―――目を開けた時。私は、いつもの場所に来れたと思った。目を閉じればいつでも来られるというわけでないからこそ、眼前を埋める風景に甚く喜んだ。勝手知ったる風情で走り出す脚を止めず、滑りゆく景色が止まったのは、草木を掻き分ける足音に気づいて振り返った彼を視認してから。

「陸遜!」

名前が口を突いて出る。年齢より幾分も若い顔はゆっくりと破顔する。眦が緩み、結ばれていた口唇が自分の名前を音にした。弾む鼓動は決して走ってきたからだけに起因しない。歓喜が込み上げるのは間違いなく彼に、彼だけに起因する。

「名前。あなたは少しも変わりませんね」

呆れるような、それでいて嬉しいような。こわばっていた肩の力を緩めるような。安堵とさえ形容できるその微笑みに堪らなくなる。今日はどんな話をしよう、陸遜の話が聞きたい、どんなことをして、どんなものを食べて、どんな人と会うのか。聞きたいことも知りたいことも山積みなのに、結局口から出るのは。

「だって陸遜と逢えたんだもの。どんな辛いことも吹き飛んでしまうわ!」

目を開ければ否が応でも舐めさせられる辛酸。絶え間なく注がれる悪意の石礫。彼が居る戦いばかりの時代ではないけれど、人の悪意に斬られることはやっぱりどの時代でも変わりない。それも目を開けていれば、の話。目を閉じてこうして彼と過ごす間は辛いことなんてない。嬉しさと楽しさと、少しだけ切ない。けれどどれも大切な感情で、大切な想い。忘れてきてしまった人の温かさを取り戻せる刹那の逢瀬。

「―――私と同じですね」

伸ばされた手のひらが頬に添えられる。頬を隠すように伸びる髪を優しく耳にかけ、柔和な眼差しを向けられ、嬉しさに胸が痛むと同時に一抹の疑念が沸いた。

「陸遜も辛いことがあるの?」

彼は身の上話を多く語らない。のべつ幕無しに私の話ばかり聞いて、求める言葉を先に口にして、甘やかで密やかなひとときを過ごす。そればかりであった彼が見せた僅かな気の緩みが、不謹慎にも嬉しく感じた。自分にもできることがあるんじゃないかと思えて。けれど何かを隠すような微笑みを湛え、頬に宛てがう手を静かに下ろした。満ちていた波がすっと引いていく。麗らかな日差しに温められた体から熱が抜けていく。伴って、胸が軋んだ。拒んだふうに見えた彼の反応に悲しくなる。落とした視線が拾うのは彼の手。顔に反してごつごつしていて大きく、男性的な手。何度この手に救われてきたことか。

「……私も、そっちに行けたらよかったのに」

体の側面に縫い付けていた手を剥がし、恐る恐る彼の手に触れる。細いだけで何も掴めない自分の指を彼のそれと絡め、隙間なく合わせる。指股からこぼれ落ちる無数の欠片。いずれも掬い上げることは叶わなくて、いつも手放してばかりだった。いつしか何かに触れることさえ、何かを抱えることさえやめてしまったというのに。この手は在りし日のように大切な欠片を見つけて、それに触れて、それを抱えてしまった。嬉しいと同時に恐ろしくて、恐ろしいと同時に嬉しくて。今度こそこぼすまいと握り締めて。抱きしめているのか、縋り付いているのか。判然としなくてもいいから傍に居てほしいとただそれだけを願って。けれども、あの頃と少しも変わっていなかったのだ。この手には何も掬えやしないのだと。

「………………あなたは」

顔が動く。何かに上げられたわけでなく、意識的に上げたわけでもなく。強いて言えば、耳に響いた堪えるような痛い声に釣られた。通り抜けた柔らかい風に煽られ、彼の髪色を溶かした瞳が細められる。花の香りが鼻先を掠めた。

「……また逢えた時。―――私と共に来てくれませんか?」

まるで呼吸を知ったばかりとでもいうような。視界が改めて色を帯びる。暗く沈んでいた鼓動の躍動をはっきりと感じた。溢れんばかりの感情が激しく身内を駆け回り、目の奥が激しい熱を持つ。決壊した一端が頬に滑り落ちる。私はただ頷くことしかできなかった。