目を開けると息を詰めた顔をした男が覗き込んでいた。

「よかった!意識が戻ったんだね!」

泣きそうな眼差しでそう言った男は、見つめる私の肩を掻き抱いて、耳元で声を細く震わせた。

「あなたは……」

だれですか、と口にした言葉が彼の嗚咽を黙らせた。凍りついた空気を感じて困惑を隠せずにいると、背中に回した腕を垂らして体が静かに離れていく。射し込む陽光が室内の調度品の影を引き伸ばし、彼の顔貌に深く濃い影を落とす。茶色の髪の間から覗いた瞼を伏せ、そして一拍置いてから持ち上げる。

「俺は馬岱。―――きみの夫だよ」

笑ってみせた顔は明らかに痛みを堪えるものだったので、それっきり自分は何も言えなくなってしまった。



  長いこと月日が流れた。莟をつけていた梅の花はとっくに散り、庭を眺めるための窓には風除けとしての布を被せている。ひんやりと指先を凍らせる朝の気に起こされるようになった今、息をついて何気なしに室内へ視線を散らした。取り揃えられた調度品と体を気遣われて贈られた暖かな衣。かじかんだ指先をほぐすのはつい先日渡された手炉。―――悪い人ではない、と思う。記憶を失くした自分を、折に触れてはよく気遣ってくれる良い人とさえ思っている。目が覚めたあの時、彼は夫だと名乗った。今までの言動を推考するに間違いではないんだろう。好物まで覚えられているのを見れば、確かに夫婦のそれだと言える。慈しまれて悪い気はしない。だからこそ、と言うべきか。一向に記憶を取り戻す兆しが見えない現状に罪悪感を抱いていた。夫にまつわる事象すべてを失くした妻など、もはや他人同然。気持ちが離れても可笑しくないというのに、彼は嫌な顔することもなく真摯に向き合ってくれている。自分好みの家具を揃えられた房で考えることは、今となっては彼への恩返しのみだった。

「でも何もさせてくれないんだよねぇ」

僅かでも返礼を、と望む私に対して彼はただ一言。一緒に居てくれればそれでいい、それ以上は要らない、とだけ。食い下がる自分にそう何度も諭されては閉口せざるをえないだろう。見ようによっては返礼にならないかもと思い至ってからは何も言わなくなった。胸の端を焦がす小火はそれでも潰えない。背筋を何かで逆撫でされるかのようなざわつきは当初より和らいだものの、依然として健在だ。嘆息したところに扉を叩く音が重なった。

「ただいま」

「あ、馬岱さん!」

旦那様と呼ぶには些かの抵抗を感じると言う自分に、彼は好きに呼べばいいと許してくれている。人好きする笑みを浮かべて佇む彼へと駆け寄れば、手掌くらいの包みを懐から取り出して自分に差し出した。

「これは……?」

「土産だよ。美味しいと評判の店で買ったんだ、一緒に食べようか」

「やった!あ、じゃあお茶淹れて来ますね」

「うん、お願いね。俺きみのお茶好きだから楽しみだよ」

駆け足気味で房を出て厨房へ赴く。広すぎるとも狭すぎるともいえない、なんともいい塩梅の余裕を持った屋敷には自分と馬岱さんだけが暮らしている。朝や昼といった馬岱さんが家を留守にする間だけは下女が身の回りを世話してくれるが、夜になればそれは彼へと変わる。いくら何でもしすぎでは、と及び腰の私に「俺がやりたいんだよ」と引き下がらない。他人事の感覚は否めないが、良い旦那さんだと思う。早く思い出したい。思い出して、いっぱい恩返ししたい。ぽっかり空いた穴には、捨ててはならない思い出たちがいっぱいあったはずだろうから。使命感のようなものを胸にしかと抱き、慣れた廊下を急く。

