―――背中を覆う羽織が風に煽られる様に、奥羽に臨む縹渺たる海が脳裏に蘇った。白光を照り返す凪いだ一面もあれば、深く暗く静かに寝入る一面も持つその海は今、獣の咆哮を響かせて荒々しく戦場を蹂躙している。鈍色の刀身を翻して数多の敵を打ち払い、怒号も剣戟も、相手の威嚇すらも呑み込み、一切の無に帰す。それはまさしく荒れ狂う波濤そのものであった。
味方を引き連れ敵大将を討てば、敵は蜘蛛の子を散らすように四散する。陣中は戦勝に盛っていた。小十郎らに撤退の布令を出して、少し抜けると伝えた。
「何処へ行かれるので?」
「辺りを走ってくる」
「撤退路でしたら既に安全を確認していますが」
「私用だ、すぐ戻る。お前たちはこのまま支度を進めよ」
「政宗様!」
小十郎の制止を振り切り、馬を走らせる。目指す宛ては定まっていなかった。彼に言った通り周囲を走らせると言ったが、周囲に居る確信もなかった。会えれば良し、会えなければそれまで。そのつもりでいたが、再会は存外早かった。かろうじて道としての体裁を保つ森の中を進むと川に面した細い道に出た。茂みから躍り出た自分と相対するは、先程の戦場にて垣間見た女将であった。澄んだ川の水に浸した手拭いを絞る体勢のまま上体だけを捻り、驚愕を露わにした顔で見上げている。驚きに目を瞬かせて言葉に詰まったのはこちらも同様だったが、一瞥した腕に浮く鮮血が視線を掠め、馬を下りる。
「―――負傷しておるのか」
注がれる視線の先を彼女も追う。そして己の腕を一瞥し、ふっと口角を緩ませた。
「情けない話ですが、不覚をとりました」
「馬鹿め。戦地でかように集中力を散らせばそうなるわ。人助けなどしおって」
唾棄するように言えば、目を丸くさせていた彼女がぽつりと漏らす。
「見られてしまっていたか」
「何やら奇特な奴が居るものだと思うたのでな。貴様、何処の将だ?―――いや」
己の言葉を半端に区切り、改めて女の容姿を矯めつ眇めつして見て、出した結論を吐いた。
「平民、か」
「然様。自分はただの流浪する武芸者ですよ。此度の戦に参じたのは、近隣の村長に一宿一飯の恩があるゆえ」
「然らばこれよりはどうするのじゃ」
手拭いを絞り、それで傷口を洗浄すると、懐から出した軟膏を塗って布を巻く。手馴れた様子を見るに、医学にも通じているようだ。それとも度重なる荒事で単に慣れただけか。考えるような沈黙の中、女はてきぱきと身なりを正していく。羽織を肩にかけ、傍に置いていた刀を取る。
「また流離い人に戻ります。探しているものを見つけに」
勿体ない、と口を衝きそうになる本音をぐっと下す。
「……そうか」
「何処の子息かは存ぜぬが、お気をつけて帰られよ」
「ふん、わしを侮るでないわ。貴様こそ、隙を突かれて死ぬでないぞ」
「肝に銘じよう」
からからと風通りの良い笑い声を響かせ、女は羽織を翻す。風になびく海は、穏やかに凪いでいた。
―――その女とは、季節が一巡した冬に再び相見えた。腕の立つ女と友誼を結んだ、との孫市の言葉に関心が湧いて同道すれば、よく顔を合わせるという茶屋の縁台に腰掛けていたのがあの女だったのだ。風に煽られてなびく青い羽織が、鮮烈に飛び込む。孫市が名を呼ばうと、それに顔を上げ、破顔した表情はすぐさま驚愕へと転じる。なるほど、名前というのか。異様な空気を察してか、孫市は怪訝そうに訊ねる。ざっと話してやれば大きく息をつかれた。
「なんだ、知ってやがったのか。それならそうと教えてくれよ。こんな腕の良い奴とは早くに出会いたかったぜ」
「貴様に介するくらいなら、わしが引き入れておるわ」
