―――男を立てることの知らない無粋な女だと思った。戦場で忌まわしくも名前を轟かせるばかりか、私の手柄をことごとく掠め取っていくので、名前とはお互い剣呑を隠そうともしなくなっていた。
「ちょっと。私の前に立たないで。手違いで斬っちゃうでしょ」
「お前に遅れを取るほど鈍ってはいない。それに功を立てたいのなら前に出ればいいだろう。隠れてないで」
「隠れてない」
眉根を寄せて睨めつける彼女が腕を振りかぶる。掲げた大剣が勢いを殺さないまま縦に振り下ろされた。聞くに絶えない断末魔が耳の近くで上げられ、次いで頬に血飛沫が付着する。傍に倒れ事切れた男の体を見下ろし、舌を鳴らす。女は嘲笑に口角を歪めた。
「あんたは背中を隠した方がいいかもね。的にしか見えないから」
司馬昭殿が徒党風情に絡まれていたのを見かけたので、恩を売る絶好の機会だと自分は得物に手をかけた。一歩踏み込んだところで視界の敵は一掃される。飛び散るその中、立っていたのは抜き身の大剣を掲げた名前だった。眉目をわずかにも動かさずに敵を一掃してみせた彼女に、司馬昭殿は見慣れたにやけ顔で礼を述べ、対価を訊ねる。これもまたにべもなく無愛想に固辞し、納得して去る彼の背中を見届けてからこちらに向き直った。私の存在を認めたらしい名前はここで眉根をにわかに寄せる。不快感というのはこちらにもあったので、眉間に自ずと力が入った。
「傭兵の身は辛いな。飼い主に媚びを売り続けねば身も立てられないか」
「得物を抜いてよく言うよ。あんたも一緒じゃん」
「お前と一緒にするな。私は未だ人の見る目を持たない司馬昭殿にわからせるために行くつもりだったんだ」
「あっそ。どっちでもいいや。ケ艾殿と遠乗りだからじゃあね」
「旧式とまだ馴れ合っているのか。っは、憐れだね」
「友人の居ないあんたに言われても痛くも痒くもないよ」
「……なんだと?」
名前は用事は済んだとばかりに背中を向ける。自分の制止する声に反応することはなかった。忌々しい女だ!
酒宴が開かれる夜は決まって広間は騒々しくなる。元は勝利を祝すものであるゆえ、自由に飲み食いできることに歓喜する兵士を鎮まらせることなど到底叶うはずもないが、それらを束ねる司馬昭殿はそれらよりタガを外しているのはいかがなものか。それでも主君かと糾したくなった。
「―――全然飲んでないじゃん」
「急に肩を叩くな!お前のせいで酒がこぼれてしまっただろう」
「細かいなあ……。そんなに酒が飲みたきゃ私の分けるよ」
「お前のように酒に溺れて品をなくす趣味はないんでね。ここで退席させてもらうよ」
立ち上がった自分の背中に低く一言。
「素直に飲めませんって言えばいいのに」
ぼそりと呟かれ、ぴたりと止まる。
「……何?」
振り向くと、彼女は酒で頬が上気しているにも関わらず、こちらを見据える双眸は冷水のごとくだった。
「酒弱いんでしょ。見るからに弱そうだし」
「生まれが貧しいとそうまで目が曇るのか。つくづく憐れに思うよ。酒の量で人を計るような不明とは席を一緒にしたくないんだ。と言っても、その頭に私の言葉を噛み砕けるとは思えないが」
「ふうん……。弱いんだ、酒弱いんだ。へえ?」
「人の話を聞け酔っ払い!」
「別に酔ってない。あ、飲めないなら鍾会の分もちょうだいよ。飲めないにしても残すなんてもったいないから」
「飲めないとは言っていない!」
「飲めるんだ?なら私と飲み比べしよ」
「誰がお前と……」
「負けるのが怖いの?」
「いいだろう、お前の提案を受けてやろうではないか。せいぜい負けた言い訳を考えておくんだな」
