曹操様の使者を送り届けた少し後に来訪の知らせを受けた。誰何をすれば劉備様とのこと。吐き出された人物の名前に胸中が苦くなるが、父が懇意にしてる相手を袖にするわけにもいかないので房に通すよう侍女に言いつける。ややあってから件の人物が顔を出した。

「急な訪問、お許しいただきたい」

「構いません。どうぞお掛けになって」

「失礼する」

榻にかけるよう促し、茶を持ってくるよう案内した侍女に言う。恭しく一礼して下がると、いよいよ室内には自分と彼だけとなってしまう。弱きを扶け強きを挫くを掲げる彼は世評が高く、民草からは全幅の信頼を寄せられている。我が父も例に漏れず彼を絶賛していて、何かにつけては酒宴を開き彼を招いて饗する始末。今やこの邸で彼を否定的に見るのは自分だけという有様。口外しないので責められることはないものの、居心地は常に悪かった。

「何かあったのですか?」

唐突に訊ねられ、聞き返す。

「ああいや。邸の中が随分賑やかに見えましたので」

「……曹操様の使者がいらっしゃったのです」

名を言うと同時に室内の空気に亀裂が入る。剣呑が露わになり、私を捉える眼差しが鋭く批難する。顰蹙する彼など一体どれほどの人が知っているんだろうか。

「父と誼を結びたいとおっしゃってくださっていて。私からもそのようにお願い申し上げるつもりです」

「曹操の考えに賛同すると?」

「はい」

「―――何故だ!!」

首肯してみせたと同時に物音が立つ。榻から威勢よく立ち上がった彼が、憤慨して頬を紅潮させている。送られる眼差しはさながら罪を咎めるようであり、胸裡にしまっていた本音がざわつく。

「あの男の所業はあなたも見たはずだ!徐州の民を尽く殺したのだぞ!それなのに何故あの男に肩入れするのだ!」

「……董卓の暴政に苦しめられていた時、曹操様だけが邸に乗り込んだと聞いています。冷徹なのも非道なのもすべては天下を治めるため。民の一人一人に説いていては限りがありません。人から後ろ指さされようと己の道を突き進むあの方を、私はお支えしたいのです」

劉備様が彼を好ましく思っていないことは承知していた。漢室の臣下でありながら主君のように振る舞うことや、大義のために小を尽く踏み潰すことが、彼の掲げる訓示に反するからだ。大のために小を蔑ろにするのは看過できないという彼の言には一定の理解を示せるが、彼の「仁徳」だけでは世を平定できないことも事実。そも、漢室が絶対的な善であれば黄巾党のような郎党も、董卓のような暴政もなかったはずだ。それらを鎮めるのはもはや仁徳にあらず。時には血を見る覚悟で臨まねば真の平和など現れようもないのに、劉備という男は何処までも武を厭う人間であった。

「輿入れも辞さない、と?」

「それをあの方が望むのならば」

今のところ婚姻の話は持ち上がっていないが、今後浮上するようであれば受け入れるつもりでいる。こんな話を何故彼にしたかと言うと、自分の考えをはっきり伝える好機だと踏んだからに他ならない。人の機微に聡い彼は、おそらく私の本意の一端を感じ取っていただろう。それでも今まで言及することをしなかったのは、私が彼と対面することを極力避けていたから。それは、耳に入る世評、父と話す彼の姿、掲げる訓示らを見て、顰蹙を露わにしないようにするため。嫌悪を見せぬよう避けていたのだが、これ以上は機会を逸してしまう。

「あなたはあの男の本性が見えていないのだ。乱世を終わらせるためと言って恨みを遺すようなことをし続けていれば、禍根はやがて一気に噴き出す。そうなってからでは遅い。そうならぬためにも民一人一人に歩み寄ることが大切ではないのか」

