勝利の酒宴に居るべき人が居ない。それはいつものことであり、宴も半ばを過ぎれば誰が居て誰が居ないかといった論いは雑駁な空気に呑まれるので、誰の断りもなく腰を上げた。房を遠ざかるに連なってその喧騒も弱まり、邸の裏手に繁茂する木々の中に設けた亭にまで来ると、一転して夜の静けさに包まれた。

「―――今日も、今日も独酌ですかな?言ってくだされば私が、この陳公台めがいくらでも相手いたしますのに。名前殿」

ひっそりと佇む寂れた石亭の中、一人の女将が僅か数瓶の酒を傍らに観月していた。声をかければこちらに首を巡らせ、薄い微笑を貼り付ける。冷たい夜空と月の白光が彼女の肌を無機質に浮かび上がらせる。近くに護衛の姿もなく、隣には得物もなく。闇に乗じて誰かしらが襲ってもおかしくないというにも関わらず、そのあまりな無防備さに顰蹙した。

「臍を曲げないでくれ。陳宮殿なら見つけてくれると思ったんだ」

内情を悟ったのか悟らずか、彼女はそんなことを滑らせ、隣に座るよう促す。腰を下ろし空いた杯に注いでやれば、疑うこともせずにそれを飲み干した。

「あなたは随分、随分この陳宮を信頼している様子」

堪らず言を放ってしまえば、つい、と視線をこちらへ寄越される。

「降ったとはいえ、かつての敵に心を許しすぎではないですかな?」

皮肉のつもりで言ったこと。しかし返ってきたのは、数秒の沈黙と夜の静けさを裂くような猛々しい笑い声だった。

「笑うようなことは言っておりませんぞ!」

かっとなって声を張ると、彼女は「すまんすまん」と大して悪びれる様子もなく言った。

「陳宮殿は策によらず優しい方なのだな」

「……そういう意図ではありませぬが」

「あなたがそういう方だからこそ、心配しておらぬのですよ」

落ち着きを見せた調子で言われ、瞠目する。返しとしては予想してなかったものだからだ。

「あなたは呂布殿の腹心の部下。国を均すためであればいかなる武も使う方だ」

「だから私があなたを手にかける余地はない、と?」

「使える武器を折るほど曇った目はお持ちでないでしょう」

したり顔で笑ってみせるので、毒牙を抜かれてしまった心地になる。

「私が、私が却ってやられてしまったようですな」

「軍師殿から一本取れるとは光栄だ」

「その武力、ぜひ呂布殿のために振るっていただきたいものです」

彼女は笑んで注いだ酒を飲んだ。



―――徐州東海郡郯城たんじょうへの出征は滞りなく進み、我が主呂布殿もその尋常ならざる武力で敵を薙ぎ払い、郯城が手中に落ちるのは必定となった。郯が手に入れば琅邪ろうやへの足掛かりとできる。尖兵が持ち帰った情報曰く「何処の部隊も各個撃破を果たしており、敵勢は目に見えて戦意をなくして、撤退してる者も居る」とのこと。長くてあと数刻、といったところか。上手く事が運んでいる優越から口端が吊り上がる。と、そこに一人の兵士が駆け込んできた。敵陣に近い場所に潜り込ませた部隊のうちの一人である。

「申し上げます!敵将討たれた、とのこと!」

「早すぎますな。呂布殿の居る場所を考えればまだ時間がかかるのでは?」

「いえ。それが討ったのは呂布殿ではなく、名前殿なのです」

首級を挙げたその女将の名前を聞いて得心した。彼女ほどの武人ならやり遂げても不思議でない。何せ敵だった頃、自分が何より警戒したのは、その背後に居る国主より国境を任された彼女だったからだ。一騎当千、万夫不当。呂布殿に比肩せずとも劣らない武力が今、自軍に居る。そのなんと頼もしいことか。敵の本陣に乗り込んだのであればそのまま呂布殿の隊と合流し、残党を一掃して帰還できるだろう。首級を取られて臍を曲げただろう我が主君を宥めるべく策を巡らすその途中、別の隊の兵士が飛び込んできた。

「で、伝令!!帰還途中だった呂布殿が、―――名前殿に襲われ、ただいま交戦中!」

反旗を翻しました、と放たれた言葉にその場に居合わせた全員が凍る。かく言う自分も例外ではなかった。飲み込むのに手間取ってしまったが、すぐに我に返って増援と共に兵を送り出した。陣中で一人になり、静けさが戻ってくる。兵士たちの屐声も何処か遠くに感じ、脳裏はただ混乱で埋め尽くされる。彼女が呂布殿を襲った。それはどう取り繕おうとも反旗を掲げたことになる。何故今なのか。郯の連中と密通していたのか。だがそれでは首級を挙げるはずもない。密かに彼女も郯を狙っていたというのか。国だ民だのは手に余る、とは彼女の言だ。あれはこちらを欺く嘘であり、ずっと二心を抱えていたのか。降ってみせたあの時から。共に夜を明かした記憶がぼやけて、彼女という人間の輪郭も消えていく。―――とはいえ、だ。どれほど武功ある人間でも彼女は女の身。武術の心得がない男になら勝てても、相手があの呂布殿ならまず勝ち目はない。死力を尽くしても最後に立つのは我が主だろう。ざわつく胸を宥め、報を待つ。そして陣中に顔を出したのは。

