これの続き




荀ケ殿が身の回りのことを請け負うようになって早数ヶ月。起きる時分を見計らって房を訪れるのにも、自分の好みを抑えた朝餉が出てくるのにも、私を訪ねてきた者が泰然と出迎える彼に驚くことにも、慣れが出始めた頃。ある晩、酒を携えて訪ねた郭嘉殿にふと落とされる。

「―――あなたは随分荀ケ殿を信頼しているのだね」

杯を運ぶ手が空中で止まる。どういう意味だと視線を彼に滑らせれば、疑問を口にするよりも早くに彼が説明してくれた。

「宮中ではあなたと荀ケ殿の話でもちきりだよ。荀ケ殿は名前殿に惚れ込んでいるだとか、逆に名前殿が彼を陰間にしているだとか、果ては彼を曹操殿から引き抜き反旗を目論んでいる、とかね」

あんまりな噂に開いた口が塞がらなかった。惚れ込む?反旗を目論む?いいやそれだけではない。

「……二つ目は彼に対して非礼極まりないですね。誰ですそんなこと言い出したのは」

「中身のないただの与太話さ。暇な宦官たちが退屈を慰めるために嘯いているんだろうね」

「不快です」

顰蹙を露わにして吐き捨てると、郭嘉殿は「信じる者を数える方が難しいまでに誰も信じていないよ」と気遣いなのかよくわからないことを言い出す。だがそんな噂を許すほど、どうやら自分は彼を頼りすぎていたらしい。いくら隠退した身とはいえ、本人の与り知らぬ場所でこんなにも不快な噂を流されているのは耐え難いものだろう。杯に映る自分の顔を見て、ぽつりと呟く。

「……明日から距離を改めねばいけませんね」

「おや。どうして?」

「え、いや、当たり前でしょう。そんな仲でもないのに浮名を流されるなんて、荀ケ殿だってきっと嫌に決まってます」

「だったら中身を入れてしまえばいいんじゃないかな」

「…………はい?」

「そのままの意味さ」

にっこり笑って言うけど、全く意味が理解できないんですが。いろんな軍師に出会ってきたけど、ぶっちぎりでこの人が意味わかんない。頭いい人ってみんなどこか別の視点で話す癖あるのだろうか。荀ケ殿もその節あるし。

「……郭嘉殿と話してると頭が痛くなってきます」

半ば責めるように言ったのだが、彼は取り立てて反省する素振りもみせず、声を上げて笑うのみ。何処が面白かったのやら。

「困らせてしまったかな。でも大丈夫、いずれ私の言った意味がわかるよ」

「はあ」

別にわからなくても困らないんだけどな。その本音は酒と共に飲み干した。


 翌朝。当然だがいつも通り荀ケ殿が扉を叩き、許しを貰ってから入室する。隠退した身でありながらも彼は現役と変わらぬ佇まいで、昨日と一昨日と変わらず慣れた手つきで支度を整えてくれる。やがて運ばれた朝餉を一緒に食す最中、私は打ち明けることにした。余談だが、自分が食べてる最中彼を待たすのがなんとも落ち着かない気分になったので、無理を言って今では一緒に食べてもらっている。

「荀ケ殿。折り入ってお願いしたいことがあるんですけど……」

おずおずと打ち出す私を見て、持っていた箸を置き「どうぞ」と整えられた微笑を浮かべる。彼のこの笑顔に揺らいでしまう意志を叱咤する。

「遠慮なく仰ってください。あなたの望みは叶えて差し上げたいのです。それが私の本望ですから」

「よ、余計言いづらい……」

なんてこと言ってくるんだこの人。この後にお願いしろなんて無理にも程がある。歴戦の猛者だの伝説の傭兵だの持ち上げられている私だけど、この人にだけはいつまで経っても強く出られないんだよな。挫けそうな自分に気づき、慌てて喝を入れる。駄目だ、気をしっかり持つんだ私。昨日郭嘉殿にも教えられたでしょう。荀ケ殿に付きまとう根も葉もない噂の数々を。元凶である私がしっかりしないと、ますます浮名は留まることを知らずに波及していき、その内容も醜悪になっていく。それだけは避けたい。

