稚い泣き声が自分の名前を呼び、とても小さい体が房に飛び込んできた。榻に腰を据える私の足元に駆け寄る彼は、これまた小さな手で衣の裾をきゅっと掴んだ。

「名前しょうぐん……」

「見事な顔ですね、昭殿」

「…………こわいゆめをみました」

「ああ、なるほど。それはいけない。悪鬼を斬らねば」

小さな体に乗る大きな頭をぐりぐり押し撫でる。陽光に輝く明るい髪が雑に乱され、大きな頭がされるがままにぐらぐら揺れる。最後に袂で彼の顔を拭ってやり、額に口付けてやる。

「あなたを虐げる悪鬼は私が斬ってみせましたよ」

くすりと笑ってやると、それまで目を腫らし涙に濡れていた顔をたちまち明るくさせ、にっこりと幼い笑顔を開かせた。

「はい!もうなにもこわくないです」

「それはよかった。今あなたの母君から大変美味な点心を貰ったので、よければ一緒に食べませんか?」

「いいんですか?それは名前しょうぐんにわたされたものでは……」

「笑う門には福来る、と言うでしょう?怖い怖い悪鬼を呼びつけないためにも、母君の点心を食べて強くおなりませ」

「しょうぐんのようにですか?」

「あるいは私以上に強くなれるかもしれませんねえ」

「おれが、しょうぐんいじょうに…………」

あまりにも真剣に言うので声を上げて笑ってしまった。不思議そうに見上げる彼を抱き上げ、膝に座らせる。眼下にはいくつもの点心と湯気を立たせる茶が置かれてあり、それらは幼い彼の関心をあっという間に拐っていった。食べたいです、と嬉々として言う彼に好きな物を選ばせる。知己の気性を熟知している分、その血を継いでも尚ここまで天真爛漫で居られる彼には愛情もひとしおというもの。師は多分そんな彼の下で勉強している最中か。昭より少し背丈が伸びた彼を脳裏に呼び出していると、懐から舌っ足らずな声が自分を呼んだ。

「―――またわるいゆめをみたときは、しょうぐんにきってもらってもいいですか……?」

気遣わしげな双眸で覗き込まれ、一瞬目を見張る。しかしすぐに口角を綻ばせて彼の頭を撫でた。柔らかい毛が指先をくすぐる。

「いつでもお待ちしておりますよ」

幼く稚い、純心な彼は憂いを絶った顔で笑った。


 突然室内に物音が立ち、がばっと空気を斬る勢いで上体を起こす。そこに居る人物を認め、同時に呆れが出てきた。

「忍ばないでくださいよ、昭殿」

「いやあ、すみません。時分を考えたら起こすのが躊躇われて……」

「そっちの方が却って怖いです」

半ば責めるように睨めつけると、彼は自分の明るい髪を乱して平謝りする。その顔に反省も謝意も見えないのは、私が彼の気性をよくよく知ってしまっているからか。ほう、と息をついて訪いの理由を訪ねる。軽薄な態度は一転し、言葉を濁して視線を泳がせた。

「昭殿?」

言いたくないんだろうか。怖い夢でも見たんですか、と訊ねるより前に彼が動き、あろうことか自分が横になっている牀へ乗り上げた。

「ちょっと昭!あなた何考えて―――」

「やっと呼んでくれましたね」

叱責も遮り、彼は嬉しそうな声を上げた。破顔する様はまるで子供だ。背丈は優に私を越しているというのに、今の彼の雰囲気は在りし日の彼を想起させるほど稚く、純心で、淡い。図らずもこちらが押し黙ってしまうほどに。

「父も兄も亡くなった今と昔とでは大きく変わってしまった。立場も、関係も」

暗く沈んだ声はどこか寂しさを孕んでいて、同時に自分に言い聞かせているふうにも見受けられた。彼には未だ決意を揺るがす何かがわだかまっているのだろうか。曹魏を倒し、帝までもをその手にかけた今となっても尚。

「それでも名前殿にそう呼ばれると強くあれるんですよ。俺のしなければいけないことが、はっきり目に浮かぶんです。兄上の言葉を借りて言うなら、名前殿こそ俺の天命というやつかもしれませんね」

翳りを落とした笑みに、途端どうしようもない感情に衝き上げられる。深く息をついて手を伸ばした。蝋燭の灯りを乗せたほのかに明るい髪を掻き乱す。出し抜けの行動に彼は驚いてみせた。

「……悪い夢を見たならそう言えばいいんですよ、昭」

一瞬彼の肩がこわばる。図星だったんだろう。稚い頃はあんなにも素直に求めてきたというのに、今となってはあらゆる面で良く言えば慎重に、有り体に言えば臆するようになった。思慮深いのは悪いとは言えない。未だ世が乱れている以上、いつ何処で自分の命を落とすとも限らないので警戒は必要だ。しかしかと言って彼の本来の気性を押し潰してまで取り繕うことは褒められない。それが美点とも言えようが、自分を苦しめているなら本末転倒だ。

「流石にかっこつかないですって」

「似合わないです」

「酷いな……」

「私に今更かっこつけられても仕方ないんですから、私の前では素直でいいんですよ。悪鬼を斬って、と口にしてもいいんです。あの時、そう約束したでしょう?」

それで首を縦に振ろうとしないのが今の彼だ。その代わり高い位置にあった頭が私の胸の位置にまで下げられ、撫でられるままに瞑目した。怖いこともあろう。悲しいこともあろう。彼の旅路でいくつ親しい人を失うかわからない。その中に私も含まれているかもしれない。それでも彼の傍に居る間だけでも、彼の悪鬼をことごとく斬ってやろうではないか。