一寸先も見通せない暗い闇が薄まり、淡い紫が果てなく広がる空へ溶け出す。時が経つにつれて比重は変わっていき、私室を出て彼女の房の前にやってくる頃には全容が一転していた。もはや燈油要らずに視界が良好となる。扉の前には守衛の男が長柄を持って立っており、自分の姿を認めるやそそくさと礼をした。

「あいつは起きているか」

「はい。お会いになられますか?」

「ああ」

頷き、守衛の一人が中に居るあいつへ声を投げる。しばらくして出てきたのは付き人の女だった。

太太おくさまがお待ちです」

恭しく揖し、中へと招かれる。言いつけられていたのか、付き人の女は自分を中に入れてすぐに退室していった。広々とした房には孟徳から贈られた物で囲まれており、目が覚めるような赤い帳の影から名前が顔を出す。訪れるたびに胸が押さえつけられるように感じた甘ったるい香の匂いは、漏窓まどから入り込む寒暁の冷たい風によって掃き出され、何も感じなかった。寒くないのか、と痩軀を見て思ったが、房の隅に積まれた荷物が目に止まり、考えを改める。

「少ないな」

積まれた荷物の数は片手に収まる程度。彼女の立場を鑑みて、殊更少ないと思わされる。気性を知っていても尚。

「ええ。必要な物はすべて別邸に入れてありますから」

「そうか」

元よりこいつは物を持たぬ方だ。箜篌くご一つあればいい、と公言するほどに。それを鑑みればこれはむしろ多い方なのかもしれない。

「……もう発つのか」

口唇より出た音は寂寞を含んだように聞こえ、胸が衝かれる感覚になる。そんなつもりで訊ねたのではない。しかしそう聞こえてしまったということは、意図せずともそれに近しい感情があるという証左。心のうちで釈明すればするほど、胸裡の底に沈めた泥土に指が触れそうになる。遠ざけねばならぬとわかっているのに。一瞥すれば、幸い名前がそうと感じとったふうには見受けられなかった。

「家は遠いですから」

彼女に用意された家は許昌からおよそ二千里離れた場所にある。早くに発てばその分安全な旅路となるのは自明の理。連れ立つ侍女らも身の回りだけを世話する程度に絞り、後は向こうで都合するとのこと。聞けば、持っていく荷物の中には侍女らのために用意した物があるらしい。

「世話好きが高じるとこうなるのか」

「許昌では散々世話になりましたからね。自分にできうる精一杯の謝意ですよ」

「それで自分の荷を減らしては世話ないな」

「あなたほどでは」

不必要に手を埋まらせないだけだ、と返しても名前はくすくすと笑うのみ。楽しんでやがるな。批難の意を感じ取っても尚笑うのを見て、肩を竦める。こいつはこういう奴だ。幼少のみぎりが脳裏に蘇り、そこには自分と他にこいつと孟徳が居る。淵を含め、自分たちは元服より以前からの付き合いだった。好き勝手しまくっては勝手に窮地に立ち、挙句助けを求める名目で俺を様々な混乱に巻き込んできた孟徳。辟易しながら窘める俺と一笑に付す孟徳とを、名前はいつも楽しそうに見ていた。店から盗みを働くことにも余人の邸に侵入することにも、加担していた。今思えば悪事を働く孟徳に強い憧憬を抱いていたんだろう。嬉々として災難に身を投じる様は、孟徳の背をついて回る子分のようでもあり、生粋の悪童のようでもあった。記憶の彼女は自分と並ぶくらいの背丈であったが、今では目を下げねば合うこともない。短かった髪は背中を隠すほどに伸び、道なき道を駆け回っていた手脚はゆったりした衣に覆われ、大口開けて笑っていた様も鳴りを潜めてすっかり貞淑となった。それほどの月日が流れたというわけだ。あの頃のように負傷したこいつを手当することも、余人の邸に乗り込んだのを助けることもなくなった。この先もないだろう。―――会うことさえも。

「せめて護衛の数は増やしたらどうだ。身分を隠すとはいえ、すべてを隠し通せるとは限らない。嗅ぎつける奴は嗅ぎつけるだろう。孟徳の妻など、そういう連中の香餌となるぞ」

孟徳が斃れ、実子が跡を継いだ。強引に帝に禅譲を迫り、魏という国が建てた経緯もあり、反感を抱く者は多く、魏帝となった曹丕を葬る機会を虎視眈々と狙っている。そんな中での帰郷なのだから、多少護衛を厚くしても過ぎるということはない。万が一を考えれば今からでも増やしたいのが本音。曹丕も、望むのであれば多少つけてやると言っている。だが、名前は厳として首を振った。

「故にです。私なぞに割く兵をあの方にお使いください。あの方は失われてはならない尊い方。一介の寡婦とは到底並びません」

「けどな……」

「―――ではあなたが来てくれますか?惇兄」

懐かしい響きに一瞬言葉を失う。その反応を揶揄うように名前は笑った。

「大将軍にもあどけないところがあるのですね」

「俺で遊ぶな」

「お可愛らしいこと」

「おい」

「言いませんよ、これ以上は。眠れる虎の尾を踏みに行くほど酔狂ではありませんもの」

笑みを転がす様に居心地の悪さを覚える。名前の悪癖は孟徳ので慣れたと思ったが、やはり慣れないようだ。髪を掻き乱し、ぶつけるように息をついた。

「お前がそこまで言うならこれ以上は言わん。聞くとも思えんしな」

「よくお分かりで」

「何年の付き合いだと思っている」

好む物も嫌いな物も好きな花という細かいことまで。意識せずとも仔細を拾ってしまう。とんだ悪癖持ちは一体どちらなのか。

「―――ほんとうにここに残るのですか?あなたは」

固く、静かに。当然だ、と返そうとして名前と向き合う己の喉が途端張り付く。いついかなる時でも凛然としていた双眸が揺らめいていた。息を凝らすように眉根を寄せ、溢れそうになる何かを必死に抱え。彼女の言葉に隠された意図を読めんほど愚かではない。愚かではないが、それに触れるわけにはいかなかった。見えていても、己の最奥がそれに呼応していても、選ぶわけにはいかぬのだ。

「ああ。孟徳が遺したものを見届けねばならんからな」

過日の記憶が耳に蘇る。―――要らぬのなら私が貰っていく、と言われたことがあった。ただ徒に腐す気か、とも。手を伸ばせば握り返してくれる気づきはあった。あったからこそ、俺は手を出さなかった。俺などではなく、自分を慈しんでくれる他の誰かと結ばれてほしいと願い、そしてそれは孟徳だった。二言などあろうはずがない。不満も不安も。おのが手中にあるは安堵だけ。明らかな異質さえもそう名付けて影に潜むことにした。自分が選んだ道だ、違える気はない。

「あなたらしいですね」

肩を緩めて雰囲気を柔らかくさせた姿に、なんと言葉をかければいいか迷った。伏せた瞼が対話を拒んでいるように見え、それならばとただ一言。

「息災でな」

「ええ。惇兄も」

微笑んだ顔貌に、在りし日の面影が過ぎった。疼き出す感情を黙らせ、それ以上は何も言わずに踵を返す。漏窓から見上げた空は起きた太陽が手脚を伸ばし、縹渺と広がる空を橙に染め上げている。微かに聴こえくる箜篌の音色。それは昔あいつが奏でてくれたものだった。