甘寧が死んだことを伝えた時、彼女は一言。

「―――そう」

庭に植えた梅の木を見上げ、感情を削いだ声音で吐き捨てる。その横顔に情緒は感じなかった。



名前は滅多に感情を面に出さない。腹の中も不明であれば、好悪もわからない。自分の知る彼女はいつでも淡白で、周囲に褒められる花顔は微塵も変わらないので、顔貌見たさに群がっていた輩も今は居ない。それでも長年培ってきた勘が、彼女の表情を正確に読み取ってくれた。

「言いたいことがあるなら言いなよ」

唐突に房を訪ねてきた彼女を中に入れて一刻ほど。執務を止めない自分に突き刺さる視線が鬱陶しくなり、顔を上げた。その先には一人用の榻に腰を掛けて、こちらを物言いたげに見つめる名前が居る。促してやるとようやく口を開いた。

「一体どういうおつもりですか」

彼女にしては珍しい――もっとも自分には初めてのことであるが――感情の乗った声音だった。そうは言っても喜べるようなものではなく、声、眼差し共に明らかにこちらを非難するものだ。人間らしく振る舞えるのか、と軽く目を見張る。

「どう、って?」

「恍けないでください。何故いきなり私を娶るなどと孫権殿におっしゃったのです」

言葉を続けるにつれて鼻の上がますます険しくなる。凍った川面が照るように凛々しい、とは良く言ったものだ。感情がない状態ではなるほど美麗と言えようが、ひとたび人間の血が通うと途端冷たく映る。しがない兵士が相手であれば、間違いなくそいつは震え上がることだろう。

「本来であれば私は荊州の李族に嫁ぐはずでした。荊州との橋渡しになる絶好の機会を、何故あなたが曲げたのですか」

「あんたが嫁いだところで李族は大した後ろ盾にはならない。必要ないのに嫁がせることもないだろ?」

なかなか的を射る回答であると自負したが、彼女には下策と映ったらしい。剣呑の色は一気に増し、自分を見据える視線には怒りさえ滲む。愚弄するなと言いたげな様子にしばらく閉口して沈黙を貫いた自分だったが、ふっと肩を落とした。

「……実を言うと、あんたのこと頼まれたんだよ」

「どなたですか」

「甘寧さ」

思いもしなかっただろう名前に甚く狼狽する。瞠目し、膝に置いたさしばを持つ指がこわばる。今まで何を言われても、それこそ前夫の甘寧の訃報にさえ眉尻一つ動かさなかった彼女の初めて見せる行動だった。しかしすぐにいつもの調子が覆い隠してしまい、再び眉間が寄せられる。

「興覇様が私を気にかけるはずがありません」

「へえ。何故?」

「……白々しい」

低く吐かれ、鋭く睨まれる。名前は甘寧と夫婦だった。しかし情愛故の婚姻などではない。彼女は交州南海郡の生まれであり、そこはかつて孫家と対立していた土地だった。手に入れば今より流通が楽になる。そう踏んでかの地を攻めた。結果はこちらの勝利。降れば助命すると言った殿の言を最期まで退け、南海郡を治めていた長の一人娘だった名前を除く縁者全員が刎頸に処された。そして嫌がる彼女を強引に甘寧が娶った。こういった経緯では情愛など生まれようもないのは自明の理。甘寧含め、孫呉の誰にも胸裡を緩めないことも仕方ないと言えば仕方ない。

「犬猿の仲だったあなたに、鼻つまみ者の私を任せる?冗談にしても面白くありませんね」

「あんたでも笑うことができたんだ」

「……ここへ赴いたのはあなたと論駁ろんばくするためではありません。答えてください。私を娶り、何故ご自分の世評を貶めることをしたのです。いくら犬猿の仲とはいえ、仮にも孫呉の双輪として駆けたあなたが片輪の寡婦に手を出せば、なんと囁かれるかわからないはずないでしょう」

間違ったことは言っていない風情で胸を張る彼女を見て、溜息をつく。

「…………あの馬鹿に肩入れするのはこの上なく嫌だが、こればっかりは同情するね」

呆れたふうに落とす自分に、彼女は嫌悪を露わに鼻白む。何が言いたいんだとばかりに顰蹙するので、洗いざらい教えることにした。

「あいつはあんたが思うほどあんたを嫌っちゃいないよ」

「そんな嘘―――」

「嘘じゃない。心から嫌ってるならあんたを傍に置き続けることも、俺にあんたのことを任すこともしないっての。それにさ、昔一度だけあいつにあんたを娶った理由を聞いたんだ。そしたらあんたの父親にあんたの助命を頼まれたらしくてね。それでも約束を理由に胸裡を開かない女を傍に置き続けるのかって重ねた俺に、あいつは当然だと言いきった。……あいつはあいつなりに、あんたのこと想ってたんじゃないの」

