信長様の下には数多の猛将知将らが集う。名のある者、未だ蕾な者、種を秘めたまま一旗揚げようと志す者まで。ある戦を境に信長様の旗下に入った名前殿もまた、いずれかに該当する女将であった。戦を駆ける女性は天下に多く、信長様の正室・お濃様もその一人。しかしとりわけ彼女に惹かれてしまうのは、その強さに起因するんだろうと自分は考えた。

「やはり、名前殿はとてもお強い……。この蘭丸、手合わせの都度感服してしまいます」

向けた穂先が疲労から来る腕の重さに負けて地面へ落ちる。喉に迫り上がる塊を懸命に吐き出し、溜まった疲労を追いやろうとする自分の前には、静かに穂先を下げてこちらを静観する彼女が居る。長いこと突き合っていたにも関わらず、佇まいに緊迫した様子はなく、泰然自若、いつも通りのまま。信長様が彼女を認めるはずだ。

「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」

出し抜けの問いかけにも、彼女は特に嫌がることなく頷いてみせた。

「あなたは何故、信長様に仕えようと思ったのですか?」

彼女に深く切り込んだのはこれが初めてだ。しかし、ずっと前より抱いていた疑念でもある。他の方ならおおよそわかる。信長様の威光に魅入られたから、圧倒的な存在感を畏れたから、呑み込まれたゆえに仕方なく、あるいは名を上げたいなど。だが彼女だけはどう考えても検討つかないのだ。戦功を挙げても褒賞を求めず、人の世評を顧みず、かといって信長様に敵愾心なども見受けられない。強さ以外でも自分にとって気になる人物だった。

「―――私は誰かに降ることはしない」

空気が瞬きの合間に凍る。辺りを漂う気がぴんと張った弦のように張り詰め、息さえ止まった。彼女の口から飛び出した思いもしなかった言葉。誰もが謀叛を解する言い方だ。かく言う自分もそれに行き着き、足の裏からぞわぞわしたものが駆け上がり、顔が一気に紅潮した。

「……信長様に対することがある、ということでしょうか」

湧いた激情を押さえつけ、努めて冷静に声を絞り出す。一歩間違えればこの場が戦場となりえるのを知ってか知らずか、それでも彼女の様子に波立つことはない。しかし頷いてみせたことに己でも驚愕するほどの衝撃を受けた。裏切り、とでも形容できよう。

「彼は私に約した。それを違えることがなければ、私は彼に同道する」

「約束?」

一つ頷き、蒼天を仰ぐ。

「今の世、上を突かねば下の入る隙はない。だから私は彼に力を貸すことにしたんだ。自分のような無位の者でも力無き者でも明日を見られるような世を創ると約したから」

雲に隠れていた陽が顔を覗かせる。低く垂れ篭める雲の間から崩れた陽光が彼女の顔に落ち、眩しそうに目を眇めた。その横顔にまるで見てはいけないものを見たかのような心地になり、無意識のうちに息をひそめる。癖なのか気性なのか、彼女はあまり存在感を出さない人だ。足音さえも意識せねば拾えぬほどで、ともすれば人と談笑する様などついぞ見かけたことはなく、視認する姿はいつも信長様と肩を並べて淡々と任を受けるものと戦場に立つ後背のみ。真一文字に伸ばされた口唇の端がふっと緩み、均された柳眉が和らぐ。一瞥を寄越した彼女を言葉に表すなら、まさに笑んでいた。感情の起伏が薄い彼女に初めて見る微笑みに胸を掴まれた思いになる。

「…… 名前殿とは、永久に傍に在り続けたいと思います」

堪らず口からこぼれた思いに、彼女はきょとんと目を丸める。そして是とも非とも公言せず、静かに瞼を伏せる。気づけば陽光が雨雫のようにぽつぽつと肌の上にも落ちていた。細雨のような日差しはほんのり温かく、それに満たされた小さな庭は揺籃にも感じ、胸が徐々に凪いでいった。



 お市様に呼ばれて屋敷の裏手に回れば、そこには辺り一面を白が覆っていた。雪が積もったかと錯覚するほどの有様で、柔らかな春風に運ばれたほのかな花の香りにはっとなり、よく見れば辺りを覆っていたのは白く染まった花たちだった。

「可愛いらしいですよ、蘭丸」

「お市様?―――あ」

ふふ、と小気味よい笑い声が耳元でしたので振り返れば、すぐ傍にお市様が立っていた。白皙のほっそりした腕が下がるのを見て、次いで頭上から何やら擦れる音がした。触れてみれば指の腹を何かがくすぐる。それは花冠だった。

「い、いつの間に……」

「蘭丸に似合うと思って作りましたが、こうして見ると女の子のようですね」

「お、お戯れを……!蘭は男です!」

慈しむような眼差しで微笑まれたことに堪らず言い返す。それでもお市様は朗らかに笑うだけで、聞き入れた様子はない。こんなところ、もしあの人に見つかったら……。恥じる思いが胸を掠めた時、お市様が自分の背後に目を遣り、声をあげた。

「―――蘭丸?」

心臓が跳ね、息を呑む。指先に至るまでが硬直し、振り返ることができない。お市様の声に誘われるがまま足音は近づいてきて、視界の端からとうとう顔を出してしまった。自分の前でお市様が微笑み、彼女は目を丸くして見ている。