「ほぉ?お前さんが褒めるほどなのか。ま、わかるけどな」
「孫市殿が言っていた得物を同じくする友とは、貴方であったか」
「そう睨むなって。友って括りの方が説明しやすいんだよ」
「相変わらず馴れ馴れしい奴よ。貴様、此奴とは何処で知り合ったのだ?」
「近江の方で面倒な奴らに絡まれたところをちょっとな。あん時の剣捌きと言ったら。お前にも見せてやりたかったくらいだ」
「過分な言葉です。自分なぞ、まだまだ未熟者。かく言う孫市殿の鉄砲もかなりの腕前だった。孫市殿の背中には第三の目が開眼しているのかと驚いたくらいだ」
「これを売って生きてるんでね。品質は保証するぜ」
「まだ放浪を続けておるのか」
そこへ茶屋の娘が湯呑みを三つ持ってくる。淹れたばかりのそれからは、ほくほくと白い湯気が立ち上り、茶葉の香りが鼻先をくすぐった。触れるとじんわりとした熱が手の内に広がっていく。季節の明け口、孟冬といっても寒さはまだ厳しくなく、昼間に吹く風が少しばかり涼しいという程度だ。しかしこの涼しさに気を和らぐのも僅かな間に過ぎず、しばらくもすれば指先が凍って夜の眠気もそこそこになるほどの本格的な寒気がやってくる。温められた茶一杯では満足に暖を取れないほどの寒さが。軽く口に含み、店主の腕前に内心感心した。団子を食べていた女の手が、静かに止まる。
「―――探し物が見つからないのです」
その声には暗鬱と諦めと滲み出した焦燥を感じた。
「何を探しておる」
「己が主と呼ばう御方を。この腕を、忠を以て捧げるに足る御方を、自分はずっと探しています」
「へえ。そんだけの腕がありゃ引く手数多だろうに、一箇所に留まるなんて酔狂なのか健気なのか。お前さんの望む主ってのは、どんなお人なんだ?」
「食い扶持にあぶれ、物取りや野盗といったものに身を窶すことにならずに済むような、そんな世を作ってくれる方を」
「大言壮語を語る奴らなら喜んで口上しそうな望みだな」
「自分でもそう思います」
苦笑する様に湯呑みを置く。
「貴様は何処の出身だ」
孫市へと向けられていた双眸がこちらへ滑る。意図を探るように丸められていた。
「ここより遥か南、壱岐の小さな村落にて」
「壱岐か。あそこの統治者はなかなか定まらぬと聞く」
同調するように頷いた彼女は、湯呑みを持つ己の手元に顔を落とした。
「……小国ゆえ戦火が絶えぬのです。筑前、肥前、果ては長門からも領地欲しさの豪族がやってきて奪い合うばかり。ただでさえ肥えぬ土地というのに、耕す者も減る一方で、最近も知人が一人亡くなりました。飢えか戦死か、はたまたそのどちらか……」
深く息を吐き、項垂れる。南方西方、あちらこちらに回るはそれが理由か。傍に置かれた刀は昔見た物と変わりない。言葉通り、身一つで流浪しているらしい。一つ消しては二つ目が、二つ目を消しては三つ目が。この世はいつ点火するとも知れぬ火種が四方八方に散らばっている。すべてを掘り返して潰せるのはいつになることか。考えてもこれといった答えなど出るまい。天に居る神とて匙を投げるだろう。しかし、開き直って享楽に耽ることや目を逸らすことは許されない。何よりその逃避行を自分自身が許せない。
「奥羽に来てどれほどになる」
「ざっと六日ですが……」
「その間、貴様はどのように過ごした」
「宿を借りて、昼は散策して助けを乞う方が居ればその手伝いをしています。……あの、貴方の質問の意図が分かりかねるのですが…………」
困惑を顔に浮かべる彼女に訊ねる。
「貴様の目に、この地はどう映る」
