仕えてる人の夫君は、どうやら妻のものは自分のものという考えを持っているらしい。枝を拾ってこいと犬に命令するがごとく無理難題を吹っかけ、しかもそれを悪びれる様子もなく涼しげに言うものだから憎さ倍増。そして今日もまた私は呼び出しを食らっていた。
「はいはい今度はなんですか。涼州にかちこみですか、飲んだくれ張飛殿の的になればいいんですか、曹操の首を持ってくれば気は済みますか」
とても自分より上の人に対する言動ではないが、雇われ兵の悪態など何処吹く風、柳眉の一つも動かさず竹簡へ落としていた視線を持ち上げる。起きてるのか寝てるのかわからないほど薄く開かれた目は腹の中を語らない。
「ゆくゆくは曹操の首も取ってもらいます。しかし今は別の方をお願いします」
冗談のつもりで言ったんですが、という言葉はさらりと言ってのけた爆弾発言の威力に負けて封じられてしまった。私は月英様の護衛であって、諸葛亮殿の私兵でなければ蜀漢の官兵でもない。主の夫君だからって好き勝手していいわけじゃないんだからな。
「広漢のケ芝殿から文が届きました。側近として召し上げた周溝なる文官の動向を探ってほしいとのこと」
「えっ。間者として潜り込めってことですか?たかが文官一人に大袈裟すぎやしません?」
「周溝の肉親こそ蜀に居ますが、彼の遠縁は魏に嫁いでいます」
「ああ、なるほど……」
蜀呉同盟を結んだ今、身内に魏に寝返るような不穏分子は残しておきたくない、ということか。上の立場が堂々動けないのも、下手打って魏に逃げられるのを避けたいからだろう。とくれば彼の言うとおり間者を送って真意を探るのが得策。が、しかしだ。
「広漢まで二日以上かかるんですけど?もしかして私の本来の立場をお忘れですか?」
「あなたの腕を見込んでのお願いなのですが、受けてはもらえませんか」
「あったりまえです!月英様の傍を二日も離れるなんて無理です。他の人に頼んでください。だいたい間者なんて柄じゃないですし」
「それなら問題ありません」
「はい?」
「周溝は漁色家と聞きます。妓女に扮して近づいてもらえれば―――」
「だ、断固お断りします!!絶対嫌!」
言い終わらないうちから食い気味に否定する。あきらかに声音を落として「駄目ですか……」と呟くが、逆に何故通ると思ったのか訊ねたくなった。
「妓女に扮してって、つまり、あ、あんなことやこ、こんなことしなければいけないんですよね……?むむむ無理です!絶対できません!私には荷が勝ちすぎてますって……!」
「あんなこと、とは?」
「察しろ!」
誰だこの人を天才軍師だの臥龍だの言った奴は。事実その通りだけどさ。いや違う、そんなことが言いたいわけじゃない。斬った張ったが日常の自分でもできないことはある。間者がそれだった。子供の時から偽ったり取り繕ったり苦手であったし、まして今回は妓女。胸元を大きく露出した恰好で男にしなだれかかるなんて、想像しただけで汗が噴き出す。早くなる鼓動が全身を熱くさせ、羞恥を顔に浮かべて首を落とす勢いで横に振ってみせた。
「とにかくしませんからね!絶対!そもそも月英様の護衛が私の本分ですし!」
「ふむ……」
手にしていた竹簡を丸め、傍に置く。居住まいを正してまじまじと見つめる視線が居た堪れなくて、顔を逸らす。なんで私が責められてるの。おかしい、どう見てもおかしい。私に間者をやれって言うのは、張飛殿に酒を飲むなと言うようなもの。そんなの自分に言われるまでもなく彼が重々承知しているはず。なのにわざわざ自分に依頼するなんて、もしかしたらこれは嫌がらせか?きっとそうだ。それか月英様と引き離そうとしてるかのどっちかだ。そりゃ月英様との時間に割り込む私も大人気ないとは思うよ?思うけど、だからってこんな手の込んだ嫌がらせはあんまりだ。だいたい月英様と先に知り合ったのは私だし、共に過ごした月日だって私の方が長いのに、ぽっと出てきた夫君が掻っ攫おうなんて横暴すぎる。自分が男だったら彼みたいな人間には絶対近づけさせない。だって危険すぎるもの。今だって何考えてるかわからないし。こっち見んな。
「―――あなたをすすめたのは月英なのです」
出し抜けに飛び出した名前に「え?」と聞き返してしまう。
「月英様が私を……?」
「造反や離反という可能性がある以上、これを任すには信頼がなければいけません。月英はだからこそあなたを推薦したのです。裏切らない信頼、期待に応えてくれる信頼。それはあなたにしか抱けないものだから、と」