今しがた立ったばかりの自分の席に座り直し、注がれた酒杯を取る。そうこないと、と言って並々に注がれた自分の酒杯に口をつける彼女に倣い、自分のそれを呷る。どちらが勝ったかなど思い出したくもない。
―――不覚を取った。言うなればそれに尽きる。よもや敵勢と密通している者が背後に居るとは思ってもなかった。傍から見ても斜陽である敵勢に加担する不明な者は斬り捨ててやれたが、無理な体勢で飛んできた矢をいなしたために落馬してしまい、腕を痛めてしまった。折ったわけではないので従軍している医師によればしばらくの間安静にしていれば快癒するとのこと。自分が敵の雑兵などに遅れを取ったのはこの上なく腹立たしいことだが、無理を押して更なる恥辱を重ねるわけにもいかないため、不承不承ながらも医師の言を受け入れることにした。司馬昭殿から居邸に戻ることを許されて三日ほど経った昼下がり。突然私室に訪れた侍女が来訪の報を持ってくる。人と会う予定など入れてないが、と不審に思いつつも通すように言えば、少しして現れたのは犬猿の仲である名前だった。
「私を笑いに来たのか」
伏せっていた体を起こし、牀のふちから脚を出す。一番見たくない顔だった。何故こいつがここに、と疑問に感じたが、それを口にして訊ねる気は起きなかった。鼻白み吐き捨てる自分に、名前は顔色を変えることをしない。ますます訝しむ。ほんとうになんのつもりで現れたんだこいつは。元より司馬昭殿に飼い慣らされている犬の思考など理解を示せないでいたが、今は輪をかけて腑に落ちない。
「なんだその顔は」
「別に」
それっきり黙ってしまう。用向きを喋る気配を見せないので、息をつき手を払ってみせた。
「私は少しでも早く腕を治さねばならんのだ。辛気臭い顔を見ていたら治りが遅くなる。用がないのなら―――」
「具合は」
急に喋りだし言葉が止まる。近くまでやってきた彼女は負傷した腕の方を甚く見つめた。
「傷の具合は。ちゃんと治るものなの」
「軽く打っただけだ。問題ないね」
「動くの」
「……触れるなよ」
「触れない。聞いてるだけ」
「動く。動作が鈍いだけだ、今はな」
「そう」
そしてまただんまり。自分の私室でありながら何故このように気を揉まねばならないのか。用件だけ話してさっさと退出してほしいという願いは、一言「用が済んだのなら出て行け」と言えば容易く叶う。しかしそれに移せないでいるのは、彼女の様子が平常時とはあまりにも異質ゆえに他ならない。元より口数多く他者との交流に積極的な気性ではないが、今の名前は輪をかけて言葉数が少ない上にどうにも忙しないように見える。近い距離でまざまざと観察して気づいた。眉根が険しく寄っていることに。―――ああ、だからか。すっと胸の内が冷えていく音がした。
「不快ならさっさと出て行けばいいだろう」
負傷した腕に留められていた視線がつい、と動いて自分のそれと重なる。どういう意味だ、とは言外に聞こえてきた。
「情けないと思っていることは明白だ。むしろ隠そうとしていないだろう、お前は。否定してみせなくて結構。お前に白々しい態度をとられても不快でしかないからな」
「違う、そんなつもりじゃ―――」
「っは、見え見えだね。こんな怪我はすぐに治る。せいぜい私の居ない間にできるだけ尻尾を振っておくんだな。戻ってから捨てられないように」
「…………安心した」
「今の発言を聞いて何故そうなる」
「違う。そんなことはどうでもいい。…………ただ、あんたが変わりないようで、……それが安心したの」
言葉を失うのはこちらの番だった。目を丸くする自分に、女は目に見えて肩の力を抜く。
「よかった」
それは初めて見る笑顔だった。