彼女は小さく息を呑んで僅かに見張った。重ねた視線を滑らせ、市井の往来へと向ける。固く結ばれた口唇と焼き付くように見つめる横顔を静観し、湯呑みを傾ける。回答を急かす気は起きなかった。荒廃する故郷を出て何を見てきたか、見てきたそれらと比べてどう思うか、どう感じるか。偽らざる本音を知りたいと思った。夜を待つことになったとしても構わないとさえ。孫市も口を噤んでいる。三人の間を流れるは町の喧騒のみ。童の声、商人の呼び込み、喧嘩する騒ぎ、取り留めのない談笑。それらが渾然一体となって鼓膜を麻痺させる。その中で一際大きく聞こえた笑い声があった。すぐ傍で。
「あちらこちらに活力が湧いていて、背中を押されるような力強さを受けます」
その答えに、己の口角が勝手に吊り上がるのを感じた。
「当然よ。わしが治める領地において、身分関係なく一様に民であり兵なのだ。負け犬など一人も居らぬ。そんなものはこのわしが許さぬ」
「なるほど。領主の血を濃く現した土地なのですね」
くすくすと笑う彼女に、孫市は肩を竦めてみせた。
「活きがいいのも好きだが、俺はもっとお淑やかな女性が好みなんだよな」
「貴様のくだらん趣向なぞ、どうでも良いわ。そこまで尽くす気概があるというのなら、わしの下に来てみぬか。最初から仕官せよとは言わぬ。食客で良い。わしとて貴様ほどの武者を見過ごすのは惜しいからな」
「そ、それは願ってもない誘いですが、……しかしほんとうによいのですか?聞くに貴方はかの政宗公だろう。かようなお偉方が浪人を一存で抱えるのは、家中の猛攻を浴びるはめになるのでは……」
「馬鹿め、然様なことは貴様が苦慮するでないわ。わしの目で貴様を見、わしの耳が貴様の言葉を聞き、わしの考えで貴様を迎えると断じた。異存ある者らはすべてわしが説き伏せる。貴様は瑣末事に囚われることなく、この日ノ本を駆けよ。その腕は、疾風のごとく駆けてこそ生きよう」
一目見た時から焼き付いて離れない。たなびく青い羽織。蒼天のようにも、海のようにも見える深い青。屍重なる戦場であっても、彼女だけは清涼な風のごとく。荒々しく敵を薙ぐというのに、その気性は風のように軽やかでいっそ清々しい。止ませてはならぬ、と強く思った。天啓と呼ぶことさえ過言ではない。この地を果てなく走らせ、あまねくを自由にさせてやりたい。それにはまず天下を均さなければ。急峻たる土地では風は通り抜けず、荒れた土地では空風しか吹かない。彼女にはそんなものは似合わない。人々に暁を報せる晨風でなければ。
「これほどの民を抱えて尚、民に目をかけることができる貴方のような方に望まれることは、これ以上ない喜び。自分の腕が太平に近づく助力となりえるのであれば、存分に使ってください」
「うむ。貴様の奮闘を大いに期待しておる」
「先を越されちまったか。俺が迎え入れようと思ったのに」
「貴様のところでは余すだろうよ」
風が通り抜け、羽織がなびく。己の羽織と青い羽織とが重なる。それは道が重なったようにも見えた。
名前と冬を二回過ごした頃。食客として迎えた彼女の名は隣国にも響き、今や兵士らの間で自ら武術を肖りたいと志願する者も居る。正式に仕えているわけでないことを由として引き受けることはないものの、一度戦場で轡を並べようものなら、縦横無尽に駆け回って敵を斬るだけでなく、苦戦する味方の救出も一手に担っているので、彼女に群がる者らは後を絶たない。引き入れた当初苦い顔を見せていた者らも、今では仕官を願う奴が居るほど。よく尽くしている。それは誰に訊ねても同じ解が帰ってくる。自分の心中も、臣下たちと同じく、留まっていることを望んでいる。改めてこちらから勧誘してみるか、と思案しながら名前の私室を訪れた。花残月の麗らかな日差し降り注ぐ中庭に面した縁側に、件の姿はあった。柱に肩を預けて双肩を緩やかに上下させている。線の細い肩より垂れるあの青い羽織はなく、素肌を露わにしていた。近づくにつれて細い声が聞こえる。