「―――ただいま帰還しました、陳宮殿」

目の前に並ぶ二つの首。片方には酷く、酷く見覚えがあった。沈黙を貫く自分の前で鎧が擦れる金属音が立つ。持っていた大剣を地面に突き立て、揖する。つい、と持ち上げた視線に飛び込んだのは、生々しい赤を散らした彼女の肢体だった。我が主呂布殿と敵の国主と思しき血をまとわりつかせ、それでも尚その顔には一切の迷いも後ろめたさも見えなかった。泰然自若あるがままに立っているその様子は昨晩と変わりないとすら感じる。真っ直ぐにこちらを見据える彼女に、一つ訊ねた。

「これからどうするおつもりですかな?」

まだまだ地番が磐石とは言えないこの状況で、呂布殿が討たれてしまった。彼の首を手土産に勢いづけている曹操に降るも、呂布殿を討った武力を誇示して兵を集めるも、今の彼女には容易いこと。この場に居る騒然とした兵士たちを懐柔することも可能だろう。故に、呂布殿の策謀を担っていた自分を討った後を知りたいと思っただけの無意味な問いかけに過ぎない。しかし彼女は平然と信じられないことを言い放った。

「郯は既に我が手中にある。これを足掛かりとして琅邪に攻め込む予定だ。その策を陳宮殿に任せたい」

「私を討たない、と?」

「……降ったほんとうの理由を伝えていませんでしたね」

すっと目を眇められる。薄ら浮かべた口角からは鋭い歯が覗いた。

「あなたが欲しかったからですよ、陳宮殿」

一拍置き、間にある几のふちをなぞるように歩きながら続きを紡ぐ。

「私たちが敵として相見えたあの時からあなたを手に入れようと思ってました。あなたの才は素晴らしいものだ。以前の主君には数多の智者が集ったが、いずれもあなたの足元には及ばない」

そしてこちらに来る途中、突然几を拳で殴った。

「―――だがあの男はあなたを軽んじるばかりか、能無しと蔑んだ!!能無しはどちらだ!武を知らしめることばかり頭を埋め、物事の真意を見抜けぬような愚昧が、己の力だけでのし上がったとでも思ったか!すべては陳宮殿の差配の賜物だろう!それをあの男はまるで理解していなかった!」

憤りを露わにし、怒声を上げる。そんな姿は初めて見る。いつもの彼女は、呂布殿の反対と言われるほど凪いでいるからだ。降伏した際にこちらの兵士に謗りを受けても眉一つ逆立てず、穏便に事を終わらせたと聞く。寛恕が深いと謳われるその彼女が、目に見えて気色ばみ、口汚く呂布殿を罵っている。一切を隠し通した彼女の忍耐強さにも感心するが、それ以上に滔々と紡がれる本意に衝撃を受けた。頼られていた自覚はある。降って以降、彼女が否を唱えることはなかったからだ。しかしそこにこれほどの本意があったとは不覚にも見抜けなかった。

「…………一度だけ、あの男に訊ねたことがある」

一転して声色が沈む。重く、暗く、静謐に。

「陳宮殿をどう思っているのか、と。そうしたらあの男は厚顔無恥にも邪魔な奴だと言い放った!ならば自分に寄越せと言った私を、あの男は笑った!あなたをかように扱う男の下になぞ置いてはおけん。だからあの男を討った」

そして傍にまで近づくと、手を差し出した。

「私はあなたが欲しい、陳宮殿。決してあの男のように扱ったりしないことを約束する。天下を望むなら我が武力すべてを尽くしてあなたに捧げよう。―――だから私の手を取ってくれ」

切々と語るその双眸は不安定に、しかし強い眼差しを湛えて揺れていた。とくん、と心臓が跳ねる。体を巡る血が熱い。心臓を震わすこれは歓喜だった。これほど自分を求める人間が居ただろうか。愚直、実に愚直。だが愛らしい。そう思ってしまうほど、彼女に求められている。体の横で張り付く腕を動かし、揖礼をする。

「あなたが、あなたが私をこれほど求めるのならば、この陳公台、我が智謀をあまねく捧げて三国を均しましょうぞ」

目を大きく見開き、そして破顔する。人中の呂布、馬中の赤兎とまで謳われた彼を討ち取り、見事郯まで彼女は収めた。一体誰がこの未来を見通せただろうか。かく言う自分でさえ呂布殿が勝つとばかり思っていた。しかしここに立っているのは、首を掲げて生きているのはまごうごとなき彼女。鼓動が逸るのを抑えられない。ああ、我が野望は叶えられるのかもしれない。込み上げる歓喜に口角が吊り上がった。