「……劉備様は人を買い被りすぎです」

密かに息をつく。豪商の娘だからと蝶よ花よと育てられたわけではない。のし上がるためになんでもしてきた一人の男を、自分は知っている。その人は市井の出だった。自分の家族を養うためにあらゆる辛酸を舐めた男を、民は最初こそ歓待し称えた。しかし景気が一向に良くならないとわかるや否や、彼らはすべての責を男に被せ、妻子諸共首を刎ねた。殺された男を庇うつもりも、生活苦に喘ぐ民を庇うつもりもない。ただ、民は自分の生活が好転しなければ手のひらを返すものということを知った。雲のように移りゆく人心を留めておくには優しさでも権威でもなく、圧倒的な武力しかない。曹操様には天下を統べるだけの武力と、それを施行するだけの智勇がある。

「曹操様はきっと天下を治めてくれることでしょう。平和はその後に敷けばよいのです」

はっきりと言いきる。興奮状態だった劉備様は力なく榻に腰を落とすと、額に指を宛てて俯いた。言葉にせずとも失望したことが如実に伝わってくる。それでも自分の発言を撤回する気はなかった。長い沈黙の末、彼は静かに退出していった。




 室内は静まり返っていた。鼓動をうるさく感じるほどの沈黙の中で、我が父は固く閉ざしていた口を動かした。

「―――事ここに至っては致し方あるまい。お前の望みを叶えてやれないのは心苦しいが、私は劉備殿につこうと思う」

「お待ちくださいお父様!これはあきらかな罠です!私たちは陥れられたのです!」

懸命に説明するも父の顔色は一向に晴れない。目が諦めを語っていた。悔しさに歯噛みする。几に広げられた竹簡が目に入り、怒りはますます膨れていく。そこには曹操様からの返事が記されているが、決して色良いものではなかった。端的に言えば、父が曹操様の使者を斬っただけでなく、返書に彼を貶める文章を並べた上、聞くに絶えない悪評を広めていることに立腹していると書かれてある。挙兵も辞さないとも受け取れるこの文章に、私も父も激しく動揺した。それもそのはず。私も、私の説明に頷いた父も曹操様のことは好ましく考えていて、出した返書だってこちらもぜひ誼を結びたいという肯定的なものだった。それが、誰に手を加えられたのか、まるっきり反対のものとして彼に届いてしまっている。しかも父が悪評を広めているという根も葉もない噂まで浮上しているなど、これはどう考えても余人に謀られたとしか言えない。

「私にお任せください!必ず犯人を暴き、曹操様にもう一度取り成してみせます!」

長いこと続く争乱を治めることを望める方がようやく現れたのだ。なんとしてでも縁を結ばなければ。必死に伝えるものの、父は重たく息をついてやおら首を振った。

「曹操殿は一度こうと決めたならば他人の意見は受け付けん方だと聞いている。お前の人の見る目は確かゆえ、曹操殿は真実天下を治める方だろうが、その御仁が確固たる意思でこれをしたためたのならば、私に選べる術は一つしかない」

先に紡ぐ言葉を察し、それだけは、と首を振る。

「お父様、どうかお考え直しを……!」

「幸運にも劉備殿が庇護すると言ってくれている」

「ですが劉備様は……っ」

「お前の望む主君ではない。それは私もわかっている。だがな、劉備殿も曹操殿に劣らぬ武勇をお持ちの御仁だ」

「お父様は優しさで乱を治めることができると、ほんとうにそう思っているのですか!?」

「乱を治めるのに何も血を見せる必要はないだろう。対話で和解できるのならそれに越したことはない。そして劉備殿はそれを望める方だと私は思っている」

「あの方は臆しているだけです!真に天下を統べる気など―――」

「慎みなさい」

低い声で窘められ、胸中は絶望で染まる。唇を噛んで言葉を飲んだ私に、父は瞑目して静かに言い放った。

「劉備殿を支えるんだよ」

それは言外に彼との婚姻を示していた。




 あれからお父様は話を取り合おうとせず、それどころか曹操様の名前を出しただけで一喝して去るようになってしまい、尾を引いたまま劉備様の元へ嫁いでいった。華燭の儀が無事に終わり夫婦の房へと通される。拠って立つ場所のなかった頃とは違い、実に立派な内装だった。だがそれが慰めになるはずもなく、かと言って婚儀を終えた夫を拒むことも許されるはずもなく、複雑に入り乱れる感情を抑えて牀へ乗り上げた。