「寝ておるのか」
回り込んで隣に腰を下ろす。彼女の寝顔を目の当たりにするというのは、なんとも言えない心地だ。驚きもあれば面映ゆさもあり、胸中に滔々とぬるまな熱が溜まっていく感覚もある。一人旅が長いゆえなのか、そういう気性なのか、曰く余人を伴っての寝食は慣れないらしい。思わず休めているのかと訊ねてしまうほどに機敏に動く彼女が、こうして安らかな寝息を立てている。それはやはり奇妙な思いにさせた。だが、不快さはない。むしろこれは歓喜に近い。手となり脚となり駆け回る彼女の深奥の一端に触れることが叶ったのだから。瞼を閉じて寝入る彼女は一体何を夢見ているのだろう。
「我ながら何とも女々しいものよ……」
溜息混じりに額に指を宛てがう。以前の自分であれば、まず思わなかったことだ。他人の秘め事に触れたいなど、ましてやこうして他人の一挙手一投足に一喜一憂するなど、有り得ぬこと。もはや目を逸らすことのできない確実な心境の変化を常持て余すことになろうとは。
「わしは、貴様のことが……」
目に眩しいあの青い羽織をはためかせ、荒々しくも清涼な風をまとって駆けた、あの刹那。ほんの僅かな出逢いの折に、自分の最も深いところは染められてしまったのかもしれない。伸ばした手を寸でのところで静かに下ろす。
「……ん…………」
にわかに開いた口唇から漏れる息。彼女との間にある己の腕が、大袈裟に自分の体に張り付く。
「政、宗殿……?自分は―――わっ」
「馬鹿め。いくら暖かくなったとはいえ、奥羽の寒さは甘くない。羽織はどうした」
「女中の方に土埃が酷いからと洗いに出されてしまいました」
そんなに汚れていたとは、と深緑の羽織を肩にかけた姿を見遣ってえも言われぬ感情が込み上げた。
「政宗殿?」
不意に覗き込まれて目を瞬かせる。すぐにふいと顔を逸らした。
「なんだ」
「自分に何か用向きでしたか?」
「……それよりもだ。貴様、寝食はきちんと摂れておるのか」
「はい。奥羽の米はとても美味しく、市井の方でもつい食指が動いてしまいます。以前、孫市殿と政宗殿と一緒に行ったあの茶屋には何度も―――っと、話しすぎましたね。申し訳ない」
「何故謝る。良い、もっと聞かせよ」
彼女が自らこうして胸の内を語るのは多くない。他の者との会話を時折見かけた際も、相槌を打つ姿が多かった。先を待っていると、拾ったのは小気味よい笑い声だった。
「なんじゃ」
「いえ。政宗殿と居ると口数が多くなってしまいます。なんと言いますか、胸の内を聞いてほしいと思ってしまうような、そんな空気をお持ちの方だ。……けれど嫌ではないのです。可笑しいと思いましょうが、自分でも初めてな感覚なもので、常持て余しているのです。―――政宗殿?いかがされた?」
驚愕、なんて言葉では収まりきらない。頭の中に張り巡らされたいくつもの導線が一斉に切れたように何も考えられなくなった。頭が真っ白になるとはこのことだろう。跳ねて沈んだ鼓動が張り付いて動かぬ刹那の後、けたたましく動き始め、全身が、それこそ指先に至るまで、炎に覆われたかのように熱を持った。熱く、それでいて激しい羞恥。二つの双眸が迫り、殆ど反射で立ち上がった。
「ばっ、馬鹿め!!なんでもないわ!」
「こちらにおられましたか、政宗様」
背後より現れたのは腹心している小十郎だった。その手には巻物を一つ握っている。
