柔らかな笑顔が、繊細な気遣いが、俺に向ける笑顔が、俺は好きだった。彼女を見るだけで幸せになれた。だから俺は言った。
「俺、名前が好きだ!幸せにするって約束するから結婚してくれないか?」
自分の中ではあれほど緊張した場面もなかった。気の利く甘い言葉なんかない簡素な台詞だけど、名前は頬をほんのり染めて首肯した。
「二人で幸せになりましょう」
その後に彼女は俺の手を掴んで言った。
「――だから独りにしないでくださいませね」
あの時の彼女はどんな顔だったか。それだけが思い出せない。
深く繁茂する木々の中から出ると、そこには広がる荒野。平坦な地面が果てなく広がり、遥か遠くに連なる山脈が薄雲をまとって輪郭を現している。風に煽られ砂が舞うのを静観し、目蓋を伏せる。脳裏に呼び起こされるのは魏での生活の数々。それらを一通り流し、再び遠くの山々を見据えた。あれを越えた先に晋がある。改めて武器を強く握り締め、馬の腹を蹴った。父が守ろうとし、自分も一度は命を張った国。だが今は敵国。自分は蜀に降ったのだから。倒すべき敵はかつての国だ。砂塵を巻き上げて馬が駆ける。―――次の瞬間。
「ぐあっ!」
突然馬が嘶き、前脚を高く上げて前のめりに倒れた。強い力で振り落とされた自分の体は、地面にしたたかに打ち据えられ、体の至るところから痛みが伝わった。それでもかろうじて顔を上げ、周囲を巡らす。馬の前脚には一本の矢が突き刺さっており、とめどなく流血していた。伏兵が居るのか。瞬時に理解して痛みに軋む体を無理やり起こし、手放した武器を拾う。何処に、どれだけ、誰が居るのかわからない。それでも此処で死ぬわけにはいかない。俺を迎え入れた蜀漢への申し訳が立たない。
「そこかっ……!」
ひゅん、と風を切る音に体を回らせ飛んできた矢を叩き落とす。今しがた自分が進んできた繁茂から飛んできた物だ。まさか俺の後をつけてきたのか?いつから?蜀漢からか?だが細心の注意を払い進んできた。誰の気配も感じなかった。まさか。裏切り、という言葉が脳裏を過ぎったと同時に茂みが音を立てた。思考を振り払い武器を構える。現れた人物を見て、息を飲んだ。
「お見事。流石、輝く鎧武者と謳われた方。恥知らずなその輝きで蜀漢の奴らの目を眩ませたのですか?」
「…………名前……」
静々と俺の向かい側に立ち、やんわり微笑む。弓矢を掲げていて尚、まとう雰囲気は穏和なものだった。俺がまだ魏に居て、名前が傍に居た頃と同じ笑い方。同じ佇まい。一つだけ決定的に違うのは、華奢な腕には似つかわしくない得物を掲げていることと、表情こそ穏やかであるものの、口から放たれる言葉には徹頭徹尾底冷えするほど悪感情が込められていること。
「お久しぶりですね、仲権様。いつ以来でしょう?あなたの顔を見るのは」
「…… 名前」
彼女の名前を呼ぶ。ほんとうに自分が言っているのかと思うほど細く、震えていた。届いたかはわからない。呼応する気配を見せないからだ。
「四年ぶり、でしょうか。あなたが私を捨て蜀漢へ逃げてもう四年。……長かった。途方もなく長く感じ、果てようかと何度も思った」
「名前、俺は……」
名前を呼んでも名前は俺に応えようとはしない。俺を見ているのに、俺を見ていない。心臓が大きく脈動する。血は熱いものと知っているのに、体は冷水を被ったように熱を失い、武器を握る指が震えてしまう。
「でも駄目だったんです。一人で死ぬなんて受け入れがたかった。だから死にたくなる都度、あなたを想起して生き長らえたのです。――憎いあなたをこの手で討つために」
吐き捨てるように言う名前は、それでも美しい顔に穏やかな微笑みを貼り付けて佇む。
「……名前」
最後にもう一度、名前を呼ぶ。目を細めて笑みを深めた。
「はい。なんでしょう、仲権様」
俺の名前を口にする名前に、在りし日の姿が重なる。鼓動が激しくなり、喉が詰まる。何を言えばいいのか、何を言うべきなのか。思考してもわからなかった。無意味に開閉する口からは言葉にもならない音が漏れるばかり。それでも一つ、ようやく言葉にできた。
「………………………………すまん」
それだけだった。途端、彼女の顔色がさっと変わる。
「すまん、ですって?―――ふざけるな!!」
聞いたことない怒号が鼓膜を劈き、びくりと体が震える。つい先程まで穏和な微笑を湛えていた名前の顔が、身内から込み上げる激情によって大きく歪み、目を血走らせて顔を赤くさせている。殺したいという気持ちがありありと表された顔。一切の思考が消えた。
「お前が……、お前だけが救われたせいで、私がどんな思いをしたかっ……!宮中に何度も呼び出されてはあらぬ嫌疑をかけられ、尋問され、そのせいで私は寝られない日々を送った!いつ殺されるのか、どう殺されてしまうのかとばかり考え、不安だった!怖かった!傍に居てほしい人は敵国へ逃げ込み厚く囲われている。私だけ、私だけが白刃の下に晒され続けてきたのだ!その恐怖がわかるか!?一人逃げたお前にっ……!」
絶叫が蒼天を衝く。在りし日の彼女とは重ならないその様に、言葉を失った。武器を構える腕に思うように力が入らず、剣先が下がる。反対に、彼女が構えた矢の先は変わらず自分を捉えている。
