遠くから声がする。甲高いそれは女のようでもあり男のようでもあり、しかし確かなのは同じ言葉を繰り返していること。内容までは聞き取れないが、それでもひたすらそれだけを繰り返す様はまるで忠告しているようであった。誰が何故そのようなことをするのかも、何を忠告したいのかもわからないが、起きる都度一つの予感だけが胸を占める。

「私はいずれ死ぬだろうな……」

余人の居ない執務室で机上の書簡を見ながら、誰に聞かせるでもなく呟く。しかし無人と思っていた房に来客が居たのを、突如物が落ちる音がしてようやく気がつく。顔を上げた先に居たのは公休だった。抱えていたんだろう一切の竹簡が床で散らばっている。思わぬ人物との邂逅に彼同様、私も動揺した。聞かれてしまったか。

「な、何故そのようなこと……!あなたを曇らせることがあれば私に遠慮なく申してください!この諸葛誕、あなたの憂いを断つためならばいかような手段も厭わず―――」

「待て、落ち着け公休。そんなつもりで言ったのではない」

「では何故あのようなことを……。あなたが斃れられては国は荒廃を極めていくでしょう。あなたほどの賢君は、まさに麒麟と出会うようなもの。あなた無しではこの国も、私も立ち行かなくなってしまいます」

「あ、相変わらずだなお前は……」

青くさせた顔を白くさせ、かと思えばうっすら頬を朱に染め、何度聞いても慣れない賛美の数々を並べる。尊敬されるのは決して不快ではない。認められるのも、むしろ自分の助けとなるからいい。けど彼は逸脱しすぎている。毎日毎日顔を合わす度に過剰なまでに称賛されるのは、却って鬱屈とした気になる。やめてくれと堪らず言ったこともあったが、彼には私の心情などただの謙虚としか映っていないようで、それすらも称えられてからは何も言えなくなってしまった。

「大した献策もできない私を召し抱えてくださったのは、あなたただ一人。狗と詰ることもせず、嘲りもせず、私のような人間の言に耳を傾け受け入れてくださった。あなたのような方の力になれるのなら、たとえこの諸葛誕の命が亡くなろうとも本望なのです」

「……犬死を許した覚えはないぞ」

「ああっ!やはりあなたを於いて私が仕えるべき主君はございません!……ですから伏してお願い申し上げます。何か憂いがあるのでしたらお隠しにならず、おっしゃってください。あなたを失うことは到底耐えられません」

切々と訴える顔貌、言葉、双眸。息を凝らすように眉間を寄せ、恭しく叩頭する。全身から私を冀う様に瞠目し、閉口した。彼の熱の入れようはわかっていたつもりだったが、ほんとうにつもりでしかなかったのだと実感させられた。もぞり、と何かが腹の中で蠢く。重たくて苦しい何かが居座っている。そっと腹に手を宛てがい、鎮めた。未だ叩頭している彼に密かに嘆息する。

「……軽率なことを言った。あれは忘れよ」

ばっと顔を上げる公休に、苦笑混じりに言ってやる。

「忠臣を置いて死ぬなど、お前の言う賢君には当てはまらんだろうからな。何かあれば真っ先にお前を頼ろう。これからも私に尽くしてくれるな?」

「はっ。あなたの才を、武を、この三国中に知らしめてやりましょう!そのためならばこの諸葛誕、どんなこともする所存。全霊を以てあなた様を天下へ押し上げてみせましょう!」

意気揚々と叫ぶ様に、鎮まったはずの腹の中の何かが蠢き出す。彼は信用していい人物だと思う反面、絶えず警鐘が鳴る。私は何故この男を信じきれないでいるのか。それはわからなかった。この腹に居る何かも掴めないでいた。