「目を通してほしい書簡があったのですが……。―――僭越ながら政宗様」
「……何だ」
「童ではないのですから、ご自身の気持ちに正直になられてはどうでしょう。多少は関係が前進するかと」
「世迷言を吐く口を今すぐ閉じぬか馬鹿め!!」
聞いていたのか。ほんとうに隙のない奴だ。逸る心臓を抑えながら睨めつけると、やれやれと肩を竦めてみせた小十郎は、自分たちのやり取りを見上げている彼女へ視線を落とす。
「私としてもあなたにはぜひ我が軍に留まっていてほしいと思いますよ。今やあなたの存在は欠かせませんから」
「自分には過分なお言葉です」
「卑下するでない」
「政宗殿?」
何を言い出すんだとばかりに丸めた目を毅然と対する。
「貴様の力、信念、迎え入れたその日より見てきたが、決して冷笑するようなものではない。―――それに」
視線をずらして胴を見遣る。先の戦にて味方を庇って腹を斬られている。傷こそ浅いものの、寒気が残る今の季節柄、完治するには少々時間を要する。返り血なのか己の血なのかもわからぬほどに汚れて帰還した姿は、おそらくどれほどの時を経ようと脳裏から薄らぐことはないだろう。いずれ天下に雄飛すると豪語した自分の肝が一気に冷えたのだ。大人しく褥に入っておれと言い聞かせても、血は止まっているのだからとこうして外を出歩いている。頼み事をしようものなら果てにまで駆けそうな勢いだ。呆れる思いでいっぱいだ。
「我が民のために奔走する貴様を嘲ることは、たとえ貴様自身であったとしても、わしが許さぬ」
しかし、同時に誇らしい気持ちもある。幼き頃より心房として支えてきた小十郎。そして彼女。西へ東へと、自分のために傷をこさえても尚留まることを知らぬ。昔日、自身は彼女を晨風と喩えたことがある。それは今でも変わらない。戦続きに喘ぐ時代を均した暁には、知を以て治める泰平をもたらす覚悟だ。長い夜が明けたことを報せる風は彼女であってほしいと、今でも願っている。海のように縹渺と、風のように軽やかに。
「政宗殿は天下をとった後は、どのような世を築かれるおつもりでしょうか」
真面目な語調に少しの間口を噤む。そして変わらぬ調子で告げた。
「……奥羽は険しい山々が連なる土地ゆえ、冬季は寒害を大いに受ける。年によっては餓死者を出してしまうほど。貴様も感じただろう。暦では春を迎えても、実際には寒気が濃く残っている。土地が痩せてはいくら耕しても実らぬ。実らなければ空腹に喘ぎ、賊に身を窶すほかない。しかしそれを許しておっては太平の世など到底訪れぬ。ゆえにわしは農耕に力を注ぐつもりじゃ」
峨々と連なる山々に囲まれ、窪んだ位置に町がなっているここは、天候によっては冬も夏も関係なく不作になることが往々にしてある。万全に蓄えることすらままならぬこの地ではその日の空腹を満たすだけでやっと。これでは誰もが己のことしか考えられぬのも道理。他者を慮れるほどの余裕など、誰しもがない。ならば己がそれを変えるのだ。誰もが手と手を取り合う、などと絵空事は吐かぬ。しかし、死ぬこともやむなしと諦めることは看過できない。それでは何のために生まれ、生きるのか。諦めたまま生きるなど、それでは動くだけの屍に過ぎない。かつての己のように。
「まずは家を潰された大名たちを戻す。奴らに土地を与え、村民を抱えられるだけの余裕を持たす。そうすれば、戦で荒れた農地を追われることになった民も、賊に身を落とすしかなかった者らも戻れるだろう。……ゆえにわしは留まっておられぬ。どんな力も従えて、この見下ろす天に飛翔してみせる」
