剣の指南をしている最中、突然公績が腕を下ろした。
「―――最近のあんた、つまらなくなったよな」
吐かれた言葉を理解するのに時間がかかった。その評価はあまりにも青天の霹靂で、脈絡もなしに面と面向かって言われたものだから、理解しても尚なんと言えばいいかわからなかった。
「以前のあんたはもっと強かった。孫呉の未来のためにとただひたすらに剣術を陶冶して、その強さに誰も並ばせようとしなかったんだ」
困惑は有り体に出ていたのだろう。彼は息をついて説明してくれた。しかしそれでも納得できない。自分の腕が衰えた自覚はないからだ。今でも己の指針は孫堅殿の頃から変わらずで、仕える主が孫権殿になっても同じ。先だっての戦績も褒めてもらえたばかりで、尚のこと公績の言う「つまらなくなった」ことにも、「強かった」ことにも身に覚えがない。言葉を出せないでいる私に、彼は冷たさを湛える目を下ろした。
「がっかりだよ」
そう言い残し、去っていった。
それからというもの、公績は稽古の時間に顔を出さなくなってしまった。それだけでなく、普段でも顔を合わせたらすぐに顔を背けて立ち去ったり、以前なら私と組まれることを喜ぶ節さえ見せていたものが、今では断固として拒絶し、見かねた呂蒙殿に苦言を呈される始末。顔を見て眉根を寄せるほど嫌われたと理解した私は、諸手を挙げて助言を求めた。
「あの凌統殿が……。きみにも心当たりがないんだろう?」
訊ねられ、小さく首肯する。
「弱くなったと言われ、失望されました。ですがほんとうに私には心当たりがないのです」
「弱い?きみが?」
驚愕を露わに目を瞬かせる彼。それは凌統の言葉を否定するものであり、それに頷くことは少々躊躇われたものの、自分では得心いかないことだったので頷いた。顎に手を宛てがい、息を漏らす。何処までも信じられないといったふうであった。
「あなたから見て私は弱くなりましたか……?」
おずおずと訊ねる私に、彼は「とんでもない」と言って首を振った。
「多勢に無勢の中で敵将を討ち取り、生還してみせたきみが、弱いなんてあるものか」
「私は女の身ですし、自覚してないだけでほんとうは衰えているのやも……」
「驕らない気性は好ましいけど、卑下はおやめ。気高い孫呉の将である以前に、きみは私の妻なんだ。愛する妻が己を卑下するところは見たくないよ」
彼はそう言って俯く頭を優しく撫でた。顔を上げる私に、穏やかに微笑む。翳りを落とした胸中がみるみる晴れていくのを自覚した。同時に安堵する。彼に強いと認めてもらえることに、そして愛する妻と言ってもらえることに。正確に言うなら婚儀はまだ挙げていないので妻ではないのだが、「いずれ妻になるのだから呼び方なんて取り留めるほどでもないさ」との彼の言に納得し、そのままにしている。
「凌統殿はまだ若いけど思慮深い人だ。それは彼の幼き頃を知るきみが一番わかるはず。なら話し合ってみればいいんじゃないかな。お互い得心いくまで、じっくりと」
「……ですが最近は顔すら合わせてくれず、すぐに立ち去ってしまうのです。話しかけようにも余人が居るところでしか聞いてくれず」
消沈して返せば、しばらく黙り込んだ後に彼は言った。
「―――なら私の言う通りにしてごらん」
耳打ちされた奸計に気が引きつつも、これ以上拗らせるわけにはいかないと気を持ち直し、彼の提案を受け入れた。
早い方がいいとのことで、翌日の夜に私はとある一室を訪れていた。孫家の邸に設けられた大広間に公績は居る。閉じられた扉へ伸ばす手が硬い。緊張、しているんだろうか。起因はわかっているつもりだ。けれどここまでだとは思わなかった。私は彼を、公績を恐れているのかもしれない。淩操殿と親しくなり、彼の息子の剣の指南役として抜擢されて以降、公績とはそれなりに長い付き合いとなる。浅からぬ縁と言えよう。公績は自立心と責任感が人一倍強い節があるので、初めは良好とは言えない関係だった。それでも日を重ねるうちに懐襟を開かれ、信頼されるようになった。自分も、そんな彼を実子とはいかずとも自分なりに慈しみ心を砕いてきた。素気無い対応こそされ、あんなふうに面と面向かって冷たい眼差しを送られたことも、失望の色を見せられたこともない。人はいつまでも記憶の通りでは居ないとわかっている。けれどあまりの変容ぶりに、正直に言って応対するのが怖かった。知らないといけないことなのに、知るのが恐ろしい。ああ、彼の言う弱さとはこういう面なんだろうか。挫けそうになった意志を引きずりながら、腹を決めて扉を開けた。室内には計らい通り公績ただ一人。訪いが自分であると知るや否や、彼は眉根を寄せてこちらに歩いてきた。
「孫権殿なら後からいらっしゃいますよ」
