名前は過度に褒められることが嫌いなことを、萎れた小さな頭を見下ろして思い出した。口角を吊り上げたのは、項垂れる彼女にはわからない。
「あなたに何かあれば心配なんですよ。思索もそぞろになり、食事も喉を通らない。その身に僅かな傷でもあれば、私はあなたの制止を振り払ってでも、その者を殺しにいくでしょう。そいつだけに限らず、親、兄弟、親戚、妻子諸共殺し尽くして、そこでようやく気が落ち着くんです」
顎を軽く掴み上げ、視線を合わせる。艶が滴る髪がはらりと頬から滑り落ち、困惑をありありと乗せた顔が白日の元に晒される。淡く色付いた下唇を指の腹でなぞると、あからさまに細い肩が跳ね上がった。
「あなたは愛らしい方だ。誰の目にも好ましく映り、紡がれる言葉は囀りのように心地良い。知ってますか?兵の中では、あなたに横恋慕する者も居るんですよ」
「え、あ」
「その者を不敬として斬れないのが悔しいですね。何故なら私とて同じくあなたに懸想してしまう。あなたが誰のものであってもね。だからあなたの好い人であるこの身はそれだけで満足しなければいけないんでしょうが、私は悪党なんです。それだけでは足りない。容易く他者の心を惹き付けてしまうのが許しがたい」
「……ごめんなさい」
「あなたにそんなつもりがなくても、あなたと話す男はそれだけで陥落してしまう。あなたは狡い人だ。この悪党だけでは飽き足らず、街に繰り出しては粉を撒く。……ねえ、私の何が足らないと言うんです?教えてください。この悪党にもわかるよう、その指と言葉を使って」
「わー!!ごめんなさいごめんなさい!一人で町に行った挙句迷って趙雲殿にご迷惑かけてごめんなさい!もう二度と一人で街に行ったりしません!猛省してます!してますから……っ」
離れようとする名前の腰に腕を回し、抱き寄せる。困惑顔に羞恥が合わさり、首まで瞬く間に赤く染った。激しく狼狽する彼女はこれ以上は詰められまいと、必死に俺の胸を押して抵抗する。稚い膂力で反抗する様こそ、俺を付け上がらせるのだということは、名前は理解していないだろう。顎を掴んでいた指で頬を撫でてやると、あからさまに鳥肌が立った。
「今以上に尽くせば、あなたは私のところで止まっていてくれるんですか?」
「ねえ!!謝ってるじゃん!」
「だが困ったな。あなたに与えたものが全てで、差し出すものが余っていないんです。身も心も既にあなたの手中。それで足りないと言うのなら、それこそあなたの口で求めていただかないと」
「法正様っ……!」
「―――違うでしょう?」
訂正するように低く言うと「孝直、様……」と、これ以上の羞恥には耐え難いといった顔色で絞り出した。その様のなんと愛らしいことか。自由に飛び回る本来の気性に格段不満点などないが、仕置であるとはいえ自分の言葉一つにこうも籠絡される様を見ていると、黒い感情が蠢いてしまうのを抑えられなくなる。涙に濡れる双眸、紅潮した顔、この期に及んでもまだ反抗を示す手。なるべく優しくあろうと努めているが、諦めの悪い小動物を見ているようでその決意が時折揺らいでしまう。顔を近づけた時、房の扉が叩かれた。一瞬にして甘やかな空気は消え去り、にわかに硬直した俺の隙を突いて抜け出してしまう。思わず力強く舌打ちしてしまった。
「趙雲です。名前殿の落し物を届けに参りました」
ほんのわずかに思考を手放していた彼女だったが、すぐに「い、今行きます!」と声を張って扉を開ける。見慣れた甲冑を身にまとう彼は、俺に対し折り目正しく揖する。彼女に差し出したのは赤く細長い紐だった。それを見た彼女は「あっ!」と驚いた声を上げ、自分の手首を見遣った。
「ほんとだ、いつの間にか落としてたみたい……。ありがとうございます!趙雲様」
「いえ。無事に届けられてよかった。ところで、お二人は仲がよろしいんですね。法正殿の私室で話すなど」
ぴしりと石のように硬直した彼女。それもそのはずだろう。俺との関係は、夫婦となるまで公にしないでほしいと願い出たのは名前だ。俺としては公言しようがしなかろうがその差異に固執していないので、「女の嫉妬が怖いの」と言う彼女の好きにさせた。隠す理由も俺たちの関係も知らない彼からすれば、ただの疑問でしかないんだろう。ここが仕事場であれば彼女とて代替案は作れるが、私室となればできる言い訳も限られてくる。どうしよう、と救いを求める視線が送られたが、それには薄く笑って沈黙を貫いた。助け舟はいくらでも出してやれるが、この場をどう切り抜けるか気になったので静観を選んだ。さっと顔から色を無くした彼女は改めて趙雲殿を見遣り、やがて口を開く。
「……ほ、法正殿に、その、私も届け物を渡しにきたと言いますか……。はい、渡しにきたんです……」
「くっ」
「法正殿?」
「……いや、なんでも」
つい噴き出してしまった俺を、名前が視線で強く非難する。彼女の考える策は興味深いが、これ以上時間を費やされたくはないので、助け舟を出してやることにした。
「俺が遣いを言い付けたんですよ、趙雲殿」
「そうだったか。……名前殿、市井のことを語らいたいのだが、鍛錬の後に時間を作っていただけるだろうか?」
「えっ」
「返事はすぐでなくとも構わない。ただ、前向きに考えてくれると嬉しい」
呆然と見上げる名前に「それでは失礼する」と言い放ち、去っていく背中が廊下の曲がり角に消えたところで、彼女は居心地悪そうに視線をあちらこちらに散らした。先のあれに今のこれだ。俺になんて言われるか不安で仕方ないといった様子。彼女の手を引くと、体は意外にもすんなり傾いた。しっかり抱きとめ、色んな感情が綯い交ぜになった目で見上げる名前の頬を撫でる。
「見境なく粉を撒くことが何を招くのか、たっぷり教えてあげますよ」
「き、拒否権は……」
「報恩のつもりでしたが、報復の方がよろしいか?」
「ひえっ……!」
「ご安心を。あなたが甘受するうちは優しくしますよ。―――抵抗するなら、話は変わりますが」
低く囁くと、それが決め手となり彼女は反抗の意思をなくした。
その後、「名前の付き合いが悪くなった!」と鮑三娘から苦情を呈されるが、それはまた別の話。