「ね。蘭丸によく似合っていると思いませんか?」

「お、お市様……」

か細く呼ぶ声も武士としてあるまじき醜態も、彼女には見られたくなかったというに。穴があったら入りたいし今この時の記憶を忘れてほしい。胸の内で切に願う自分の耳に聞こえたのは、彼女の声だった。

「確かに。可愛いな」

ただの一言、されど一言。それが胸の奥に刺さり、じんわり溶けだしていく。広がった熱をどう扱えばいいか困り果て、目を逸らした。

「あなたも並んでみてください」

「いや、私は……」

「お市様、何を……?」

彼女を自分の隣に並ばせると、お市様は一人満足げに頷いた。

「そうして並ぶと何処かの姉妹姫のようですね」

「なっ―――!」

呆気に取られ、言葉を失う。当然だがこの身は男として育ち、周囲にもそう育てられた。身の丈を超す太刀を振るう体躯の何処に女人の欠片があろうか。それだけでなく、彼女と姉妹姫などと。戯れにしても悪趣味だと花冠を取りたくなったが、隣を一瞥して動けなくなってしまった。頬をくすぐる毛先と宛てがわれた淡い熱。武人然とした硬さと撫でる手つきに思考の一切が止まる。

「蘭丸を可愛がる濃姫の気持ちが少しわかった気がする」

それを形容するには幸福しか見当たらないほどに、綻んだ笑みだった。春の日差しのように温かく、若草のようにあどけない。胸が詰まってしまって、結局何も言えなかった。



 肌を焦がす熱感に低く声が漏れる。崩れ落ちる轟音、風のざわめき、悲鳴とも剣戟とも区別つかぬ騒がしさ。一番うるさいのは身内にあった。そろりと持ち上げた瞼に鮮烈な光が飛び込み、すぐに下りてしまう。火の粉を上げて燃える本能寺。落ちていく。すべてが無に帰す。けれども構わない。ただあの方が生きていてくれれば。天井に向けて横たわる頭が不意に持ち上げられた。気怠げに見遣れば、幻覚が広がっていた。

「最期の最後にあなたを求めるとは……。蘭は、つくづく……弱い人間です…………」

「何を言っている。しっかりしろ!」

倒壊する建物にも負けぬ怒号。鼓膜を貫き胸の奥に刺さる。止まりそうになった鼓動が一瞬にして息を吹き返す。痛むことも構わずに目を開けた。

「な、ぜ……、あなたが、ここに…………」

居るはずのない人。居てはならない人。だのに、己の後頭部を支える確かな感覚と、死地にあっても生を失わない強い眼差しを受けてはもはや逃避などできようもなかった。

「―――何故ここに!!」

焼き付いた喉を剥がして叫ぶ。重症の体にはそれだけでもだいぶ堪えたらしく、すぐに息があがる。手拭い一枚では足りぬほどの傷を負った彼女を庇う力も逃がす力も、この体には残されていない。だからこそ早く逃げてほしい、と思った。彼女は、時を共にした人を容易く見捨てられない人であるとよく知っている。敵であれ味方であれ人は人なのだから、とは彼女の言だ。しかし己の命を自分なぞには使ってほしくなかった。己が見たいのはそんな悲痛な顔ではなく、果敢に駆けるあなたの後ろ姿であるというのに。

「蘭はもう動け、ません……。どうか、どうかお早くお逃げ……、ください…………。あなたはここで散っていい方では、ありません……。信長様と共に―――」

遮るように彼女は首を振った。

「彼は光秀に討たれた」

―――死んだよ、と次いで放たれた言葉が微かな鼓動を凍らせた。五感のすべてが遠のいていく。音が遠ざかり、色が失せ、感触はなく、喉は張り付き、鼻の奥がつんと痛む。目の前がふと暗くなったような気がした。信長様、信長様。誰よりも前へ前へと突き進んでいた方。苛烈と詰られようと一瞥することなく己の道を邁進した方。蘭はそんなあなたの力となりたかったのに。なるために剣の腕も様々なことにも励んできたというのに。

「お救いすることすらできないなんて……っ」

己が傍にありながら黄泉に渡らせてしまうとは。これでは何のために蘭は彼の傍に居続けたのか。

「………………あなたは行ってください」

死の足音が聞こえてくる。着実に近づいてきている。このままでは彼女諸共呑まれてしまいかねない。それだけは避けねばならない。

「行くのか、私を置いて」

目を見張る。届いた音は弱く、震えていた。これほど近くになければ平常時ですら落としてしまっていただろう声量。切なく聞こえた音になんと返せばいいか、言葉に詰まる。いいや、返せない。返す言葉などない。返せるものなどないのだから。眩しい彼女に惹かれるがまま駆けてきた自分に、渡せるものなどありはしない。申し訳なく思いながら曖昧に口角を崩す。

「……傍に居たいと言ったのはお前だろう、馬鹿者」

言葉こそ詰るものだが、その語調はあまりに優しさに溢れていた。人の悪意には慣れているのに、罵詈をこんなにも嬉しく思ったのは初めてだ。

「ならせめてこれを連れて行ってくれ」

体の横に垂れている手に握らされたのは柔い何かだった。徐々に瞼が重くなっていき、呼吸の感覚が離れていく。黒く塗り潰された視界で響くのは彼女の穏やかな声。

「いつぞやの時の花冠だ。一つだけ隠し持っていた。今は行ってやれないが、いつか会うその時までこれを持って待っていてほしい」

あなたが求めてくれるなら蘭はいつでも待っていましょう。願わくば、すべてが始まったあの小さな庭で。