「納得していない、という顔だな」

「……あえてお聞きになるなんて、劉備様もお人が悪いですね」

わざと笑みに含みを持たせると、彼はなんとも言えない顔を見せる。

「すまない。だがこうでもしないとあなたにわかってもらえないと思ったのだ」

述べられた謝罪にぱちんと一本の火花が散る。どうせ自分は悪くないと思っているくせに、見え透いた嘘など吐かないでほしい。それとも単純な嘘で籠絡できるほど蒙昧な女に見えているのか。

「今更何を論議するのですか?手広い人脈を持つ父は今やあなたの同盟者、これで満足でしょう。そのための婚儀なのですから」

「それは違う。父君の力欲しさにあなたを妻に迎えたのではない。私の考えを誰よりもまずあなたに理解してもらいたかったのだ。手荒な真似をしたことは承知しているので、あなたに謗られても何も言えぬが」

「…………まるで曹操様との仲を壊したかのような口振りですね」

「ああ。私がやった」

脳天に雷が落とされたような衝撃が駆け、動悸が一瞬止む。乱れた呼吸が動悸を加速させ、頭痛がするほどにうるさくなる。血の巡りが早い。何処からともなくごうごうと低く荒々しい音が鼓膜に押し寄せる。彼は今、何を言った?肯定したのか?受け入れるには衝撃が強すぎる真実を、男は軽々と吐き捨てた。

「こうでもしなければ、あなたはあの男の下に行ってしまわれるだろう。それだけは阻止したかったのだ」

愕然とする私に彼は畳み掛ける。ようやく言葉を噛み砕き飲み込んだ私は声を絞り出す。

「あ……、あなたは、なんということ……」

衝撃が覚めやらぬせいで喉が萎縮して声が震えてしまった。血の気が失せて冷たくなった手を、彼が握り締めた。ぞわり、と粟立つ嫌悪感に瞬時に振り払ってしまいたかったが、彼の膂力は存外強いもので、びくともしない。これ以上は隠せない。嫌悪を露わに睨めつけると、彼は意外にも動じる素振りを見せなかった。しかし冷静になればこれしきのことで怯むなら、人を陥れる真似などできるはずもない。

「仁徳を宣う劉備様が、このような手を打つとは夢にも見ませんでした」

皮肉を込めて言ってやれば、彼はしおらしく「ああ」と頷くだけだった。

「っ、ご自分でおわかりですか!あなたがとった行動は、ご自分が忌み嫌う曹操様と同じことなのですよ!それでよく曹操様を悪し様に言えたものですね!?」

「あなたの父君、そしてあなたを陥れたのは事実だ。なんと言ってくれて構わない。だがそれゆえ、私はあなたに仁の世を見せよう。曹操の覇道では決して見れぬ争いのない世を、私は必ず創る。それを傍で見ていてほしい」

「……私の言を聞いて尚それを言いますか」

「―――あの男に下ることだけは許さぬ」

手を強く握られ、首を竦める。痛みに顔を歪めたことに気づいていないのか、彼は顔を険しくさせたまま手を離そうとしない。

「私の下から逃げることがあれば、あなたの父君を斬る」

低く吐き捨てられ、全身が恐怖に固まる。自分の前に居るこの男は、一体何者なのか。見知った人間の皮を被った別人ではないのか。そんな世迷言を思ってしまうくらいには、眼前の人物は豹変していた。これがあの劉玄徳というのか。空腹に泣く子供に飯を与え、着る物がない老婆に布を与え、負傷した兵士に自ら手当を施す男の本性がこれだというのか。握り締められる男の手は熱こそ持っているものの、それを温かく感じるには程遠い。私は初めて劉玄徳という男への無知を痛感させられた。