「世話役を前の人に戻そうと思ってまして……」

言い終わらぬうちから食器のぶつかる音が立ち、はっと我に返る私の前で荀ケ殿は顔を青くさせていた。

「私が何かしてしまったのでしょうか」

「へっ?」

呆ける私に、彼はますます顔色を悪くさせていく。綺麗な顔を絶望の一色に染め、さながら恋人に振られた女性みたく双眸を揺らしている。事情を飲み込んだ時には、彼は卒倒しそうまであった。

「何か粗相をしたのであれば教えてください。直しますから。……それとも、私ではあなたを支えうる器ではなかったのでしょうか」

「そんなこと微塵も思ってませんよ!いつも助けられていますから!ほら、今だってこうやって私の好物を取り揃えた朝餉を用意してくれたことに感謝してますし!」

「ですが何か不満がなければ暇を出そうとは思わない筈」

「い、暇って……。荀ケ殿は別に雇われているわけじゃないんですから……」

想像以上に落ち込む彼に困惑する。荀ケ殿ってこんなに打たれ弱い人だっけ?記憶の中の彼はもっと押しが強い人、じゃなかった、自分を持ってる人だった。あの曹操殿と真っ向から対立してみせた御人だ。そんな彼が私なんかに肩を落とすなんて。驚きもあれば困惑も隠せないでいた。傷つけると思って言いたくなかったんだが、ここまで来たら腹を括るしかない。

「……噂が立ってるんですよ、私たちの」

「噂、ですか?」

顔を上げた彼に、気まずい面持ちで首肯する。

「男女の仲であるとか、荀ケ殿を引き抜いて曹操殿に弓引くつもりであるとか。あとは、その……」

流石に本人に面と面向かってこれ言うのは躊躇われるな。聞きたくない世評だろうし誤魔化そうかな、との考えを見透かしたかのように「構いません。教えてください」と先程の塞いだ面持ちは何処か、きりっとした表情で言い切った。

「私が荀ケ殿を、か、か……」

「か?」

「…………陰間にしてる、とか……」

言って、自分でとてつもなく恥ずかしく、そして大変申し訳ない気持ちになった。そんなつもり全くないのに、何故当事者がこんな思いしなきゃいけないのか。言った奴を斬りたくなってきた。というか人で遊ぶ暇あるなら仕事しろ。隠退しても尚世情に通じる荀ケ殿を見習え。叫びたくなる本音を好物と共に腹へ押し戻す。やはり衝撃が強いのか荀ケ殿は黙ったままで、身動き一つしない。そりゃそうだ。あらぬ浮名を、しかも大変不名誉な浮名を流されて喜ぶ変人なんて居ない。郭嘉殿を除いて。

「あの!私は全くそんなつもりはありませんから!荀ケ殿の才には純粋に助けられてばかりで感謝こそすれ、下心なんてこれっぽっちもないですから!……でも今のままだと荀ケ殿に迷惑かけてしまうので、当分は交流を控えたいと思ってるんです」

足りない頭を回して日頃の感謝を伝えるも、荀ケ殿の顔は晴れず沈黙したまま。やはり自分のそんな世評を聞くのは嫌だったんだろう。彼は忠心厚い真面目な気性を持つ人。かつての主に泥を塗っただけでなく、挙句陰間などと到底聞いていられない冷評までつけられたとあっては怒りも湧く。私だって腹に据えねている。

「―――世話役の方を呼び戻すのは、私に任せていただけませんか」

「え?」

「本を正せば私が無理を言って変わってもらったのですから、ここは私にやらせてほしいのです」

「荀ケ殿がやりたいんでしたら止めはしませんが……。あの、大丈夫ですか……?」

心配になって訊ねる私に彼は穏やかな微笑を湛えた。一応承諾してもらえたということで、胸を撫で下ろす。あとは時が経つのを待てばいい。


 以前の世話役が戻ってくるのは意外にも早く、彼女と再会して以降、逆に荀ケ殿と顔を合わせる機会はぱったりなくなった。意図していないにしろ、恩を仇で返した気になって申し訳なく思っていたが、荀攸殿によれば彼は彼で健勝に過ごしているとのことで、その報を聞いてからは胸の痞えが降りたように晴れ晴れした。まともな返礼ができずじまいなのが心苦しいが、それは噂が消えた頃合を見計らってしようと決めた。そういえば荀ケ殿は何がお好きなんだろうか。私のことはよく知られていたが、私は彼の趣味嗜好などはあまり知らない。酒は付き合いで嗜む程度と言っていたし、満寵殿であれば今まで見てきた城の話が適した土産となるが、荀ケ殿には退屈な話でしかない。つくづく彼の為人を把握していない自分に気づき、肝を冷やした。

