―――求められたから応じてやった。それだけのことだ。男を知らぬ体ではないし、操を立てているわけでもない。有り体に言えば断る理由が見つからなかった、それに尽きる。晴天に霹靂を落とした軍師にそう説明してやれば、理知に富んだ鋭い眼が意外にも丸められ、何をどう理解したのか、自分より幾分か華奢な肩を目に見えて落とした。
「これはこれは。流石に読めなかった流れです」
「そんなにか?」
「糅てて加えて本人の自覚はなし、と。呂布殿に同情する日が来ようとはこの陳公台、思いもしませんでしたぞ」
「大袈裟な」
「大仰なものですか。これを知ればあの方は間違いなく激昂するでしょうな。まさに龍の首元に触れるがごとく」
逆鱗とまで言うか、と堪らず失笑した。笑い事ではないですぞ、と窘められて軽く謝りつつ、果たしてあの男が男女間のことに情を容れるものかと思案した。呂布は何処までも己の力に一途で、自身の力量と拮抗する者にのみ執着を示す男だ。巨漢に並ぶ大きな戟を振るう様は、さながら荒れ狂う獣そのもの。ひと噛みで易々と人の頭潰してしまえる虎の牙を重ねてしまうほど、あの男の武は強烈であり、圧倒的だ。さて、肝心のその人柄といえば。それは世辞を取り繕うことさえはばかられるほどに、粗野と評せざるをえなかった。この乱世において呂布のように己の腕一つで成り上がった武芸者は多く、その大半が彼のように獰猛かつ豪胆な者ばかりだが、呂布はその中であっても頭一つ抜きん出て乱暴であった。酒家で手酌など、もはや見慣れた光景。それくらい彼の傍若無人な振る舞いは周知であり、彼と飲み交わす仲である私とてその評価に異を唱えるつもりはない。折に触れては他者を貶して己の武勇を誇るあの男がたった一夜の閨事に熱を上げる、いくら軍師の言といえど信用できようはずもない。
「―――虎をあまり見くびらない方が賢明かと」
「陳宮?」
「食いちぎられぬよう気をつけることですな」
意味ありげに忠告してみせた陳宮は、自分の言外の問いかけにそれ以上明かすことなく、踵を翻した。一人取り残された城内の廊下で、軍師が消えていった方角をぽかんと見つめる。
「何なんだ一体―――」
まるでわからない、と思った刹那のことだった。突き刺すような鋭い殺気を背中に感じてがばりと振り返る。視界の壁から注がれる明るい陽光が石畳の廊下を滑り、その奥までもを明瞭に映す。線のように日向と日陰が引かれたその中に、日陰から日向へ漏れゆく濃密でおどろおどろしい殺気を放つその男を捉えた。名を呼ぶ。しかし音として聞こえない。はて、自分は確かに息を吐いたはずだ。些末なことに気を遣るくらいには自分の異様を自覚しており、そしてそれは眼前に佇むこの男、呂布にも言えることであった。かつん、かつん、とこちらへ歩み寄る動作に金属の擦れる音が響く。午の盛りであるというのに、背中を下りる冷たい汗にぞくりと全身が粟立つ。寒気?いや、違う。気がそぞろとなってしまうこれに名付けるには相応しくない。何であるかと逡巡する思考は突如打ち切られた。
「……ぁ……、う…………っ」
聞き取れたのは己の低い呻き声だった。次いで感じるのは喉の強烈な不快感と息苦しさ。節くれだった武人の指が胸倉と共に食い込んでくる。凄まじい音と共に体を壁に打ち付けられ、拍子に後頭部を強打して視界が回った。男の顔を前に捉えていても、現実味が酷くぼやけ、挙句平衡感覚さえ離れていく。しかしそんな浮遊感も瞬きのことであり、一度息が喉を通り抜けると痛みが徐々に熱を持ち始めた。じくじくと痛み出す全身に眉を顰めると、自分を掴み上げた挙句壁へ叩きつけるという理不尽を振るった男は、自分よりも不機嫌に顔を歪めた。憎たらしい、とさえ思えるほどに。
「いきなりなん……、なんだ、呂布っ……!」
「―――貴様は」
開かれた口唇から出された低い声。地鳴りとも唸り声とも呼べる荒々しく、おどろおどろしく、けれども静謐に。起因こそ見つからないが、呂布の怒りだけは正確に感じ取った。
「俺のものになったのではなかったか」
訊ねる口調の影に絶対的な命令があった。遅くなってから気づく。どうやら陳宮との会話を聞かれていたようだ。人の気配に聡い方だと自負しているが、呂布ほどの足音に気づかないようでは駄目だ。それともこの男が悟られまいとあえて気を潜めたか、などと浮かんだ一案はすぐに払った。この男に限ってそんなことはありえない。
「俺は言ったはずだ、貴様を何としてでも手中に入れてみせると。その俺に組み敷かれたということは受け入れたんじゃないのか」
「馬鹿な、ことを……。そんなわけない、だろ」
息苦しさに言葉が途切れ途切れになる。それでも必死に言葉を紡ぎ、決してお前のいいなりにはならない旨を断固として見せつける。
「お前に組み敷かれたんじゃない、私がお前の求めに応じてやったんだっ……!忘れるなよ馬鹿……っ」
こいつはいつまで自分の胸倉を掴んでいる気だ。呼吸がしづらいぞ。我慢の限界を迎え、脚を振り上げる。迫っていた強大な壁との間に割って入った己の武器が気道を広げる。床へと崩れ落ちて咳き込む私を、呂布はあろうことか頭上から笑ってみせた。何が気に入ったのか満足げに口端を持ち上げている。まったくこいつの考えることはわからん。わかりたいとも思わないが。元より自分がこの男の下に留まっているのは己の武を磨かんがためであり、この男の麾下に加わったわけでも心酔しているわけでもない。不躾な視線に不快を露わにすると、ふっと鼻で一蹴してみせ、今度は私の襟首を掴んで持ち上げた。影を落として宙ぶらりんになる私と視線が平行になる。鼻先にあったのは、獣のごとき情欲と猛りに燃える瞳だった。ああ、嫌な予感がする。
「面白い。それでこそ、この俺が欲した女だ」
何を偉そうに、と返そうとした唇はあんぐり開かれた獣の口唇によって食われてしまった。