仲達が自分を寝物語として聞かせ育てたんだろうことはわかっていた。事実彼だけでなく、行く先々で自分の名前を知ってる人の多さを目の当たりにしたから。どれもが称賛するものだったので、子元が自分に懐く理由は推し量れた。だが、懐襟を開き、侍従さながらに一日中後をつけられるのは理解できなかった。

「―――あのな」

部下から上がってきた書簡に通していた目を、ついと持ち上げる。机を挟み、差し向かうようにして子元は座っており、その手には書を仕上げるべく墨に濡らされた筆が握られている。声を上げた私に顔を上げて「何か」と訊ねた。

「慕ってくれるのは嬉しいが、子元がいち傭兵なんぞの仕事を手伝う義理はないんだ。それよりやるべきことが他にあるだろう」

「伝説の傭兵、魏の宝剣とまで言われている名前殿の功績を間近で見れる誉れ以上に優先させることはありませんよ。それに、あなたの戦場においての考え方などは多分に勉強になります」

「やめてくれ、持ち上げ過ぎだ。戦場で私の腕が存分に活きるのなら、それは子元の采配の賜物。私個人の結果ではない」

「でしたら今以上にあなたを活躍させるため、近くで見守らせていただきたい」

「…………なんか逸れてないか?」

だが、彼は「気の所為でしょう」と薄く笑い、竹簡へ目を落とした。いいように丸め込まれてしまった気が否めないが、仲達の血を色濃く受け継ぐ彼を言で諭す自信は皆無だったので、密かに息をついて己の勤めに集中することにした。


 同日の夜。濃紺の天上には満ちた月が浮かび、銀色の淡い光で周囲を照らしている。数多の死線をくぐり抜けたおかげと言うべきか、夜目は人一倍養われ、灯りを必要とすることなく友人である仲達の邸宅に辿り着けた。ご令室に案内され、私室で書を広げていた仲達に手土産として持参した酒を突き出す。鈍く嫌悪の色を示したが、「一献付き合う程度で構わない」と言えば、その色はうっすら和らいだ。

「ところで仲達。お前の長子のことなんだが、普段何を聞かせているんだ」

「師のことなら本人に聞け。あの歳は親元を離れたも同然。私に言うでないわ」

「心当たりあるならお前から諭してくれないか。そういうのは得意とする分野だろう」

「何を言うのだ。あれが私の教えを素直に聞くとすれば、それは兵法なものくらいよ。ことお前に関しては頑迷に他者を受け入れようとせん」

「それでも軍師か」

「伝説の傭兵の名が泣きますぞ」

「……わざとだろ、それ」

仲達とは曹操の長子・曹丕殿が禅譲された頃から付き合いが始まった。武しか取り柄のない自分は食い扶持のために功を立てていたのだが、言い換えれば宮中のしきたりも関係もまるで身についておらず、故に何度も他の官吏の顰蹙を買うはめに至り、その都度仲達に諌めてもらった。日頃凡愚だ馬鹿だ公言する彼が官吏の機微に明るいことは意外だったが、理由が「把握しておいて困ることはない」だったので自然と納得した。

仲達は必要以上に飾らない。他人の言う通り見下してる部分もあろうが、才覚を認めることには意外にも真摯だ。だから自分もいつしか彼とこうして酒を酌み交わす仲に至ったわけである。彼が私の腕を認めるように、私も彼の類稀なる智謀を認め、敬意を持っている。己の息子に良いように聞かせているのは最初こそ嬉しく思えた。だが、それが行き過ぎた結果を生んだ今となっては元凶としか扱えない。

「このままでは彼に要らぬ汚名がついてしまう。父親としてそれは避けたいだろ?」

「……お前は随分師を買っているんだな」

「当然だ。子元の賢才は出会った頃のお前を想起させる。彼はいずれ大きく出世するだろう。なら、司馬仲達の息子が傭兵なんぞにかまけている、などといった火種は早急に消さねばならん」

