戦勝を祝しての酒宴。大将の一声で盛況する宴から折を見て抜け出す。軍営の天幕が甍を並べる中を縫うようにしてしばらく歩き、適当な茂みの足下で腰を下ろした。風が静かな夜だ、と虫のさざめきに耳を澄まして思う。葉と葉の間からは白月が覗き出ており、周辺を覆う夜気に光を落として視界を僅かに明るくさせている。孟冬の夜気は酒でぬるく火照った体にはよく染み込み、快い睡魔が体の奥で滲む。―――そんな時だった。意識しなければ全くの無音だと思ってしまうほどに静まっていた辺りに、不自然な音が唐突として立つ。がさり、ぱき。茂る葉と掻き地に落ちる小枝を踏む音だ。全身の毛穴が開く感覚に襲われ、瞬時に立ち上がって姿勢を低くする。
「誰だ」
中腰で剣を再度握り締めたまま音の方向を睨むと、茂みから踏鞴を踏んで現れたのは、思いもよらなかった人物だった。
「すまんすまん。驚かせるつもりはないんだ」
―――名前だ。言葉通りに両手を挙げて左右に振る仕草に、こわばっていた全身が緩む。月明かりの下に顔を出して気づく。持ち上げた片手には目算一斗ほどの瓶が掲げられていた。自分の視線の先を汲み取った彼女は、それを軽く持ち上げてみせて、含み笑いに口角を吊り上げる。
「いける口だったか。それは僥倖。自分だけ飲むとなったらどうしようかと思っていたんだ」
よかったよかった、と一人満足して地面にどかりと腰を落とす。意図を読めずに呆けてしまう自分を見上げ、座るよう促した。
「紫鸞殿とは一度酒を交わしたいと思っていた」
腰に下げていた布から二人分の酒器を取り出し、滔々と注ぐ。白い明かりが表面を滑り、張り詰めた夜気に交じってほんのり酒の匂いが鼻先を掠めた。
「だが自分には肴にできる話など持っていない」
焼け落ちた村里を出て行く以前の記憶がまるでないのだ。思い出そうと試行しても、全体に濃霧がかかって見通せない。頭痛さえ伴ってしまい、道半ばで出会った馴染みの医者には無理は禁物と言われて今では強引な手段は試していない。それゆえに彼女ほどの人物に関心を持たれたとしても、応じれるようなものはないことが心苦しかった。彼女はといえば神妙な顔で頷き、一言。
「なら夢を語ろう」
それには返答として用意した言葉の一切が飛んでしまった。
「貴方も、戦続きの世を剣一本で渡り歩く武芸者だと聞いた。各地を流転しながら喘ぐ民を助ける貴方の夢が聞きたい。それが難しいなら好きな物でも嫌いな物でも構わない」
「何故そこまで俺に拘るんだ?」
「紫鸞殿について知りたいんだ。……自分に近しい人だから」
さらりと返されてにわかに片眉を吊り上げる。素直に驚いた。歴戦を潜り抜け、数多の武将たちを影より扶けてきた勇士だと、訊ねた兵卒らは口を揃えた。寄る辺を持たず、己の腕一つで乱世を渡り歩くという生き方には、にわかの親近感を抱いていた。しかしそんなものはこちらからの一方通行だと思っていたのに、まさか彼女の方も自分に興味があったとは。
「どうだ、乗らないか」
突き出された酒杯。白塗りの小さな陶器の中で、葉と葉の間から顔を覗かせる月が浮かんでいる。細かい波に拐われて顔を崩した刹那、胸中の端がざわめいた。寄る辺を持たない者同士の会話に耳を攲てるのは虫と今にも隠れそうな月のみ。であれば遠慮することもない。
「―――俺も、あなたのことを聞きたい」
差し出された酒杯を呷ると、欣々たる笑みを満面に浮かべた彼女が大きく頷いてみせた。