 涼州の敦煌とんこうにて挙兵、という報せは全くの青天の霹靂だったわけではない。瞠目したものの、不思議と裏切られたといった感情はなく、静かに得心した。敦煌の太守とは常折り合いが悪く、挙兵も時間の問題だろうと思っていたからだ。敦煌に面した酒泉しゅせんの太守が総力を以て押し止めているとのことだが、敦煌に置いた兵力を酒泉の者だけで持ちこたえられないことは明白。伝令に援軍を送る旨を伝えて出し、ただちに軍議を開いた。出立は明朝。出す兵は最低限に。酒泉と比べて勝るというだけで、こちらの兵力とは比べるべくもない。あくまで首魁を拿捕する名目でかかることを決め、解散する。房に戻る道すがら公休に呼び止められた。

「何故です!何故、首魁を捕らえるだけという手ぬるいことを……!あなたから賜った兵を私欲に使い、主であるあなたに剣を向けた奴らなど殲滅でよろしいではありませんか!」

公休だけが先だっての軍議で殲滅を唱えていた。周囲への牽制にもなり、かつ短期で終わる。反乱軍に属していない敦煌の者らへの抑圧にもなる。言わんとすることは理解できる。しかし賛同する者は一人として居なかった。私含め。胸を衝く苦いものを息をして出し、視線をやる。

「総力を使えば却って居城が手薄になるだけでなく、敦煌の先に居る奴らが誤解して要らぬ争いを生みかねん。国同士の戦いではないのだ、徒に兵を死なすのは本意ではない」

「しかしそれではまたいつ反旗を掲げる者が現れるか……」

「私は彼の考えに賛同した。すなわち私の考えでもあり、意見でもある。お前がなんと言おうと変えるつもりはない」

最低限のみの兵を率いて行軍すればいい、と言ったのは古くから支えてきた老軍師である。父の代から仕えてきた彼の意見に賛同する者多数。その中には決定権を持つ自分も含まれていた。手柄を横取りされたのが気に食わないのか、公休は尚も食い下がってくる。

「くどいぞ、公休」

辟易して堪らず吐き捨てる。衝撃に揺らいだ彼に胸が痛まないわけではないが、今回ばかりは公休の策を採るわけにはいかなかった。

「お前が日々私に尽くしてくれていることは理解している。その才を頼りにしていると言ったのは私だったが、……少々気負わせたようだ」

「そんなっ……!お待ちを、私はただ―――」

「しばし休め」

言葉を失くし打ちひしがれる彼を置いて、その場を去った。これでいいはずだ。間違ったことはしていない。だというのに、どうしてだか腹の中の何が蠢く。それは今までより激しく、強く。歩みを止めてしまうほどに。なんだか嫌な予感がする。それだけが胸を衝いた。

その僅か数刻後。書簡をしたためていた私の下へ、伝令が駆け込んでくる。息も絶え絶えな様子で、大きく肩を上下させていた。愕然とした表情をする伝令に、ざわつく気分を宥め筆を置く。

「どうした」

努めて冷静に。努めて平常に。固くなった声音に佇まいを直した彼が、緊迫した顔で言った。

「ごっ、ご報告……!諸葛誕殿が私兵を集め出征したとのこと!」

心臓が大きく脈動する。腹の中の何かが呼応するように蠢き出した。腹の中で暴れる何かは激しく回り、出てこようとする何かを抑えて思わず顔を顰めた。嫌な予感とはこれだったか。痛む腹を抑えて立ち上がる。

「すぐに準備を。私も出る」

「それが、もう一つ申し上げねばならないことがありまして……」

苦いものを押し止めるように言い淀む彼に、またしても胸中が暗澹たる不安に締め付けられる。聞きたくない、と思ってしまった自分を叱咤して、続きを促した。いかな事であろうと君主である以上、背くわけにはいかない。

「はっ。老軍師が何者かによって殺されておりました」

「―――老軍師が?」

飛び出したその名前に聞き返してしまう。信じられないといった私の反応を見てか、気まずそうに小さく首肯する。

「老軍師は最後に、―――諸葛誕殿と私室にて会っておられました」

「何故公休が?用向きは?」

「それは私共も知らされておらず……。老軍師の側近曰く、ただ老軍師と話がしたいと言っていたとのこと。念の為、衛尉をつけようと老軍師に申し上げたそうですが、本人自ら不要と言い人払いさせたようでして……」