縫い付けられたように微動だにしなかった目が衝撃に揺れ、見開かれる。出会った形と言い、互いの気性と言い、傍から見て決して仲がいいふうには見えなかった。いずれは、と成り行きを静観することを選んだ殿も最後には話に挙げることもしなくなっていた。二人を知る誰もが甘寧を心配し、中には離縁を勧めた奴も居たと聞く。一部の奴同様、自分も最初は反対した。子を成さず、夫の見送りも出迎えもせず、ろくに話もしないとくれば彼女に反感を向けてもおかしくないだろう。だが甘寧はそれらすべてを撥ね付け、婚姻を続行した。側妻を取ることもせずに。不思議でしかなかったが、ある日を境にその考えは一転した。愕然とした様子の名前に息をついてみせる。

「それに。あんたも一緒だったろ」

「…………何を根拠にそんなこと」

「女官から聞いたぜ。甘寧が怪我して寝込んだ時、女官が出仕する時間まであんたが不寝番をしたってこと」

図星を突かれて目を見張る彼女。なんでそれを、と言いたげな表情に失笑する。いくらあいつの頼みとはいえ、彼女の面倒など見る気はなかった。女官からあの話を聞かされるまでは。怪我の治りが遅いと言う甘寧の元へ見舞えば、ちょうど甘寧の私室から水の張った桶を抱えた女官が退出するところに出くわした。甘寧の世話係として顔馴染みになった女官と牀に横たわる甘寧という房の有様に、自分は彼女の所在を訊ねた。ご自分の私室にてお休みです、との女官の言に「夫を見舞わずに午睡とはいいご身分だな」と顰蹙してみせた自分に慌てて否定したのも、その女官だった。曰く「私がお暇する昨晩に交代され、つい先程私室に下がられたのです。あのご様子では一晩不寝番されたのかと。ですからどうか、太太をお責めにならないでください」とのこと。甘寧が何か言うことはなかった。それを知ってからだ、自分の中で名前への評価に変化が生じたのは。

「意地張ってないで素直になればよかったのに」

「―――今更っ……!」

突然の怒声が空気を裂く。音を立てて榻から腰を浮かせ、食らいつかんとばかりに自分を鋭く睥睨する。怒りに紅潮した顔貌を真正面から対峙して、自分は思わず目を見張った。氷のように冷徹だった双眸が涙を湛えていたからだ。こぼれ落ちそうになるそれを寸でのところで押し留め、唇はきつく噛み締められて形が歪んでいる。彼女の怒る様を初めて見る。いや、感情を面に出すところさえ初めてだ。華奢な肩が調子を崩した呼吸によって忙しなく上下する。

「…………今更そんなこと……」

先程よりかはにわかに落ち着きを見せる声音で呟く。細長の柄に丸い扇がついている翳をきつく握りしめ、俯いた。さらりと落ちた髪が顔を隠してしまい、表情を窺えない。しかし薄暗い影の中できらりと光る粒が視線を掠めた。名前を呼ぼうとして口を開いたが、音にするよりも早く彼女が身を翻した。房を飛び出したのだ。愕然となりつつも後を追えば、探す手間なくすんなり見つかった。中庭に面した廊下を回り、植えた大きな梅の木の足元にうずくまっていた。この邸は甘寧の物だ。亡くなる間際に譲られた物で、自分がここに移り住む形で使っている。故にこの梅の木には見覚えがある。どういう経緯で植えたかは聞いていないので知らないが、気づけば邸の裏でひっそりと逞しく成長していた。太い幹は無数に枝分かれしており、梢には小ぶりの白い花が咲いている。いつも身だしなみに気を配る彼女が、自身の衣に砂がつくことも構わずに地面に座り込み、翳で顔を隠してわなわなと肩を震わせている。声をかけようか逡巡する自分の耳に、か細く呟かれた名前が飛び込み、はっとする。繰り返し呼ぶ様はさながら冀うよう。腕を組み、壁にもたれかかって光景を静観する。なんだ、好きだったんだなあいつのこと。ふっと口角が緩む。通り過ぎていった風は、春の訪れを感じさせるものだった。