―――尔神勇、万古不易也。讓我想起了項羽。と、我が主君はかの女将、名前殿を賛美したことがある。酒の席での戯れだと件の女将は呆れた風情で一笑に付して取り合わなかったが、その晩以降、名前殿は「曹操麾下の項羽」として畏怖されるようになり、果ては敵にまで轟くようになった。その猛将が並み居る武勇を差し置き、己を供として選んだのは、少々虚を衝かれた思いだった。
「お前が引き受けてくれて助かる」
鞍を掛ける最中、出し抜けに彼女が息をつく。安堵するようだった。
「我が主君の命とあれば遂行するまで」
素気無い返答に返ってきたのは呵呵とした笑い声だった。稻草と大鋸屑の混ざった匂いが満ちる厩に、それはよくよく響いた。彼女が愛撫する馬が首を揺らして嘶く。宥めるように、あるいは共感を示す友人を喜ぶように、愛撫は深くなるばかりか、言として頷いてみせた。
「鹿毛も喜んでいるぞ。流石相棒だ、私と馬が合う。…………夏侯淵殿には好評だったんだがな」
「……出立前にそうも気を緩ませていては士気に関わる」
「わかっているとも。部下の前ではしゃんとするさ。ただここにはお前と二人だけなんだし、今はいいだろ?」
問いかけという形であるものの、否定して受け入れた試しはついぞない。気をつける、とだけ吐いて態度を改めない。馬具をつける最中も彼女は言葉を続けた。
「項羽だ神勇だと部下が持ち上げてくれるんだが、近頃どうもそれに託けて飯を買わされてな。どう思う?」
「度を越した行為を看過していては立場を忘れた者が付け上がる起因となる。冷然と断るべきでは」
「お前ならそう言うと思った」
呵呵と笑う様に果たして今の問答は必要だったのかと振り返る。
「だが意外にも交友関係には無駄なことが後に生きる。驕り高ぶる者へ貸しを作らせる、とかな」
らしくない物言いに手が止まり、眉間が力む。
「貴殿にそのような奸計の気があるとは見受けられぬが」
「その通りだ。私は駆け引きは得意ではない。むしろ面倒で嫌いだな。言葉を飾ることも遠回しで保身するのも理解できん」
「……貴殿の真意が測り兼ねる」
「そのままだ。私は思ったことしか口にせん。お前に同道を頼んだのは、真実私が助かるからだ」
ここに至りようやく気づく。己の胸中にわだかまった疑念に対する解であるということを。
「我が武力が貴殿の助力足りうるものとは思えんが」
「うん?なんだ、まさかお前まで神勇とか言い出すんじゃないよな?やめてくれ。あんなのは殿の戯れだ、真に受けないでくれよ。お前まで信じられたら私が困るぞ、いいのか」
「何故貴殿が窮するのだ」
「そりゃ唯一の命綱だからな。なくなられては私は死んでしまう」
さらりと滑り出た言葉に動きが一瞬静止し、今の真意を説かれるべく視線を流す。鞍を正し、轡を締める彼女の横顔は至って平静、いつも通りに見えた。愛馬を見上げる顔をこちらに向けると、口端を何が面白いのか吊り上げる。
「嘘じゃない。当然、冗談でもない。私が私であるためにはお前が必要なんだよ、于禁」
たった一人で国を滅ぼし、国を建てたかの西楚の覇王の名を賜るほどの腕に、一体何人の者が助けられただろうか。悪癖が過ぎるぞ、と夏侯惇殿に窘められていたが、彼女の武力を簡潔的に表し、他の軍閥への牽制とするのなら、かの御仁以外居ない。そんな彼女が自死を仄めかしている。常奇特な気性だと評していたが、これはもはや理解の範疇を優に外れていた。
「私には得物を振るうことしかできない。たとえ腕を斬り落とされても、仲間が苦しんでいても、自分はおそらくそれに気づかない。群がる敵陣の最中へ、放たれた矢のように飛び込むしか脳のない奴なんだ。突出する私をよく拾いに来るだろう?今だから言うが、あれに救われているんだ。お前の声を聞いて初めて感覚のない体に熱が通う。ゆえに今回の同道にお前を指名した」
我が主君の覇道を扶くべく戦場を縦横無尽に駆け回る彼女が、そのようなことを胸中に留めておいたことに驚愕した。しかし改めて省みれば得心いく場面がいくつか過ぎる。立て板に水のごとく各拠点を潰して回る彼女を連れ戻しに幾度か進行したことがある。名前を呼ぶ寸前までこちらの存在に気づく気配はなく、名を呼んで視界に入ってようやくこちらを認めるのだ。戦場において周囲への注意が疎かになることは往々にしてあることだ。特に彼女のような武を誇る猛将らなどは、一様に無我の境地に至ることがあると言う。そういった者らを数多見てきたゆえに、己が軛となろうなどとは考えもしなかった。事実、一声かければすぐに平静になっていた。だが彼女の言葉は軛としての意味合いを含ませており、些かの疑念と驚愕を隠せなかった。
「いやー、于禁にはつい言葉が過ぎてしまうな」
「それは貴殿の気性ゆえでは」
「うん、そうかもしれん!」
馬具を一通り装着し終えた彼女は手綱を引き、厩を後にしようと動く。こちらに向けた後背に一つ疑念をぶつけてみた。
「曹操殿に下られる前はいかにして過ごしておったのだ」
彼女の出自を知る者は我が軍にはおそらく主君を除けば一人として居ない。以前、徐晃殿との鍛錬の折に彼から聞かされた。何処かの将に師事していたのかと訊ねたことがあるが、曖昧に濁されてしまった、と。それは時折下の者からも訊ねられる。遥か南の地にも東の地にも通ずるかの女将はほんとうは何処から来たのか、夜な夜な人気のない水亭に腰をかけては聞いたことのない歌を口誦しているのは何故か。果ては、彼女の正体は幾年も流浪する女仙といったものもあり、荒唐無稽な評をみだりに広めるなと叱咤したことがある。このような世評が城内に広まるほど、彼女の深くを知る者は居ないのだ。曹操殿は噂自体を認めはするものの、特にこれといって動く様子はない。相手する価値無しと看做したんだろう。過去はどうあれ今の彼女はこうして道を同じくしている。その事実があればいい。自分もそう結論づけ、聞いたことはなかった。それが今、こうして差し向かって訊ねるのは、初めて彼女の為人を知りたいと思ったからだろう。誰のためでもなく、決して何かに役立てるための詰問でもない。呵呵と明朗に笑う彼女を曇らせる起因に触れてみたい、そう思ったのだ。
「―――死んでたよ。死んだように生きてた」
笑い混じりに吐かれた言葉は自嘲に聞こえ、肩越しに向けれた眼差しは一瞬涙を湛えて揺れているように見えた。何も言えないでいる自分に、彼女はふっと軽く息をついて口の端を吊り上げる。
「さ、戦だ戦だ。何事もなく帰還して一緒に酒を酌み交わそうじゃないか!凱旋歌を響かせて!」
手綱を引いて光の中へ消えていく。