間者として潜り込んだ先の情報をまとめた書簡を見て、一言。
「上出来だ」
均一に整えられた眉毛一つ動かすこともせず、事務的にその成果を認めた我が主は、それだけ言って広げた竹簡を丸めた。感情を感じさせない深い色の双眸がつい、と私を捉える。
「引き続き己の任務に励め」
「はっ。必ずや賈充様の期待に応えてみせます」
拱手し頭を下げる。棄児だった私を拾い、育ててくれた賈充様。私はそんな彼の恩に報いるべく、間者として役割を買って出た。最初は棄児の戯言だと取り合わなかったが、時が経つにつれて素質を見出したのか、首肯してくれた。武芸を磨けばいい、と言った私に学を叩き込み、立ち居振る舞いなども教えてくれた。至らぬところもあったろうに、そんな私に失望せず丁寧に教え、育ててくれた彼には感謝しかない。
「お前に言っておくことがある」
退出しようと下がった私を、抑揚のない低い声が引き留める。なんでしょう、と振り返った私に彼は手元の書簡を見ながら、一言。
「妻を迎えることにした」
静かに紡がれた続きの言葉が、まるで空中で停滞しているかのように遠くに聞こえた。一つ、また一つと言葉が鼓膜に突き刺さり、浸透していったそれは胸の奥をひんやり冷たくさせる。迫ってくる言葉があったのに、何故か喉に張り付いて出てこようとしない。茫然と立つ自分へ深い色の双眸が向けられたことで我に返り、不格好極まりない拱手で頭を下げた。
「―――おめでとう、ございます」
本来ならもっと別の言い方で祝ぐのだろう。しかし、衝撃が抜けやらぬ今の自分ではこれで精一杯だった。賈充様が何を考えているかなどついぞわからなかった生活だったが、わかりたくないと思うことはこれが初めてだ。よく考えれば当然のこと。賈充様は子上様の側近で、かつ名のある家。次代を紡いでいくのは、当主としてやらねばならない役目。むしろ私のような者を手ずから育てたこと自体が極めて異例なのであって。何事にも動じない彼に倣って堅固な精神を作り上げたというのに、根底から揺さぶられてしまって、思考ができない。
―――この状態が最悪の結果を招くことも知らずに、房を出た。
それから日数を置かずに再度賈充様の元を訪れていた。以前は定期連絡として、今回は任の失敗を携えて。
「申し訳ありません賈充様っ……!」
もはや悲鳴に近い声を上げ、床に額を擦り付ける。頭上では失敗の報を聞き、眉根を顰める賈充様。感情をあまり表に出さない彼のその表情に肝が凍っていく。今回は潜り込んだ先の動向を監視する役割を任されていた。叛意ありと睨んでいたためだ。故にこの任務は火種に火が点く前に防げるよう、心してかからねばならなかった。相手に見抜かれることなく監視し、事に及ぶ気配が濃厚になれば事前に体勢を整えておく。みつきに渡って監視していたのに、逃がす隙を与えてしまった。一人で挙兵するとは思えない。逃げたということは匿う誰かが居るという証でもある。これが呉や蜀とくれば事は大きくなってしまう。簡単に予想できてしまうからこそ、己の失態が何を起こすのか理解し、芯から震えた。
「罰はいかようにも甘んじます故!何卒己の失態を挽回する機会をいただければ―――」
「必要ない」
即座に切られ、閉口する。打つ手立てなしとくれば、あとは一つしか残されていない。深い絶望の縁に立つ自分の脳裏に、拾われて以降の記憶がつぶさに流れてきた。得物に馴染むまでよく手を切っていたこと、それを賈充様が手当してくれたこと、物覚え悪い自分に呆れつつも勉強を教えてくれたこと、上手くやれば一言呟くように褒められたこと、それが嬉しくて嬉しくて夜を徹してまでやったら体を壊し却って怒られたこと。情景が一つ一つ胸に突き刺さり、目頭が熱くなる。泣きたくなくて下唇を噛み、ぎゅっと瞑目する。賜死の宣告を待つ私の後頭部に刺さったのは、意外すぎる言葉だった。
「お前らしくないな。何があった」
自惚れでなければこちらを慮るような声色に感じた。まさかそんなことを言われるとは思ってもおらず、覗き込むようにして見上げ、目を白黒させる。賈充様は眉目を僅かにも変えずに淡々と後を紡いだ。
「お前に限って叛意があるとは思えんが」
「賈充様に向かって叛意などっ……!」
するはずがない、と続く予定だった言葉は「だろうな」という彼の首肯で封される。
「任された務めをことごとく遂げたお前だからこそ、らしくないと言っているんだ」
「そ、れは…………」
す、と目を細められる。