やることもやれることも山積している。小石に躓いて転んだとしても、地に伏している暇など自分にはない。そのためにはどんな力も欲しい。身分も力量も関係なく、己の手で明日を作り替えるだけの気概がある奴なら誰であれ歓迎だ。
「…………政宗殿が壱岐を治めてくれればと、今ほど思ったことはありません」
感慨深げに吐いて、居住まいを正す。深緑の羽織が揺れて伸ばされた背中がそのまま前へ倒れる。肩よりこぼれ落ちた髪の先が床を擦る。畏まった態度と雰囲気に、自身も小十郎も口を噤んだ。
「今でも自分を求めるのならば、今度は貴方の臣下として貰ってやってはくれないでしょうか」
衝撃に目を見張る。ゆっくりと言葉を噛み砕いて呑み込み、慎重に口を開いた。
「それは、貴様が探していた主君の器に足る存在だと認めるということか」
「むしろ政宗殿を置いて他に衷心を以て仕えたいと思う方はおりませぬ」
とくり、と一際大きく鼓動が脈を打つ。最も欲した言葉。最も欲したもの。込み上げる歓喜に喉が大いに震えた。高らかに響く笑い声を沈め、意気揚々と頷く。
「よく申した!これよりは竜の爪牙としてよく尽くせ。貴様が望んだ天下の先、必ずやわしの手中に収めてみせようぞ!」
「はっ。これよりは我が主たる貴方に全身を賭す覚悟で仕えて参ります」
冬が明けようとしていた春先のこと。花残月の麗らかな日差しは、さながら天の祝福かのように思った。晴れ渡る空の下、庭に植えた桜の樹木には小指程度の蕾がついている。花開くは今か、明日か。
天正十三年一月六日。破竹の勢いで追いかけてくる敵軍を背に、自分は道無き道を突き進んでいた。均されていない土地を全速力で駆け、時折手放しそうになる意識に噛み付いて手綱を握り直す。吐く息は荒く短く、呼吸さえままならない。額から流れる血が視界を遮り、思うように動かぬ体も現状も相まって、腹の底で燻る怒りと苛立ちを助長させた。遥か彼方より飛んでくる矢を銃弾で撃ち落とす。二本、三本と撃ち落としたところで四本目の矢が肩口に突き刺さった。
「ぐっ!」
馬が前進する都度に動く上体とで鏃が中で肉を擦る。激しい痛みが突き上げ、呻く。矢を放り捨て、唇を噛んだ。敵の勢いは最高潮に達しようとしている。騙し討ちで父を拐かし、救出に向かった自分に対して怨恨の限りを叫んだ畠山義継。銃弾か矢か、そのどちらかしか届かない距離にて父は自分に言った。諸共撃て、と。ただそれのみ。それ以上は不必要だと覚悟を決めた顔で自分と対した父。構えた銃口が震えたのはあの時だけだ。しかし、撃たなくてはならなかった。みすみす敵を逃すわけにはいかなかった。人質として的にされてしまえば、救出する手立てもない。諸共撃つしかなかったのだ。白煙を燻らす銃口。父の体は畠山と共に水底で沈んでいった。それが開戦の狼煙だった。畠山家と伊達家の弔い合戦が火蓋を切った。たとえこちらの手勢が僅かであっても、あのような形で討たれてしまった父の無念を晴らさなければ。破裂する怒りをぶつけても結果は今の通りだ。鬼庭が殿を務めたおかげでこうして渦中を脱することは叶ったが、その際に負った深傷が前進する己の足を引っ張る。
「おのれ畠山め……!!」
忌まわしく唾棄し、手綱を握る手が力む。噴き出した血は己の怒りだ。肌を伝う血滴は己の涙だ。悔しさも怒りも許せない思いもある。けれど、それを手にして戦場へ戻るわけにはいかなかった。それでは身命を賭してまで逃がした鬼庭にも、他の臣下たちにも面目が立たない。彼らの恩に報いるには何としてでも帰城し、再起することのみ。踏み越えることになる屍が誰であろうと、振り返ることは許されないのだ。その時だった。脇道から黒い塊が飛び出してきた。