「散々世話になったのに我ながらこれは酷い……」

自分ってこんなに冷たい人間だったろうか。荀攸殿に訊ねれば教えてくれるかな。今すぐは無理でもいずれしたいし。いっそ二荀を集めて酒盛りしようかな。親戚同士交流してると言っていたし、いい店を見つけておこうかな。後で郭嘉殿と賈詡殿辺りに顔を出しに行こうと決めた矢先、前方から歩いてきた人物が私の名を口にし、折り目正しく拱手した。ひょんなことから一時彼に稽古をつけていたのだ。軽い世間話で、今では一個小隊を任せられるまでに至ったとか。かつての知己の目覚しい功績に口角が綻んだ。

「―――そういえば、この度ご婚姻なさるとお聞きしました。こうして言祝ぐことが叶い、大変光栄です。夫婦円満を常祈っております」

「………………はい?」

とんでもない言葉が口から飛び出した気がする。上手く咀嚼できなくて聞き返す私に、彼は不思議そうに首を傾げる。そうだよね、それが普通だよね。でも私にも不思議なんだよ。

「私が結婚?誰と?」

「違うのですか?自分はあなたがかの軍師、荀ケ殿と婚姻されたとばかり聞き及んでおりますが……」

「あー……」

なるほど噂か。また噂か。宦官共め、性懲りも無くまたあらぬことを吹聴し回っているのか。やっと最近「荀ケ殿はどうされたので?」とか「荀ケ殿と喧嘩ですか?」とか訊ねる声もなくなり、彼目当ての訪問もなくなってきたというのに、その矢先にこれとか対処のしようがなくなるでしょうが。

「わかった。ありがとう」

礼を述べ、別れる。念の為に彼にはしっかり否定しておいた。照れてるんですかとか言われたけど信じたと思いたい。さて、どうしようか。まず荀ケ殿はこの噂を知っているんだろうか。私を理由に宮中に出入りしてた人だから、私から離れた今訪れる理由はなくなるわけだが、もしかしたら荀攸殿目当てで来てる可能性も否めない。あの噂もだいぶ不快なのに、今度はあれよりタチが悪い。彼の縁談に障りが出たらどうしてくれるんだ。しかし私は荀ケ殿の居場所を知らない。この状況で第三者に文を預けるのは悪手。荀ケ殿の居場所を知っていて、かつ信頼のおける者。そこまで考えて思い当たるのが荀攸殿ただ一人だった。彼なら噂など鵜呑みにしないだろうし、荀ケ殿の居場所も知ってる筈。善は急げとも言うし、最初に向かったのは荀攸殿が居るであろう執務室だった。扉を叩き、許しを貰ってから入室する。なんか久しぶりだな、この感覚。最近誰かを訪ねることをしなかったから新鮮だ。次の戦に使う策でも考えていたのか、手元にある文台にはいくつもの書簡が重ねて広げられている。どうやら間が悪い時に来てしまったようだ。

「すみません、すぐ失礼しま―――」

「いえ、構いません。どうしましたか?」

手元の書簡は既に丸められてしまっていたので、申し訳なさを感じつつ好意に甘えて打ち明けることにした。

「荀ケ殿の居場所を訊ねたくて」

「文若殿の?意外ですね、俺はてっきり会っているものと思っていましたが」

「これには色々深ーい訳がありまして……。今は諸事情から会ってないんです。でもちょっと話したいことというか、耳に挟んでほしいことがあるので、荀攸殿に聞きに来たんです」