「月英様……」
懇々と紡がれる自分の与り知らない月英様の本意に、私はただ言葉を失うばかりだった。月英様とは幼い頃からの付き合いだ。孤児だった私を自分の護衛として実父に掛け合ってくれたばかりか、本分を全うする上で負った傷をつぶさに気遣ってくれる。私が彼女に恩義を感じることこそあれ、彼女からの信頼など考えたことがなかった。受けた恩を返すことが生き甲斐とする私をここまで信頼してくれるなんて。人前だけどちょっと泣きそう。
「私も彼女と同じ考えです。信頼しているあなたにしか任せられないのです」
「で、でも私、妓女の経験なんてないですよ。いっそ下女として潜り込むのは―――」
「それでは相手の信を得るのに時間を要します。猜疑心深い人物なので、彼が下と見ているかつ接する機会の多い妓女が最適でしょう」
「駄目ですか……」
派手に着飾った自分を脳裏に描き、ついに落涙した。絶対無理だって。色気より食い気な自分が着飾ってもせいぜい笑いものになるだけだって。なかなか首肯しない私に痺れを切らしたのか、突然服を手渡された。
「……なんですかこれ」
「妓女の服です。月英に用意させました」
「な、なんて物用意させてるんですか!ていうかこれ切れ込み深すぎませんか!え、なんでこんなところが開いてるんです?あ、ここも……!ちょ、ちょっと諸葛亮殿。私これ無―――」
「まずは着替えてきてください」
「はあ!?」
「戻ってくる時はこれを羽織ってください。余人に見られるのはあなたにとって不本意でしょうから」
大きな布を一枚追加で渡される。出仕してる時間だからそりゃ廊下には人の目があるけど、それ以前に。
「私やるなんて一言も―――」
「頼みましたよ」
今度は自分が言い終わらないうちに房を追い出されてしまった。くそ、またか!
着ないことには相手してもらえそうにないと感じ、とりあえず衣に腕を通した。接待という名の嫌がらせで法正殿に飲みに連れ回された経験が活き、ほぼ布きれという服は簡単に着れた。鏡台に映る自分に落胆したのは言うまでもないが、それより気がかりなのは、なんといっても大胆に開けられた胸元と背中だった。一挙手一投足のたびに布がなびき、今まで経験したことない風通しの良さに気がそぞろとなる。あっちこっちに視線を向ける私は紛うことなき怪しい奴だ。幸いなのは女の身ということと顔が知れ渡っていること。訝しげな視線は感じるが、敵意はない。あの大きな布貰っておいて正解だった。じゃなかったら廊下を出歩くなんて無理。うう、なんでこんな恥辱とも呼べる拷問を私が。いっそ着替えてこようかな、と一抹の考えが過ぎるが、月英様の言葉を思い出してさっと頭を振る。
「月英様の信頼に応えるって決めたじゃない。そうよ、きっと大丈夫よ。月英様の信頼を無くす恐怖に比べればこれしき屁でもないわ!よっしゃやったるぞー!」
結果だけ見れば例の夫君に押し切られたようで少々不服だが、朗報を持って帰ればきっと月英様は喜んでくれる。敬愛する月英様のため、涙を飲んでこんな恰好した自分のため、やってやろうじゃない。一つ大きく頷き、諸葛亮殿の執務室の扉を開けた。
「やってやりますとも!」
「叫ばずとも聞こえています。―――では試しに私にしなだれかかってください」
「………………なんて?」
威勢よく入ってきたものの数秒で固まることになった。しなだれかかる?誰が?私が。誰に?諸葛亮殿に。
「え。いや、いやいやいやいや。はい?なんでそうなるんです?は?」
「この程度ができなければ周溝の信は得られませんよ」
図星を突かれてぐっと押し黙る。どんな女性が好みかは知らないけど、もし積極的な女性が好きなら確かに恥ずかしがってる場合じゃない。とはいえ。
「だからって諸葛亮殿にやるのは……」
知ってる人だし何より彼は月英様の夫君。任務のためとはいえ触れるのに忍びない。
「では法正殿を―――」
「諸葛亮殿でお願いします!!」
人の弱点を愉しそうにちらつかせるあの人のことだ、こんなことお願いしようものなら一生弄られる。絶対嫌だ。無理難題吹っかける諸葛亮殿も苦手だが、あの人も苦手だ。良心は劉備殿と関羽殿と月英様しか居ない。なんて国だ。
「どうやってしなだれかかるんです?これ」
彼が座る榻は一人掛けであり、自分が座る空きがない。首を傾げる私に一言。
「私の上が空いてますよ」