「俺に隠し事か?」
唸るように言われ、全身が恐怖に総毛立つ。言わなければならない、と頭では理解している。けれど同等に言ってはいけない、とも響いてくる。まるで縄で縛られているように言葉も思考もままならなくて、力なく項垂れる。言いたくない、言ってはいけない。とても言えるものじゃない。そして沈黙する私の耳を打つ一言。
「妻を迎えると言った日を境に変わったな」
びくりと肩が跳ねてしまった。最悪だ、と青褪めると同時に足音が間を置いてからこちらに近づいてくる。一歩、また一歩と近づく音に鼓動は速くなり、嫌な汗が噴き出す。まんじりともできずに居ると、とうとう足音は目前で止まってしまった。名前を呼ばれる。それが顔を上げろ、と言外に求めているのは承知していたが、鉛のように重い頭は動かない。再度、名前を呼ばれる。堪らず声を上げた。
「賈充様……!どうか、どうかそれ以上は……っ」
「ほう?認めるんだな?」
しまった、墓穴を掘った。後悔するも後の祭り。三度、名前を呼ばれる。今度は固い声色で。逆鱗に触れたかと思った私は、それが取り繕いであったことを顔を上げて知る。
「お前が俺に口答えなど思えばこれが初めてか」
何が楽しいのか口端は僅かに吊り上がっている。望ましい結果をもたらした時に見る、あの笑みだ。何も返せず、何も言ってはいけないと、唇をきつく結び沈黙する。突然膝を折った賈充様は、私の頬に手を添えた。冷たい感覚に硬直してみせた自分に一言。
「今ならまだ優しくしてやれる。だから言え」
どう足掻いても自分に選択肢は与えられていないのに、彼の双眸は少しもこちらの失態を責めていなかったので、固い決意が揺らいでしまった。あれほどきつく結んでいた唇は、おずおずと動いた。
「私は、…………私は賈充様に結婚してほしく、ありません……」
娶ることを伝えられたあの日以降、ずっと心臓に穴が空いた心地だった。寝食もままならず、密偵として潜り込んだ先の人に注意されたこともしばしば。そんな気の抜けた自分が息を吹き返すのは、決まって夜だった。周囲が寝静まったその時分に胸の痛みは激しくなり、溢れる涙を抑えられなかった。育ててもらった恩を忘れて我を通すなど、そんな不義理にもそんな自分にも耐えられなくて、夜が来る度に嗚咽を殺して泣いた。賈充様の横に自分の知らない女が並ぶ様を想像して、嫌だと思った。やめてほしいと思った。そして、そこに立つのは自分でありたいと思ってしまった。今まで恩義のある人だと思ってきた彼へ、初めて恋慕を自覚したのだ。自覚した以降も事態は悪化するばかりで、任務の失敗という手のつけようがない結果を招いたというわけだ。
「それは何故だ?」
静かに問う。彼の瞳に映る自分を見たくなくて視線を下げたら、顎を軽く上げられて無理やり合わせられる。どくん、と心臓が跳ねる。これ以上は勘弁してほしい、と視線で訴えても彼の様子に変化はない。聞くつもりはない、ということ。緊張が最高潮に達する。背中に服が張り付くのがわかった。床の上で丸めた手の爪の先が皮膚に食い込み痛みを感じるも、意識を逸らすには足りなかった。
「……か、賈充様を慕っているから、です…………」
「それは恋慕か?」
さっと顔に朱が走る。改めて言われると答え難いものがある。けれど逃げる手立てはなく、私には彼に応える術しか用意されていない。羞恥をありありと乗せて小さく首肯してみせる。自分の幼い頃を知ってる人に恋慕するとは自分でも思ってもみなかった。それでも好きだとあの夜に自覚してしまった。沈黙が訪れた房に、突如笑い声が落とされる。くつくつと喉を鳴らして低く笑う彼。
「賈充様……?」
わけがわからず目を白黒させる私。頬に当てられていた手が髪を掬い上げ、指を通す。血の気を感じさせない白い指が髪から覗き、そしてそれは毛先まで下がり、それを自身の指に乗せてあろうことか口付けを落とした。
「賈充様……!?」
驚きに目を剥く。信じられなかった。意図がまるでわからなかった。だが、賈充様はそんな私の心情など何処吹く風とばかりに置き去りにして薄く笑う。
「―――ようやく言ったか」
え、と漏らす下唇を指の腹でなぞられる。途端、羞恥が勝り顔に熱が集中する。赤くなる自分の何が面白いのか、彼は口角を吊り上げる。それは愉しげに見えた。
「だが、待った甲斐がある。今のお前を見られるならな」
妻のことや任務の失敗のことやその他色々聞きたいことはあったが、それらを訊ねる前に唇は塞がれてしまった。