「はあ。お二人の間に立ち入るつもりはないのでそれは教えますが……。―――ああ、そうでした。遅ればせながらご婚姻おめでとうございます」

「じ、荀攸殿まで影響が……」

がっくりと肩を落とす私に、彼はぱちぱちと目を瞬かせる。何かあったんですか、と訊ねる彼に一から説明してやることにした。流石に陰間のことは伏せたけど。し終えると、彼は一言。

「それはどうもおかしいですね」

首を傾げた彼に激しく同調してみせた。

「ですよね!私と荀ケ殿がなんてどう考えてもおかしいですよね!」

「いえ、そうではなく」

「はい?」

今度は自分が首を傾げた。

「俺は文若殿からあなたと婚姻したと聞いてます」

「……はい?」

「俺は文若殿から―――」

「ああいえ、聞こえなかったわけじゃないですすみません」

一回待ってほしい。荀攸殿は私が婚姻してると聞いたと言う。しかも荀ケ殿本人から。いややっぱりわからない。何がどうしてそうなってるんだ?そもそも荀ケ殿本人がそんなこと言うなんて意味がわからない。冗談、ではないだろうし。そうなるとますます混乱してくる。そんな私たちの前に元凶が出し抜けに現れた。

「公達殿―――ああ、名前殿もいらしたんですね。お久しぶりです」

「荀ケ殿」

すらりとした長軀が滑るようにして房に入ってきて、口を開けたまま固まる私の手を取り、にこやかな笑みを浮かべる。これがちょっと前の私なら久しぶりの再会を喜んだが、荀攸殿からとんでも発言された今では一刻も早く原因究明したかった。

「荀ケ殿にお聞きしたいことがあるんですが……」

「はい、なんでしょう」

「荀攸殿に、私と荀ケ殿が婚姻してるって言ったのは事実ですか?」

おそるおそる訊ねると、彼は微笑を浮かべたまま「聞いたんですね」と事も無げに言う。少しも顔色を変えない彼が別人のように思えて声が出なかった。

「―――お許しください」

「へ?」

突然謝罪され、調子が外れた声が漏れる。

「ほんとうは外堀を埋めるようなことせず、あなたに許しを得なければいけなかったとわかっていたんです。ですがあなたに拒まれることに身が竦んでしまい、このような手を打ったんです」

「じ、荀ケ殿……」

申し訳なさそうに眉尻を下げる荀ケ殿。これまたとんでも発言された私の胸中には竜巻が起こり、感情の一切がぐちゃぐちゃに掻き回されている。だって言葉を聞くに荀ケ殿が私を慕ってるとしか思えない。人生で初めて男性からこんなこと言われて落ち着ける女性が居るだろうか。しかも端整な顔立ちを持ち、誠実と評価の高い彼から。いいや私は無理だ。爆発する。呼吸するだけで胸が痛い。変な顔してないだろうか。

「ですがこうなった以上、私も覚悟を決めねばなりませんね。―――名前殿」

名前を呼ばれ、ぎゅっと手を握られる。

「は、はい」

真剣な眼差しが思いのほか強く刺さり、目が逸らせない。鼓動は早くなっていき、固唾を飲んだ。こんな時に場違いだけど荀ケ殿ってほんとに綺麗な顔してる。

「平和の時代を築くべく日々戦うあなたを、誰よりも近くでお支えしたい。できればお傍で。―――私と夫婦になっていただけませんでしょうか?」

そんなふうに見つめられたら。見つめられたら、私は。

「……お願い、します…………」

頷くしかないじゃないか。出し抜けに手を引かれ抱きしめられる。良い香りがふわりと舞い、心臓が不自然に跳ねた。同時に暖かな幸福感が胸を満たしていく。彼の胸に額を預けると、こほんと咳払いが一つ。あ、と二人して我に返る。

「雨降って地固まったのは良い事ですが、続きは他所でお願いします」

「す、すみません……」

「失礼しました……」

生暖かい目線の荀攸殿に見送られ房を出る。最初はどうなることかと思ったが、終わり良ければ全て良しかな。郭嘉殿に伝えれば「刺激が欲しい時は呼んでね」と彼なりの祝福をいただいた。祝福だと思いたい。