時分はまだ宵の口だというのに、房の場所が人気から離れた場所に設けられているためか、辺りには既に夜の静けさが漂っており、糸を張ったような夜気には自分の声がよく通った。横を通り過ぎる算段だった公績はその一言に足を止め、舌を鳴らす。不機嫌に歪む相好を見て、胸がつんと痛む。逃げ出したい気持ちに駆られたが、主君の孫権殿まで巻き込んだ以上は向き合わねばならない。
「何の用?」
訊ねる語調は明らかに冷たいものだった。怯みそうになるのを堪え、彼を見据える。
「何故私を避けるのですか?」
「別に。あんたと話す用事がなかっただけだよ」
「なら何故私から話しかけに言っても無視するのです」
「言っただろ。話すことがないって」
「稽古にも来なくなりましたね」
「……もう要らないよ、あんたの稽古は」
物言いこそ容赦ないものの、それだけは冷たさがなかった。まるで言うのを躊躇うような。彼自身、何かを迷っているのだろうか。そう思うと、自然と恐怖が解けていった。
「私はあなたに失望されたとばかり思っていました。だけど今は怒っているように見えます。教えてください、あなたの思っていることを」
知るのが怖いと思っていた。その胸中にある失望を聞かされたら立ち直れないだろうとも。けれど動揺を見せる彼に、私は一縷の望みを抱いた。私は元来人付き合いが得手ではない。人の心情を読み取るのも、裏を読むのもできないほど鈍く、それでいながら人と対峙するのを避けてきた。そんな私だと知りながら何度もぶつかってきた公績。それを受け止める度量がなければ、この先二度と彼に指南なんてできない。大丈夫だよ、との夫の声が耳朶を掠めたような気がして、気を強く保てた。
「なんでそんな関わってくるんだよ」
「かつてのあなたがそうしたからです」
「放っておいてくれ」
「嫌です。構います」
「なっ」
彼が瞠目するのも当然だ。ここまで食い下がることなんてなかったのだから。一歩下がる彼の手を思わず掴み、前へ踏み出した。真っ直ぐ見つめる私と彼。先に逸らしたのは公績だった。唇を噛み締め、顔を背ける。
「……んで…………」
声量を落とされ聞き取れない。覗き込もうとしてもこめかみが横顔を隠し、表情は見れなかった。
「公績?」
「―――なんであんたは強いままで居てくれなかったんだ!」
突如大きい声を上げられ、びくっと肩が震える。驚いた拍子に手を離してしまった。鋭い眼光が射抜き、言葉を飲み込む。吊り上げた眦と寄せられた眉根を見るに憤っていることは明白だが、その声は怒りをぶつけるというよりももっと別の何かに聞こえた。
「なんで孫呉の未来だけを考えてくれなかったんだ!そうすれば俺は、……こんな気持ちを抱くこともなかったんだよ……!」
「公績―――」
伸ばした手を見て、彼は大きく後退る。刹那に垣間見た傷ついたような目が脳裏から離れない。怒っているのではない。彼は、きっと悲しんでいるのだ。それなのに素直にそう言えなくて私にぶつけている。
「公績、何故あなたはそうも悲しい顔をするのですか?」
伸ばした手を引っ込め、訊ねる。目を見開いた彼は即座に頭を振った。
「……悲しいなんて思っちゃいない」
「ねえ公績。私は今でも孫呉のために立っています。孫権殿に死地へ赴けと御下命されれば喜んで発ちます。それでも私は弱いですか?孫呉を想っていないと言いますか?」
自分を見据える双眸が揺れる。違う、と声にならない声が落とされた。
「…………あんたは弱くないっつの。強かったよ、昔からずっと。―――弱いのは俺だ」
「そんな。あなたが弱いなんて……」
今や甘寧殿と並んで先陣を任されているほど。父の淩操は確かに万夫不当の猛者だったが、しかしいつまでも己の父と比べて過小評価する必要はない。再三言ってきたが、未だ彼には響いていないというのか。かける言葉を決めあぐねる私の耳に、ふっと失笑する公績の笑い声が届いた。
「公績?」
俯いていた彼が歩み寄り、私の頬に手を宛てがった。出し抜けの行動が上手く飲み込めず、ただ呆然と見上げるしかできなかった。目を丸くする私に彼は薄く笑う。
「つまんないこと言って困らせてごめん。稽古は明日から行くよ。……俺はあんたの一番弟子だからな」
そう言って手を離す。横を通り過ぎる彼にやや遅れて振り返り、その手を掴もうとした。だけどそれよりも彼が房を出ていくのが早く、この手は虚空を掴むだけに留まってしまった。結果を見れば和解したと言える。しかし自分の胸中は先程以上に困惑に満ちていた。笑んでいるはずなのに、私を見る目はとても辛そうだった。何かを必死に堪え、こぼすまいとするような。一人佇む房の中、何をすればいいかわからなかった。