眩暈を覚え、倒れそうになった。なんてことだ。この状況を聞いてるに殺したのが公休としか思えない。何故そんなことを……。私が老軍師の策を採ったから?彼に暇を出したから?しかし公休は己の権威などに固執する気性ではない。私に尽くすあの言葉に偽りは感じられなかった。では何故。―――わからない。何が起こっているのか、彼の意図が何処にあるのか。一切が手中を離れているように思えて気が遠くなった。それでも一国を治める主である以上は逃避は許されない。揺らいだ意思を叱咤し、気を持ち直す。

「公休の処分は追って沙汰する。出征の準備が整い次第すぐに発つ」

「はっ!」

駆けていく伝令を見送り、無人となった房で密かに息をついた。休みなく駆ければ間に合うかもしれないが、果たして。窓外の空を仰ぎ見る。雲がぶつかり合い、濃く変色していた。


 私が天に見放されたのか、彼が天に味方されたのか。敦煌に向けて行軍していた最中に空模様が変わり、酷い雷雨に見舞われてしまった。険しい地形を歩くことは到底不可能で、仕方なく一晩夜営することになった。この間も公休は着々と敦煌への距離を縮め、その兇手が敦煌に触れようとしている。彼は私に従うが、私の意見には従わないだろう。現に、私室で横たわる老軍師の遺体は目も当てられない有様だった。老翁の小さい体は頭から足先まで鮮血を被り、いくつもの刺傷で肉が抉れていた。故意に、そして執拗に繰り返し刺したんだろうことはその場を見た誰もが悟った。血溜まりの中に花瓶が砕けて散らばっていた。枝は折られ、花びらはむしり取られ、無惨な梢が不自然に目を引いた。それはかつて私が老軍師に贈ったものだからだ。玉なり器なりを贈ろうした私にひたすら固辞し続け、それでもようやく受け取ってもらえた花だった。公休の深い執着を突きつけられ、私はただ言葉を失うほかなかった。公休が敦煌へ向かう姿とそこに住む民、これから遭う惨劇を脳裏に描いて、ぶつけどころのない焦燥に苛まれた。腹の中の何かが叫ぶ。出てこようと腹の肉を食む。それを抑えるのも苦労で、気は急くばかりであった。

―――翌日。空は何も知らぬとばかりに澄み渡り、行軍を再開した。大量の雨を含んだ土砂は柔らかくなっていて、酒泉に面している張掖を抜けるのに思った以上の日数をかけてしまった。散々な悪路を抜けてようやく酒泉に入ると、敦煌と対峙している割には安穏としていて、曰く「諸葛誕殿が援軍として来てくれたので彼に一切を任している」と言う。彼が敦煌へ行ってどれくらい経つのか訊ねると、二日だと答える。眩暈を覚える体を引きずり、最低限の手勢を率いて敦煌に入る。そこで見たのは老軍師の私室を重ねてしまうほどの有様だった。草の一本も生えない広がる荒涼に伏せる死体の数々。十全とは言えない装備を見るに、これらは反乱軍の兵士たちだろう。かつて私の下に居た兵士たちの無惨な死体を見て言葉を失うのは私だけではなかった。首を転がしている者、四肢をもがれた者、脳天から串刺しになっている者。ごろん、と重なって横臥する死体が崩れ落ち仰向けになる。生気を失った白目と目が合い、思わず吐きそうになった。どう見てもやり過ぎだ。これでは反乱軍は一人残らず処されただろう。首魁を拿捕し、鎮圧するだけに留めるはずだった敦煌の地は、数々の骸を以て鎮められてしまった。止めてしまった歩みを再開させ、公休と首魁の居る敦煌の城へと向かう。城は付近も中も死体だけが転がり、公休の私兵は見当たらない。異様な静けさと血の匂いが充満する城内を歩き、奥を目指した。一際大きな扉まで辿り着くと、中へ入ろうとする兵士を止める。