功を立てること以外の関心が薄い自分でさえ、そういった噂は聞いている。宮中と言わず広い視野と網のように張り巡らされた人脈を持つ仲達とその息子が、噂を知らぬはずはない。というのに、仲達はどうも腰を上げようとしない。世評のつぶさに目くじらを立てる気性ではないと理解しているものの、実子の将来がかかっているとなれば変わるだろうと思っていた。

「―――一つ、友人の誼で忠告してやろう」

初めて口にするその言葉に、盃を口元へ運ぶ手が途中で止まる。何を言い出すんだと視線を滑らせれば、仲達は真剣みを帯びた目で私を見ていた。

「あれはこの私の息子だ。昭より確かに色濃く血を現している。だからこそ、お前が気をつけねばならんのは外より中だ。一度現れてしまったら、どうにもできんぞ」

「仲達……?」

言ってる意味がわからず名を呼ぶと「忠告はしたからな」と言って、それきり口を開くことはなかった。月に雲の脚がかかったのか、灯りは一部欠けて、彼の影を濃くした。



 あの夜以降も子元の行動は変わることはなく、月日は流れて仲達が息を引き取った。この頃には司馬家の威光は凄まじく、専横だ独裁だと陰で騒ぐ者も出始めた。友人を亡くしても時世は変わらない。そして自分のやることも変わらない。困窮に喘ぎ乱れる世を抑えられるのは、力を持つ者にしかできぬこと。それができうるのは魏を建国した曹家であり、それを支える司馬家の二つ。

そんな中、変わったことと言えば仲達の長子・子元が後継となり、大きく出世したことだろう。氷の如き目で戦場を見通し、生まれ持った才覚で勝利へ導く、とまで持ち上げられ、今では兵士の崇拝の的となっている。彼が慕われるところを見るのは、自分のことのように喜ばしくある。立場が変わったことで慣れない政務などに追われているらしく、全く会っていない。最後に会ったのは仲達が亡くなった日か。顔は見れなくとも、時折司馬昭殿や王元姫殿が彼の健在ぶりを教えてくれるので、会っていないという気はあまりしなかった。幸い最近は戦もなく、鍛錬と王元姫殿が持ってきてくれる菓子に舌鼓を打つという、なんとものどかで平穏な日々を送っている。

戦場に立つのが嫌いというわけではないが、戦う目的が乱世を治めるためなので、血を想起させない今に午睡のような心地良さを覚えていた。そんな折。

「―――っ!」

鋭い痛みが右手の甲に走る。身を固くし、そこを見れば赤い線が薄く引いていた。そして足元には一本の矢が落ちている。察するにどこからか飛んできた矢が手の甲を掠めたんだろう。持ち主を探しに視線を巡らすが、辺りに人影はなく、どこまでものどかで整理された庭園が広がっているだけ。では一体どこから、と疑問を抱いた刹那、不自然な浮遊感を覚え、視界はぐるりと半周した。日差しが直接目に入り眩しさに眇めると、そのまま力尽きてしまい黒く染まった。


 目を覚ましてまず飛び込んだのは、一目でわかるほど見事な意匠が施された牀の天蓋だった。寝起きの頭は瞬く間に思考し、ここが宮中で宛てがわれた私室でないことを理解する。ばっと飛び起きると覆っていた布がはらりと落ちる。見渡すその房は明らかに高位の者のそれであり、尚更自分が何故ここで横臥しているのかわからなくなった。混乱する頭に衣擦れの音が入ってくる。

「毒矢を射られて尚その身のこなし。流石です」

「……子元」

牀の傍で座っていた子元が立ち上がり、小さな机に置かれてある茶杯を手渡してきた。その匂いは茶より薬湯に近しく、強烈な匂いに顔を顰める。受け取り一息に飲み干すと、やはり薬草のなんとも言えない苦味が喉に張り付き、意図せず吐きそうになった。口直しの水を飲んでから彼に訊ねる。