「敵将、伊達政宗!義継様の仇!覚悟!!」
掲げた鈍色の刀身が一閃を放つ。突然現れた敵兵に驚いた馬が高く脚を上げ、体勢を直す隙もあらばこそ地面に叩き落とされ、これ幸いと得物を掲げた男がそれを勢いよく振り下ろす。馬の嘶きも照り返す陽光の眩しさも遠くへ去り、胸中には嚥下できぬ悔しさが湧く。ここまで来て討たれてしまうのか、わしは。いくつもの鎖帷子を着込んだように体の自由は利かず、とうとう切先が間近に迫る。
「ぐ、ぁ、は……っ!」
耳元で風切り音が聞こえたかと思えば、己の眼前に仁王立ちする男の胸から一本の矢が突き出ている。血を吐くことなく目を見開いて固まったまま、男はやおら後方へ倒れていく。一拍遅れて感じる己の鼓動の強さ。そして土を踏む忙しない音。それは背後からやってきて眼前で丸くなった。雲ひとつない澄んだ空を映したかのような青。波打つ様は海のよう。土と埃とで顔を汚した名前だった。番えていた弓を放り、崩れそうになる自分の肩を支える。あれほどの人数を斬っておいて人一人支えることのできる余力に、張り詰めていた緊張が和らぎ、口角が崩れる。肩を握る手はまさしく勇将そのものに感じた。
「ご無事か!政宗殿!」
「きさ、ま……か…………」
「お気を確かに!今片倉殿がいらっしゃいますゆえ!」
「戦況は、どうなって……おる」
「鬼庭殿が鬼神のごとき力で孤軍奮闘しています。あの方が居なければ自分も危うかった」
「で、あろうな……。彼奴は昔から強いからな……」
息が喉に詰まり、思うように舌が回らない。喉を擦る掠れた音と血の巡りで熱くなった体と、今にも突き出そうなほど叩く心臓とで、意識が離れていきそうになる。ここまで来たというのに脚に力が入らぬとは。その上、父の仇討ちもろくろく叶わず逝くとはなんと情けない。先祖に会わす顔もないわ。指先が固まっていき、もはや力むことさえできない。
「貴様は……、逃げ、よ……」
「今やこの身は貴方の手脚。心臓が狙われているというのに、逃げる手脚がありましょうか。さ、しっかりお掴まりくだされ」
体の横に垂れる右腕を持ち上げ、その細い肩に掛ける。左脇に己の手を差し込み、抱き起こした。こんな状況下でも彼女が隣にあるというだけで、かくも胸が熱くなるのか。心の内で、どうしようもなく手放し難いこの女の無事を喜んだ。目を滑らせれば、そこには何もない。乗ってきた馬は混乱の最中に逃げ出したようだ。と、そこへ新たな馬蹄の音が迫る。彼方より駆けてくるは深く信頼している臣だった。
「政宗様!」
馬鹿め。己も満身創痍だというのに、わしばかり気にしおって。急ぎ馬を下りて駆け寄る。
「よく来てくださいました、片倉殿」
「他の方が奮戦してくれていますので、今のうちに米沢に戻りましょう。―――しかし、これは……。出血が酷い」
「片倉殿、代わってくれませんか」
するりと手を離すと、小十郎に支えられる。羽織を取ったかと思えば、何の躊躇もなくそれを裂いた。何を、と口することもあらばこそ、それを未だ流血が止まぬ肩口にきつく巻き付けた。蒼天の色の布切れは瞬く間に鮮血に染まっていく。
「きついかもしれませんが、多少は出血が抑えられるでしょう。片倉殿、後はお任せします」
「何を―――」
「政宗殿。御身を守れる役目をお許しください」
どくん、と心臓が冷たく跳ねる。体中を巡る血が氷水となったかのような冷たさに呑まれ、言葉は出なかった。
「お言葉ですが。鬼庭殿が今も引き付けているはず。あなたが行く必要はないのでは?」