「己の無実を示すためにどんなこともした!踏まれても、罵倒されても、尊厳を踏み躙られても尚、頭を下げ続けてきた!」
「俺は……」
「――かつての朋友にすら見捨てられた私を、それでも司馬家だけが救ってくれた」
飛び出した名前に鼓動が一瞬止まる。衝撃は面に如実に表れていたんだろう。名前は笑みを浮かべた。それは穏和な彼女らしいものではなく、俺を嘲るための冷ややかな笑みだった。
「頭を下げて助けを乞う私を、司馬懿殿だけがそれを止めてくださった。……私の気持ちなど、一人で逃亡した仲権様にはおわかりにならないでしょうね」
夫の従弟を殺し、夫が逃げる理由を作った張本人に同情され、憐れまれ、救われる。しかし同時に彼らしか頼る術がないのも事実。禍福は縄のように糾うものだと聞いたことがあるが、絶望の縁に立たされた名前に福と呼べるものがあったろうか。きっとなかったはずだ。本来の優しい心を復讐の炎に焚べて命を繋いだ彼女がそれを感じる時といえば、それはきっと俺が名前に討たれる時だ。
「俺は…………」
なんと言えばいい。どんな言葉も彼女には言い訳にしか映らないだろう。自分さえ居なければ、彼女には危害は及ばないと思っていた。自分の短慮を突きつけられ、二の句が継げない。そんな俺に彼女は息をつき、矢を番える。俺を見据える双眸に迷いなど見えない。この場で自我を失っているのは自分だけだ。
「……幸せにすると言ったくせに。あなたなんか好きにならねばよかった」
呟くように吐かれた言葉に、心臓が大きく痛む。彼女にとって俺は誰よりも堕ちた存在なんだろう。行動は全部事実だ。俺のどんな思惑があろうと、名前が受けてきた辱めは決してなくならない。ほんとうに想っているのなら、ここで討たれてやるのがせめてもの贖罪だろう。だが、それは選べない。
「……俺は、お前に討たれるわけにはいかないんだ」
自分を迎え入れた蜀漢に約束した。これからは彼らのために武を振るうと。今ここで討たれるのは、その約束を違えることを表す。武器を構え直し、剣先を向ける。真っ直ぐに、強く、彼女を見据えて。一瞬傷ついたように双眸を揺らした名前に胸が痛むが、剣先を下げることをしない俺を見て気を持ち直したのか、表情に敵意を滲ませて矢を放った。吸い込まれるようにして飛んでくる矢を剣で払い、地面を蹴る。いくつもの矢が自分の鎧にぶつかり、その都度胸に激痛が走る。射抜かれたような痛みが。実際は貫いていないも関わらずだ。目の奥がかっと熱くなるが、それらを振り払って腕を突き上げる。一閃を放った剣先をそのまま振り下ろせば、名前は避けることもせず真正面からそれを受け止めた。細腕が掲げる懐剣で。力の押し合いはなかなか決着がつかずに、俺はその事実に内心驚いた。名前は武人ではない。親も至って普通の文官。剣など生まれてこの方一度も触ったことがないと言っていた彼女が、俺の大剣を受けて尚立つまでに至った。その事実が心臓を冷やす。懸命に立つ名前の細い脚をかけてやると、その体は呆気なく後ろへ倒れた。馬乗りになって剣先を胸に宛てがう。このまま突けば名前は死ぬ。俺は約束を果たせる。けれど腕は思うことを聞いてくれなかった。剣先が震えてしまい、腕に力が入らない。
「――なあ。今からでも俺の下に来てくれないか?今度こそ独りにしないと約束するから……」
小さく吐いた俺の言葉を聞いて、名前は激しく狼狽する。自分が何を言っているのか理解しているつもりだ。捨てた俺に再度拾われるなど不本意この上ないだろう。何せ彼女の中での俺は今や怨敵でしかない。かつて俺が父を殺した蜀漢を追っていたように、名前も俺を追ってきた。屈辱だろうことは察する。それでも彼女をこの手にかけることだけはできない。殺したくない、と強く強く思ってしまう。幸せにしてやれなかった俺なのに、虫の良すぎる話とわかっていても尚、名前を再び自分の下に引き戻したいと思ってしまう。
「――司馬家の人間を、蜀漢の奴らが受け入れるとでも?」
冷ややかな声に頬を叩かれ、はっとする。
「それは……」
「無理ですよ。次はあなたも一緒くたにされて疑われるだけです。晋と内通して蜀を潰す気なんじゃないか、とね。……ああ、それとも私に許してもらうためにそんなことをおっしゃんですか?それなら読みが外れましたね」
ふっと浮かべた笑みは嘲るようなものだった。
「許しませんよ。あなただけは」
軽やかに吐かれた言葉が胸を抉り、同時にこの亀裂は何を以てしても埋まらないんだと理解した。名前は永劫俺を許すことはなく、それはきっと死んでも尚続く。延々と、怨々と。
「………………そうか」
剣を握り締め、下ろす。肉を貫く感覚がし、噴き出した血が顔にかかる。戦場で何人もの人間を斬ったのと同じ感覚。すっと冷えていく頭で次のことを考える。約束を守らねば。
「……信じて……いた、のに………………」
掠れた声で言い残し、それを最後に胸はゆっくり沈んでいってそれきり動くことはなかった。顔は見られなかった。
後ろめたくなっちゃおうよ
テーマ:再会/救済様に提出。