―――袁家の女性を妻に迎えた、との報せを女官が運んだ。それはそれは大層な美姫らしく、戦場で散らすのを惜しまれて娶ったとのこと。最後に「曹丕様はあなたのこともきちんと愛しておいでですよ」なんて見え見えの世辞を加えるが、私は無言で退出を促した。愛してる?あの男が、自分を?ありえない。あの男に人は愛せない。あれはそういう気性を持って生まれたひとなんだから。口を揃えて称える人しか居ない宮中でただ一人、私だけが彼の素性を知っている。

「……熱い」

茶杯を口から離す。どうやら十分に冷めていなかったらしい。じんじんと熱を持つ唇に触れて、そっと離した。あの日、私の人生は大きく狂ってしまった。あの男の兇手によって。自分はここ許昌から遠く離れた土地に生まれ育った。末の妹とあってか、温厚な三人の兄たちと父母によって、過分に慈しまれた。私はそんな家族が大切だったし、できることなら離れたくないと思った。幸い父は嫁ぎに行くことを強要せず、出て行きたくないなら婿を取ればいい、と嬉しいことを言ってくれた。だからずっとこのまま家族全員で幸せに暮らしていける、そう思ったのだ。だがあの男、曹丕がやってきたその日に私のささやかな願いは散らされた。側室を断ったという罪で、父母や兄たちだけでなく親類縁者までもが処刑されてしまった。乳母も花売りの少女も料理人も、私と関わった人たちみんなみんな。生き残ったのは取り押さえられた私ただ一人。呆然とするその日の夜、終わりのない地獄が始まったことを、体に刻み込まれた。

「何が愛よ、馬鹿々しい……。こっちはむしろ離れていってくれたことに感謝してるのに」

誰の目もないのをいいことに本意を吐露する。いつもはあの男が宛てがった女官たちに囲まれ、いかに子息は凄いのかを滔々と垂れ流されるのだが、今日はあの男と正妻の婚儀が執り行われるため出払っている。戻るのは夜か日を跨いだ朝か。どちらにしろ構わない。怨敵の息がかかった人たちとなんか一緒に居たくない。茶杯を啜ると、今度はいい塩梅に熱が抜けていた。つい、と視線を滑らせる。壁に設けられた漏窓の向こう、白光に浮かぶのは、庭園に植えられた梅。空に向かって野放図に伸びた梢は、淡くも鮮烈な花弁を咲かせている。ふいに吹かれた風に一枚の花弁が枝を離れた。宙を漂い、やがて漏窓の枠に消えていった。私もあの花のように消えてしまえれたらいいのに。つんと痛んだ胸を茶で宥めた。




 それからあの男が房に来ることはなかった。夜を迎える度女官たちは慰めという名の毒を浴びせるものの、淹れてくれた熱い茶と静かな月が傷心を慰めてくれた。懐かしい面々を目蓋の裏に呼び起こし、あの日のように戯れる。手入れされた庭を、衣の裾をなびかせて駆ける。心配そうに窘める長兄、微笑ましく茶を啜る次兄、後を追う三兄、そんな私たちを穏やかな笑みで見つめる父母と乳母。ちょうどそこへ花売りの少女がやってきて輪に入る。そうね、空は晴れだといいわ。遠くまで見渡せるような晴れで、暖かいの。朗らかな笑みが絶えない中、料理人はほかほかの天心を持ってくる。焼きたての甘い蓮蓉包。それをみんなで囲んで食べる。ああ、なんて美しく優しい光景でしょう。みんなに釣られて笑みがこぼれた。

「―――未だ死んだ者にしがみつくか」

放たれた一閃が眼前の人たちを一刀両断する。ざっと花が舞い上がる。赤く染った花弁が散り、誰かの甲高い悲鳴が鼓膜を劈く。美しい光景がたちまち悲劇へと転じ、堪らず目蓋を開けた。午睡を誘う美景は霧散し、代わりにあったのは、無慈悲な現実と冷たい眼差しを湛えた男の顔貌だった。人情を感じさせない氷の目が歪んだ笑みに眇められる。ぞわり、と全身が総毛立った。張り付く喉を上下させる。

「どう、して……」

掠れた声が漏れる。男は絶望に打ちひしがれる私を嘲笑った。男の手が伸びてくる。嫌、捕まりたくない!触られたくない!絡みついた恐怖を薙ぎ払って脚を動かす。けれど、やっとの抵抗も虚しく腕が掴まれる。その手がもたらした地獄が蘇り、体は瞬く間に硬直した。息を漏らす間もなく腕を引かれて懐へ閉じ込められる。腰に回された腕が固く、びくともしない。顎を持ち上げられ、強引に視線を合わされた。冷たさに霧散したばかりの恐怖が喉を絞める。

「私がお前を手放すと思ったか?」

「いや……、嫌っ……!放して……っ」

「強情なことだ」

薄く笑うと手首を掴んで歩き出した。その先にある牀を見て、頭から血の気が引いていく。もはや悲鳴も上げれずに涙する目を瞬かせた自分を、そこへ放り投げた。固い板にしたたかに背中を打ち、呻く。衣擦れの音と共に濃く大きな影に覆われる。押し退けて逃げてしまいたい、と強く望むのに手はおろか指先一つ満足に動かせない。ああ、いや。いや。ころされる。だれか、だれかわたしをたすけて。こわい、おそろしい、つめたい。お父様、お母様。お兄様方。何処にいらっしゃるの。私を一人にしないで。

「みんな……っ」

堪らず声を上げると唇を塞がれた。きつく結ぶ口へ強引にねじ込まれた舌が中を蹂躙する。呼吸を絡め取るような、苦しい口付けだった。息苦しさと恐ろしさに涙を目の端に浮かべる。肩を押す手は容易く頭上でまとめられてしまった。意識が朦朧としてきた頃に、ようやく唇が離された。

「っは……、は……っ」

肺が送り込まれた空気に大きく膨らみ、思わず噎せる。男は私を見下ろして目を細めた。氷のように冷たく、飢えた獣のように恐ろしい眼差しが胸を穿つ。

「お前を手放す気など更々ない。無論、他の誰にくれてやるつもりもない。死んだ奴らなど尚のこと。たとえ私が斃れることがあれば、―――その時はお前も連れていってやろう」

宣告された言葉に、心臓が静かに熱を失っていく。私は絶望した。ささやかな夢が壊されたことに。家族に褒められた花を散らされたことに。なによりも、死後の居場所を奪われたことに。ああ、お父様お母様、お兄様方……。在りし日の美景が黒く染まっていく。落ちた梅の花は、魔手に掬われてしまった。