「ここからは私一人で行く」

「なりません!危のうございます!今や公休は主君に仇なす敵。どのような罠が仕掛けられているか……」

「公休は忠臣だよ」

「苗字殿!」

「誰が何と言おうと彼は忠臣だ。忠臣たらんとする彼が私に剣を向けることはない」

彼ほど私を愛し、求め、冀う者も居ない。たとえそこに居るのが見せかけであったとしても。悲痛な声を背中に受けながら扉を開ける。中へは私一人のみ立ち入った。広い空間の中に公休は居た。首を失くした首魁の体を携えて。

「これはお早いご到着。流石です。やはり名前殿は常人とは違う。確かな天命をお持ちの方だ」

「……そうでもない。途中足止めを食らった」

「それは天がそうせよと申しているのです。あなたほど天の腕に抱かれた方もおりません」

「公休―――いや、諸葛軍師。自身が何をしたのか理解しているのか」

咎めるふうの語調に彼は恍惚とした笑みを浮かべて膝を折る。

「あなたの天下への道を早めたのです」

「お前には暇を出していただろう」

「…………はい。重々承知しております。勝手な出征の罰はいかなるものでも甘んじて受ける所存にございます」

反省の色が見えるその様子に、聞きたかったことを訊ねた。

「―――老軍師を手にかけたのはお前か?公休」

ぴくりと肩が跳ね、沈黙する。長い沈黙が背筋を逆撫でし、気分をそぞろとさせた。

「何故だ。手柄を横取りされて悔しかったのか?お前の意見をことごとく否定してみせたから恨んだのか?……何故、何故あんなことをした。お前は私の忠臣じゃなかったのか。何故言うことを聞かない、何故反旗を掲げるようなことをするんだお前は。何故だ。答えろ公休!」

「―――あなたは真っ先に私を頼るとおっしゃったではありませんか!!」

響き渡る怒号に、はっと身を竦める。勢いのままに立ち上がり、気色ばむ顔で続けた。

「私ほどあなたに尽くしている者も、私ほどあなたを考えているものも、私ほどあなたの天下を冀う者も居ないというのに、あなたは私ではなくあろうことかあの男を頼りにした!私を拾ったのは誰です。あなただ!なら何故あなたは私を使わず、あの男を使ったのですか!何故、何故……!」

「公―――」

「あまつさえあの男を自分の考えだとおっしゃった!あってはならないことだ!私はなんのために存在しているのですか!私の考えがあなたの考えにならぬならば、私はあなたのなんの役にも立っていないのと同義。ああっ……!許し難い……。私は自分を許せないのです。あなたのことを理解できない自分が。あなたの役に立てない自分が」

「……公休、私はお前を役に立っていないなどと思っていない。よくやってくれていると思っている。頼りにしている」

声が震えてしまう。強くあろうとも芯が揺れてしまうのを抑えられない。何かが腹の中で蠢き、喉を突き上げる。立っているのもやっとな自分は、彼から目を動かせずに居た。何かが出てくる。

「―――では、今後の一切を私に任せていただくと約束いただけますか?」

一歩、また一歩と彼が近づく。勝手に脚が動いていた。後退る私の腕が伸びてきた手に掴まれ、肩が跳ねる。

「二度と名前殿の手を煩わせなくて済むよう、この諸葛公休がすべてを見ましょう」

「公休、私は―――」

「ああ……、あなた自ら迎えてくださるとは。私はあなたに見放されていないのですね。であればあなたの憂いを絶ち、望みの一切を叶えて差し上げねば」

つい、と目を細めて恍惚と笑んでみせる様に、我慢の限界を迎えた。腹の中の何かがとうとう破って出てきたのだ。膝をついて吐く私の頭上で声がする。女のような男のような声が、やがてはっきりと男のものへと変わる。おぼつかない思考で、私は理解した。この男の手にかけられて死ぬのだということを。