「そういえば……」

彼が出仕していた昼の時分に、家の裏手で見事な花を見かけたと下女から聞いたのがふいに蘇った。その場所まで連れて行こうかと考えた結果、摘んだ方が早いと下女から聞いたおおよその場所へと足を向ける。馬岱さんからは、家の外はもちろん、できるだけ庭にも出ないでほしいと言われているため、敷地内というのに土地勘は乏しい。それでもそれなりの月日をここで過ごしているんだし、花摘みくらいは簡単なはず。

「えー、っと……。確かここを回って…………」

突き当たった角をぐるりと回り込み、出迎えられた茂みに分け入る。家の壁は目と鼻の先にあるんだからと自分に言い聞かせ、後ろめたい気持ちを振り切るようにして突き進む。夕暮れ特有の赤い日差しが木々の間から降り注ぎ、地面の上で黒い影が引き伸ばされている。鴉の声がさっと通り抜け、風によって衣の裾が持ち上げられる。どれほど進んだろう。何気なしに足を止めて周囲を見渡せば、見事に木に囲まれていた。

「―――うそ……。何処、ここ…………」

当初あった好奇的な潮騒は一気に引き下がり、指先は氷水に触れたかのように冷たい。迷ったという事実は尋常ではない身内の変化に反して容易く理解し、当初掲げた目標から一転して、どうやって帰ろうかとそれ一色に染まった。やばいやばい、どうしよう。どうやって帰ろう。ここほんとに何処。噴き出る汗が涼秋の風に撫でられ、体はますます熱を失っていく。日の入りは間近。木々が茂るこの場所で光源をなくせばどうなるか、そんなことは考えたくもない。戦慄く膝を奮い起こし、来た道を感覚のままに進む。大丈夫、きっと大丈夫。帰れるよ、だってそんなに歩いてないんだもん。帰れる。大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ。

「―――……いつになったら…………」

唇からこぼれた微かな独白に、歩いていた足がぴたりと止まる。

「じ、自分ったら何を……」

いつになったら?ちょっと奥まで来てしまっただけでなんでこんなに弱気になってるの、私。気を持ち直そうと自分に喝を入れるが、頬を打つ乾いた音は虚しく響いた。体の震えが止まらない。胸の端を焦がす恐怖が大きくなってくる。何故だか無性に怖いと感じた。怖い、怖い、そして悲しい。寂しい。知らぬ場所で異常事態に見舞われたからだと分析しても腑に落ちない。何かが頭の中で木霊する。何を言っているかはわからない。わかろうとして耳を傾けると頭痛に襲われた。両側のこめかみを圧迫されているかのような痛みは次第に強くなっていき、耐えきれずその場にうずくまった。

「痛い、いたい、いたい……っ」

涙が浮かぶほど。頭痛の原因も唐突の恐怖感もわからなくて困惑する。しかし事態は悪化していくばかりで、良くなる兆しなど見えない。がつん、とした衝撃が後頭部に走る。

「―――ま、まぁ……」

あいたい。会いたい。

「…………かぞくに……会いたいよっ……!」

真っ黒な瞼の裏にノイズが走る。テレビの砂嵐のようなノイズ。ざざざざ、と鼓膜を包んだそれの隙間から色が覗く。暖かな色。見慣れた色。唐突に聞こえた誰かの名前。それは紛れもなく私の名前だ。大好きな母がつけてくれた名前だ。そこに居るのは私の家族だ。あそここそ私が帰るべき場所なのだ。ああ、帰らなきゃ。みんな待ってるあの場所に。

「―――あーあ。次こそはと思ったのに」

声が降ってきたことを感知した刹那。抱えていた頭が物凄い速度で沈み、顔面はぬかるんだ地面にしたたかに打ち付けられた。声も出ない。抵抗なんてもっとできない。場にそぐわないほど弾んだ声。それが誰であるかなど見るまでもなく理解した。理解したと同時に薄れゆく意識の中で繰り返した。あの男は信用するな、馬岱という人間だけは決して味方ではない。次こそ、次こそは隙を見て逃げて、と。