灯火に浮かぶ脂ぎった顔貌。まるで獣を想起させるその顔は、にんまりと牙を剥いて笑ってみせた。抑えられぬとばかりに無骨な手が衣へと伸ばされる。その手に自分の指を絡ませ、やんわり制止させた。途端、不機嫌を露わに名前を呼ぶ。
「いけません。これ以上は私がやりますから」
「そう言って逃げる気だろう」
声を低くし、私の腰を強引に引き寄せる。つん、とした酒の匂いがした。今や彼の意識は自分にだけ向けられている。人払いは済ませた。この部屋には私と彼だけ。酒で潰して首を斬る予定だったが、存外強かったようだ。仕方ない。一回抱かれた後に―――。
「しっ、失礼します!!」
官能的な密室に突如闖入者が現れる。断りもなく滑り込んだ兵士の男は、切羽詰まった表情で乱れた格好もそのままに、拱手して声を張った。
「魏の者が、曹魏の者が攻めてきました!!」
「何っ……!?」
兵士と同じく驚愕を示して勢いよく立つ。信じられないといった様子の男の傍で、内心舌打ちした。こんなにも事を大きくさせるなんて自分は一人しか知らない。きっとあの男だ。落としたくなる肩に力を入れ、兵士にその者の名前を訊ねた。
「はっ。それは―――」
「ここに居るのか!」
新しい闖入者が姿を出すと共に、そこに立っていた兵士の男が血飛沫を上げて倒れた。はためく青の衣。頭上で結われた髪。そして憎い父の面影がある顔貌。美丈夫は私と隣の男を見て気色ばむ。そして明朗な声を響かせた。
「曹文烈。その首、頂戴しに参った!」
「曹丕の駄馬風情が……。この俺を倒せると思うてか!」
激昂した彼は手近な長槍を取り、向かっていく。片や長いこと享楽に耽り剣術を鈍らせた男と、片や昨日まで戦場を駆けていた男。見届けるまでもなくどちらに軍杯が上がるのかはわかっていた。長いだけの穂先を振り回す男の隙を突き、文烈の剣が一閃を放つ。ただの一撃が見事急所に当たり、男は醜い断末魔を上げて床へ倒れる。しばらくしても動く気配を見せなかったので、文烈はそのまま剣先の血を払うと、私の方へつかつか歩み寄ってきた。
「名前殿、俺が来たからには安心してほしい。御身はこの文烈が責任を以て子桓殿の元へお届けする」
朗らかに笑うその顔に思わず卒倒しそうになった。
宮中に戻った翌日。私は女官の制止も聞かずに、我が兄の房に駆け込んだ。
「兄様!私はもう耐えられません!今すぐ文烈をお外しになってください!」
書簡に目を通していた兄様が面を上げる。父と呼びたくないあの男の面影が過り、一瞬怯む。すぐさまそれを追い払って見遣ると、そこには確かに我が兄が鎮座している。文台に頬杖をつく兄様が居住まいを正すと、黒い髪がさらりと揺れた。その奥から冷ややかな眼差しが覗く。
「名前よ、またそれか」
と、一言。これではこちらが駄々をこねているようではないか。遅れてやってきた女官が青褪めた顔で名前を呼ぶが、それもお構い無しに兄様に近づく。
「この際はっきり申し上げます。文烈と私は相容れません」
「何故そう思う」
「何故……?そんなの彼を見れば一目瞭然じゃないですか!なんなんです彼は。実直にも程があります。これで何度目ですか、彼に任務が駄目にさせられるのは」
「数えてないな」
「五度です、五度!これ以上は耐えられません!先だっての策も、結局彼一人によってめちゃくちゃにされました。これではあの男に取り入った私の苦心が報われません!」
曹文烈という男はとにかく人を疑わない。信じすぎている。それを非難する気はなかったが、それによっていくつもの任務が駄目になった今は、憎くすら思っている。私が敵側に居ると知るや否や、その裏も読もうとしないで突っ込んでくるのだ。先日のはそのうちの一回に過ぎず、このままではどのような賢策も水の泡。私は父・曹操の血を継いではいるが、実母はただの妓女。兄と同様に扱う必要も謂れもない。
「文烈もお前が心配なんだろう。私にも未だに言ってくる時がある」
ふっと笑みをこぼし、どこか遠い目をする兄様。そんな兄様は見たくなかったです。
「諦めないでくださいよ、兄様にできなかったら誰に彼を抑えられるんですか」
「あれはそういう気性だ。折り合いをつけるんだな」
「そんな……」
「―――それより私に言わねばならぬことがあるだろう、名前」
一転した雰囲気にどきりとする。自分に向けられた両眼は、まるで隠し事を知っているんだぞと語ってるようであった。
「隠し事なんて何も……」
私はこの目が苦手だ。たちまち白状したくなってしまうから。逸らしたくても逸らせない兄様の視線に耐えていると、出し抜けに兄様は腰を上げた。そのまま文台を回り込んで私へ近づく。眼前で止まると、心臓が今一度大きく脈動した。ふ、と濃い影が落とされる。
「―――ほんとうか?」
すっと目を細められて尚ぐっと堪える。我が兄の言い分に心当たりがないわけではない。しかし言いたくない。私とて、ただ兄に溺愛されるつもりなんてないのだから。文烈は馬として駆け、仲達はその才で勝利を献上している。ならば私は?腹違いの妹だからと周囲から突如持ち上げられるようになったが、それではただの蒙昧な女に過ぎない。我が兄の妻は同じ女でありながら戦場を共にし、兄を支えている。それを間近で見ていながら私だけ何もするなとは、あまりにも酷。剣を握らせてもらえないなら、私が武器にできるものなんてたかが知れてる。それを了承したのは兄様の方だ。
「……私は言った通りのことをしただけです」
「文烈からは肌を合わせていたと聞いたが」
「なっ!」
あんまりな語弊に堪らず顔に朱が走る。
「違います!それこそ文烈が大袈裟に言ってるだけです!」
「それに近しいことはした、ということか」
墓穴を掘ってしまったことに慌てて気づく。何か言おうとして迷ったのが運の尽き。黙ったのを肯定と見なした彼は、小さく息をついた。
「酒で潰すと私は聞いた」
「…………だって存外強かったんですもん、あの男」
「たとえそうであっても、決して肌は許すなと言いおいたはずだが?」
「今更減るものもないでしょうに……」
たった一夜で私を身篭った母。身寄りのない妓女を側室に入れるはずもなかった父に捨てられては、戻る場所は結局花街しかない。そこで育てられた私。母はとうに儚くなったが、だからといって私のしがらみが消えるわけではない。そこで生まれ育った以上、そこでしか生きられなかった。花街を出たのは自分が十八になってから。我が兄・子桓様に見つけ出されたのだ。だからこそ彼の手足となり恩を返したいと思うのに、彼の方は私を「何も知らぬ無垢なる妹」として手元に置こうとする。そんな歳はとっくに過ぎたというのに。俯いた私の頭がふと重くなる。
「お前は傍に居るだけでいい。その可憐な花を散らしてくれるな」
撫でる手つきは優しかったけど、落とされた言葉に胸が痛む。兄様、私は花なんかじゃありません。散らすものも持っていません。妓女だった、ただの女なんですよ。そう言ってしまいたかったけれど、あまりにも穏やかに笑ってみせるものだから、大人しく頷くことにした。