「ここへ来る道中、常陸の佐竹や会津の蘆名だけでなく、相馬や白川といった者らも集まってくるのを見かけました。いくら鬼庭殿といえど長くは持たないでしょう。おそらくもう―――」
彼女の言葉を遮ったのは地鳴りだった。いや、地鳴りと呼べるほどの大軍勢の馬蹄か。空気は一瞬にしてこわばる。迫り来るのが味方でないことなど、確認せずともこの場に居る全員が理解した。猶予はないようだ。近づく馬蹄の音がそれだけ別れの刻を早める。
「政宗殿」
彼女の声はそれでも凛然と、落ち着き払っていた。平常時のそれと見間違うほどに。
「―――わかった。貴様に殿の大役を任せる。わしが逃げ遂せるまでの時間を作れ」
自分を支える小十郎が小さく名を呼んだ。皆まで言わずとも己が一番理解しておるわ。それでも、この場で私情を選ぶなどできないのだ。
「過日、貴様に語ってみせた夢は決して夢などでは終わらせぬ。奥羽のみならず、壱岐もわしの手で肥えてみせよう」
餞別はこれだけでいい。これ以上の心残りは不要だ。
「政宗殿に仕えられたこと、我が生涯において何にも勝る喜びでした。貴方は女だと蔑むことも侮ることもせず、一人の武人として扱ってくださった。その恩義に報いることができるなど、悔いはありません」
綻ぶようにして微笑んでみせ、踵を返した。遠く遠くへ駆けていく背中にはあの青い羽織はない。陽光に晒されたのは線の細い肩だった。やがてその姿が視界より完全に消えると、小十郎がほつりと零す。
「……よろしいのですか、政宗様」
脳裏に呼び起こされるはあの森の中のこと。一騎当千の強さを持ち、戦地を鮮やかに駆けた女の気性を知りたいと思い、森の中を探った。ほんとうに出会えるとは思わなかったが。女は流浪する武者という。一宿一飯の恩を返すがため戦地に身を投じるくらいなのだから、今までとて似た理由で転戦を繰り返してきたのだろう。不思議に思っていた。あれほどの力があれば名のある家に仕官することも夢ではない。憶測ではあるが、誘いもあったはず。その疑念は二度目の邂逅で晴れた。仕えるに足る主を探しているという。それも、己に金銭を浴びせるような者ではなく、荒れた時世を治めるような者だ。簡単に言ってくれる、と思ったが、そう語る様は決して己の体裁のためでも、その場凌ぎの偽りでもなく、真に求めているものに感じた。本気で死に行く余人を憂い、そのために痩躯を酷使している。欲しい、と強く思った。己の保身と立身しか慮らぬ者、己の領地に住まう者のみを慮る者しか居らぬ時世に於いて、彼女のような者は奇特。しかし、その奇特さこそ自身の大志に最も必要なものだ。そうして迎えた彼女は言葉以上の働きを見せた。自分をよく理解し、支え、時に肩を並べる。それがいつしか自分にとってなくてはならぬもの、あって当然とさえ認識するようになった。
「―――良いわけなかろう……!」
腹の底より沸き起こる激情を堪えるように拳を握り締める。名前がただの女であれば、去っていく腕を掴むことができた。抵抗するのを押さえつけて連れ帰ることもできた。だが、彼女は臣下なのだ。一廉の力を有した武士なのだ。彼女を選ぶことは、みなに掲げた夢も、彼女に語らった大志もすべて捨てるに等しい行為だ。それだけはできない。
「竜の爪牙とはよく言ったものです。鱗の間違いでしょうに」
「……小十郎」
「ええ、これ以上は言いませんよ」
「行くぞ」
馬に脚を掛け、手綱をしっかり握る。見据えるは前、遥か彼方に広がる太平天下の空だ。我が爪牙よ、我が逆鱗よ、貴様の大志を預けた竜の飛翔する姿を、しかとその目に焼き付けておれ。決意を固めるように肩に巻き付けられた青い羽織を握り締めた。
剥がれ落ちた竜の鱗
曲名「天下遥かに越えて」