引き受けると言った早々だが逃げ出したくなった。絶句して佇む私を見上げる。その目は何処までも淡白で、相変わらず何考えてるか悟らせない。語調に変化はなくて、これは任務に必要なことだと理解しても尚決心つかない自分が、まるで子供みたいだ。ぐっと拳を握る。深呼吸して自分を落ち着かせる。大丈夫、これは仕事これは仕事。遊びじゃないの。仕事なの。大丈夫、大丈夫よ私。できるよ私。やってやれ私。
「……失礼します」
意外にも落ち着いた声だった。断りを入れ、几との間に伸びる彼の膝上に腰を下ろす。申し訳ありません月英様。これも仕事のためなのです。内心謝罪しつつすぐ横を見れば、近いところに諸葛亮殿の顔があった。私より遥かに長身な彼は、自分より頭いくつ分も出た高みから視線を落としている。座ったはいいものの、次どうしよう。しなだれかかるってもたれかかればいいんだよね。もたれかかるとは、つまり彼の胸に頭を預けることで。転げ回りたくなる気持ちを堪え、おそるおそる頭を傾けてみる。形だけで言うならこれで合ってるはず。多分。
「あの、これでいいんですかね。次どうすれば……」
というか何故さっきから一言も喋らない。あれか、こいつ下手くそだなあとか思ってるのか。しょうがないでしょ、色事は一切触れずに育ったんだから。こんな至近距離で男性に触れるなんて、これだけでいっぱいなんだよこっちは。相手は月英様の夫君だし。下手にもなる。私は悪くない。ただ合わせてる視線さえ恥ずかしくて逸らそうとした時。
「腕を回してください」
「えっと……、何処に?」
「首にです」
「…………はい……」
力なく答え、自分の膝の上に置く腕を持ち上げる。申し訳ありません月英様、ほんとう申し訳ありません。私の一番は月英様だけです。誓って。混乱する頭で彼の首に手を回すと、自分の腰を抱かれた。
「へっ……!?諸葛亮殿!?」
「あなたは妓女として行くのです。これくらいはされてもおかしくありません」
「それは……、そうですが……」
「あと呼ぶ時は字名ですよ」
「あ、そうか。わかりました。気をつけます」
「呼んでみてください」
「え?周溝の字名ってなんて言うんです?」
訊ねると、にわかに眉根を顰められてしまった。しかしすぐに皺は伸ばされ、代わりに溜息をつかれた。え、なんか気に障ること言ったか私。
「これは練習ですよ。わかっていますか」
ええぇ、なんか怒られた。なんか間違えたかなあ。振り返っても思い当たる節がない私はとりあえず「すみません」と謝っておいた。法正殿といい彼といい、軍師ってよくわからない。劉備殿って改めて凄い人なんだな、と思った時。いきなり肩に顔を埋められた。ふ、とぬるい息がかかり肩が飛び跳ねる。
「な、ななな何してるんですか!気でも狂いましたか諸葛亮殿!」
離れようとしても腰に回された腕が固く、びくともしない。普段鍛錬しないくせに、何処から出てくるんだこの馬鹿力は。肩先を押す私の力などなんともないといった風情で、焦りが出てくる。これ以上はいけない。経験などない私でも不味いことだけはわかる。
「ひゃっ……!」
首筋をぬるぬるして生暖かいものが這う。それが舌であることは混乱した頭でも理解できた。どうして、何故、なんて疑問の代わりに息を凝らすような高い声ばかり唇から漏れる。自分が発する声だとは思いたくなくて耳を塞ぎたくなった。髭が肌をくすぐり身をよじる。それでも彼は離してくれなかった。腹に食い込む腕が動くことを窘めるようですらある。
「諸葛亮殿っ……!」
堪らず名を呼ぶと、耳朶をやんわり食まれた。
「字名で呼ぶよう言ったでしょう」
「こ、孔明様……っ」
間違いを正す語調でささやかれ、肩が思わず跳ねる。耐えきれず仰け反ると、そのまま視界が巡り次に感じたのは背中に広がる痛みだった。落ちたんだと理解する。意識をやって呆然と見上げる私に、榻から立ち上がった彼が手を差し伸べる。
「及第点といったところですね。化粧などは月英から教えてもらってください。出立は明朝お願いします。それまでにケ芝殿にはこちらから話を通しておきます」
のべつ幕無しに並べられ、手放していた意識が急に戻ってくる。床に尻餅つく私の手を引いて立たせると、返す間も与えずに「では頼みましたよ」とだけ言って追い出した。次いで渡された布を急いで体に巻き付け、自室を向かう。道中、火照った体が冷えることはなかった。
明朝出立した私は二日と少しで広漢に着き、息付く間もなく周溝の邸へ回された。仕事は言われた通りこなしたが、そこでの記憶は生涯掘り返すことのないよう遥か隅に追いやることにした。ただ一つ。もう二度とあんなことはしたくない。