静謐な房の中、胸中に秘めていた思いの一端を吐露する。
「あなたを失うことは、手中から天命を失ったことのように感じます」
それまで音がなかった房に沸いた初めての音。しかし彼女が驚いたのはそこでないことは理解していた。
「司馬家の後嗣がこんな体たらくと思われましたか。……しかしそれも無理からぬこと」
己の指を絡ませた彼女の手を今一度握り締める。
「あなたは我が父と共に武皇帝の時代から駆けてきた。あなたと肩を並べたのは父です。父と比べて落胆されるのは理。―――そうと知って尚我が胸中を暴いたのは、それほどまでにあなたを失いたくないからです」
自分より遥かに歳を重ね、数多の戦場をくぐり抜けた彼女にとって自分という存在は、何処までも庇護すべき対象でしかないことはとうに理解し、今に至ってはそれでもよいと思えるくらいの諦めはついていた。父と重ねられるのもいいだろう。乱世を治めうる力を有した一族と思われるのもいいだろう。元より父の子として姓を授かったからには衆目のどのような期待も背負う覚悟だ。しかしそれらすべては彼女という存在が我が身の隣にあってこそのこと。
「どうか、御身を大切に」
司馬家の後嗣でも、魏の守護神を求めるいち武者でもなく、己の胸中に巣食っていた純粋な我欲だ。失いたくない、手放せない。どのような天命も受け入れるつもりだった自分が唯一抗うもの、それが彼女という存在だった。
「―――すまなかったな」
ほつりと落とされた謝意。胸を穿かれたような衝撃に目を丸め、言葉の一切を呑み込んで牀に横たう顔貌を凝視する。
「お前がそれほどに苦悩していたとは思わなかった。これからは、その、…………死なぬよう善処すると、約そう」
その横顔はあまりにも不器用に見えて。胸の端がゆるりと綻ぶ。窘められた子供のような顔をする彼女に、にわかに火が灯る。この人は自分にとって手の届かない天上にて輝く一番星だと仰いでいたが、そんなことはなかったのだ。己が誰かに必要とされるなど考えもしなかった不器用な人間だったのだ。滔々と胸を満たしていくこのぬるま湯に名付けるものを未だ知らぬ自分だが、明確な意思を持たずとも己の指は彼女の手を慈しむように握る。
「あとな」
場にそぐわない凛然とした声に顔を上げる。自分を捉える眼差しには、先程の揺らぎなど欠片もなかった。
「お前を仲達と比べたことはただの一度もない。お前はお前、あいつはあいつだ。それに言うほど自分は全能ではない。私とて許せそうにないことくらいある」
「それは初めて知りました。何か聞いても?」
訊ねると、ぐっと唇を噛んで目を泳がせた。豪胆な彼女らしくない反応に内心驚いていると、それまで沈黙を穿いていた彼女がやおら口を動かした。ふう、と身内に溜まる息をすべて吐き出す。
「…………お前のその、………………私に見せる顔を余人には見せてほしくない……と……」
ゆるゆると見開かれていくのが自覚できる。驚愕は彼女にも有り体に見えたんだろう。らしくないとはわかっている、と頬を朱に染めて視線を外した。
「……言うんじゃなかった」
溜息混じりに落とした言葉の次に響いたのは自分の笑い声だった。父譲りの独特な笑い声を響かせ、鎮まる頃には胸中は風通しがよくなっていた。
「笑うなよ」
「失礼。よもや名前殿からそのようなことを言われるとは、夢にも思わなかったので」
「言っただろ、らしくないのは自覚してると」
睨めつける目は言外にお前のせいだと責めてるようでもあり、尚のこと歓喜に鼓動を震わすことを止めることはできなかった。