら持ち主以上に目をかけるかもしれない。それが彼女の美点であり、私には苦手とするところだった。雑に扱ってほしいわけじゃないけど、玉のように大切に扱ってほしいわけでもない。放っておいていいのに、と常思う。

「元姫が気にしすぎなだけだよ。放っといて大丈夫、大丈夫。こう見えても体の丈夫さには自信あるんだ」

茶化すように腕を曲げてみせたら、ふと頬に暖かな熱が伝わった。白い菊を想起させる細い掌がそこに添えられ、出し抜けのその行動に閉口し、彼女から視点を逸らせなくなる。私を真っ直ぐに見つめる彼女の目に、憂いを感じた。眉根は均一に整えられ、笑うでも怒るでもなく、傍から見れば無表情とさえ呼べる顔なのに、自分にはそう感じたのだ。

「―――心配なの。いつかあなたを失ってしまうんじゃないか、って。あなたは私にできた初めてで唯一の、…………友人、だから」

こぼれ落ちるような声量で、静かに言う。羞恥の色を乗せた頬はほんのり赤く色づき、しかしそれでも琥珀の瞳は私から逸らされることはなかった。彼女の持つ気性の温かさが手を介して移ったみたいで、胸の辺りがじんわり熱を持つ。苦手意識を持っていた彼女の美点に触れて自分が抱いたのは、隠しようもない歓喜だった。片付けるべく立ち上がった彼女の手を、思わず掴む。

「どうしたの?」

「あ、いや……」

言葉を用意していなかったので、問われて混乱する。目を丸くして私を見下ろす彼女の手を、それでも離そうとは思わなかった。子上が彼女を困らせる理由、少しだけわかった気がする。

「…………怪我、したらさ」

ぽつり。本音を伝えるのってこんなにも難しいことだったろうか。さぼりたいっていうことなら簡単に言えるのに。声が震えてしまいそうになるのを察し、わざと強く咳払いをする。

「元姫が手当してよ。元姫がしてくれるんだったら、大人しく診せる」

「御医に診せるのは」

「絶対嫌。彼に診せるならそこら辺の葉っぱでも当ててる」

「やめて」

強く両断した彼女は、眦を緩ませて笑んでみせた。

「約束ね」

首肯するように、彼女の手をきゅっと強く握る。