「毒矢と言ったか」

「はい。ですが、ご安心を。入り込んだ呉の密偵はすぐに捕らえ、先程処刑しました」

「おおかた私を消せば戦力を削げると踏んだか」

「ご賢察、恐れ入ります」

「お前はまた……。傭兵相手にかしこまらなくていいと言ってるだろう。―――それも今日限りで返上することになるけどな」

「……早いですね」

「自分の最大の武器が何かは理解しているつもりだからな。伊達にこれを長く手入れしてきていない」

視線を自身の右腕に落とす。気づいたのはつい先程。起きる動作で、これだけが微動だにしなかった。子元は毒矢と言い、それが掠めた右手は動かない。意味するところはわかっている。夏侯惇殿は片目でも動けたが、流石に片腕だけでくぐり抜けられるほど戦場は甘い場所ではない。それは数々の経験からして断言できる。かと言って、西王母の元から下って以降、戦い一筋に生きてきた私に別の生き方は知らない。さて、これからどうしようか。思案に暮れる自分に、子元は言った。

「―――傭兵を辞めるのであれば、あなたには私の妻となっていただきたい」

しばしの沈黙。ゆっくり瞬きして見つめる私は、言われた言葉を時間をかけて噛み砕いた。その間も子元は前言撤回する素振りは見せず、私の返答を静かに待っている。仲達を思わせる理知的な双眸は、今は全く別のものに見え、真意が読めなかった。言い知れぬ不安が胸を衝く。

「……下手な冗談は笑えんぞ」

「冗談ではなく私の本意です」

「私はただの傭兵だ」

「たった今その身を離すとおっしゃったでしょう」

「それでも、身寄りのない女であることには変わりない」

「構いません。あなたが何者であろうと、私は名前殿を妻に迎えたい」

「断る。戦場を駆けた自分に、その道へ行く気は皆無だ。……だいたいな、子元なら引く手数多だろう。どこぞの美姫を迎え入れればいい」

「要りません。あなた以外は」

素気無く両断され、言葉に詰まる。これほど我が強い男だったろうか。眼前の男が全くの別人に見えてきてしまい、目眩を覚えた。

「一つ聞くが、何故私を求める」

「あなたほどの方なら自ずとわかるのでは?」

「お前を説くには確かな情報が要るのでな」

「でしたら心配には及びません。あなたのどんな言葉にも耳を貸すつもりです」

「……聞き入れるつもりはないのか」

低く呻く私に、子元は肉の薄い口元に淡い笑みを湛える。

「あなたは我が天命。戦う姿を一目見た時から決意していました。あなただけは決して誰にも譲らぬ、と」

放たれた言葉に慄然とし、絶句する。彼から視線を動かせない。牀の上で上体を起こして座っている私に歩み寄った子元は、そのまま手を伸ばし頬を撫でる。そこに広がる熱に猛烈な不快感を覚え、動く左手で払い除けた。肌を打つ乾いた音が室内に反響する。抑圧されるのを好まない私の気性を知っている彼は、泰然自若な姿勢を崩さない。この反応を見越していたのか、と勘繰ってしまうほど。憎々しい気持ちが込み上げてくる。

「私は女にはならん。お前だけでなく、誰のもな。傭兵の身が無くても生きてやる」

「ほう。司馬家に抗ってまであなたを手に入れようとする人間が、この魏に居るとでも?」

「……子元、お前…………」

浮かんだ一説の推測を、彼は肯定してみせた。

「ほんとうはもっと時間をかけてあなたを手に入れるつもりでしたが、これもまた天命。我が手中に落ちた星を、どうして手放せましょう」

「やめろ!離せ、触るなっ……!」

被さる彼の中で藻掻くが、手負いの女の膂力などで敵うはずもなく。むしろ抗えば抗うほど体を締め付ける腕はきつくなる。そのまま押し倒され、視界が反転する。天蓋が見える視界の大部分を占めるのは、見慣れたはずの子元の顔だった。しかし、その目には見たこともない熱が蠢いていて、慄然とする。こんな時になって仲達の言葉を思い出した。ああそうか、中というのはこいつに秘められた情欲のことだったのか。遅すぎる後悔を噛み締める唇は、容赦なく掠め取られた。