納采には基本、社会的な地位を周知させるための金銀財宝や豪華な衣裳を、あるいは生活に余裕があるという意味を持つ多くの食糧などを贈るとされている。しかし、彼だけは違った。ある時、そこはかとなく自分を売り込んだであろう父に伴って、私に一つ訊ねた。

「俺は間怠い言い方は好かん。ゆえに単刀直入に聞く。―――俺の妻となるからには相応の覚悟ができるか」

午睡を誘うような昼中であるにも関わらず、歓談に満ちていた房は途端音をなくし、空気は冷たく張り詰めるものへと変えた。顔色を無くす父母はきっと視界に入っているであろうに、この事態を招いた本人はといえば、微塵も様子を変えず、冷静に私を見下ろしていた。榻に座るその姿勢と真っ直ぐな視線は彼という人間を言外に、しかし雄弁に語る。教えに則れば、彼の行いは非常に無礼で無作法で無知としか言いようがない。しかし、それはきっと私にも当てはまること。

「こちらも単刀直入に言いましょう。―――できますわ」

それだけで充分だ。気取った物言いも畏まった振る舞いも彼には邪道。誠意には誠意を、覚悟には覚悟を。顔半分を隠していた翳を下ろし、厳然と言い放つ。奢侈に富んだ物の代わりに、彼の固い覚悟とこの先起こるであろう数多の苦難を貰い受けた。



―――そして幾年が過ぎた。夫が衷心を捧げる曹孟徳様は、今や献帝直々に信頼を寄せられ、魏王に封じられた。それに伴って夫の仕事幅は大きく広がり、戦場を駆け回っていたあの頃と違って城を任されるまでに至った。突き放すような物言いと厳しい振る舞い、そして世辞にも温和とは言えない形相で余人の不興を買ってしまわないかと一時は危惧したものの、今ではそれも杞憂だったと片付けられるくらいには部下と良好な関係が築かれている。そんな中、私たちの関係はといえば、表向きはそんなに変化はなかった。孟徳様のためと公言するだけあって彼の日々は主に連れ添うだけで消えていき、帰邸するなど指折り数えて幾つか程度。丸一日過ごすなど更に少なく、必然交わす言葉数も多くない。夫の行動より侍女の縁戚関係の方が詳しい、とまで断言できるほどだ。だがそれも少しずつ、変貌を覗かせつつある。

「―――帰った」

「おかえりなさい、あなた」

馬に跨ったままの彼の背中には太陽が顔を覗かせており、目に痛いほどの鋭い陽光が体の縁よりこぼれ落ち、見上げるほどの長躯は黒く滲む。鐙から足を抜いて地面に降り立つと、それまで隠されて見えなかった鎧の実態が克明に照らし出される。

「また新しいのを造らせなければなりませんね」

「ああ、頼む」

「お身体はよろしいので?」

「問題ない」

「まさかあなたの言葉を信じろと?」

「…………軍医の言葉だ」

「それなら大丈夫ですわね」

「お前な」

「あら。私を責めるおつもりですか?以前、同じことをおっしゃってその実傷だらけで、しかも片目でご帰宅なさったのは誰か、申しましょうか」

「……口数が減らない女だ」

「お褒めに与り光栄ですわ」

慣れた様子で受け流し、房へと向かう彼の背中を追う。夫婦二人にと設けられた居室には松香がうっすら漂っていて、通り抜けた風によってその匂いがいっそう際立つ。彼は強い香をあまり好まないため、松や蘭といった比較的薄めな物を焚いている。そして几には茶杯が二つ置かれていた。守衛から夫の帰邸を知らされた際、侍女に用意しておくよう頼んだのだ。

「食事はされていきますか」

「いや、いい。すぐに発つ」

「左様ですか」

彼の言うすぐとはほんとうにすぐだと経験から学んだので、包子でも持たせようかとの一考を拭った。

「―――おい」

「はい?」

考え事から顔を上げると、何やら怪訝そうな色を浮かべた夫がこちらを見ていた。眉間に皺を拵える様は、重厚な鎧も相俟って恐ろしげに映る。少しは肩の力を緩めればよろしいものを。吐き出しても変わらなかった思いは胸中で昇華させた。

「最近どうだ」

「ええ、変わりありませんよ。ああ、一つ朗報が。従妹に待望の男児が産まれました。そこで長命鎖ちょうめいさを贈ろうと思うのですが、いかがでしょう」

「任せる」

「かしこまりました。それと先達って侍女が一人、郷へ戻りましたの。生活が窮するわけではないのだけれど、私、あまり手縫い事が得意ではないから新しく迎え入れたいわ。いいかしら?」

「構わん。好きにしろ」

感情の機微に殊更聡いわけでもない彼に代わり、そういった仔細は一切をこちらが担っている。丸投げとも受け取れるが。

「もう出られるのでしょう。今、馬の準備を―――」

「それはいい」

異を唱える声が何やら剣呑を孕んでいるように聞こえたので、動きを止めて彼をまじまじと見つめる。榻に腰かけてこちらを見る顔には不満が読み取れた。あるいは「それではない」と言いたいのか。

「なんでしょう」

「最近、町へ出たと聞いた」

「ええ。新しい布を調達しに」

暑くなってきましたから、と最後に加えるとこれみよがしに大きく溜息を吐かれた。その様子からは呆れがありありと見え、何故真っ当な行動理由にそのような反応を返されるのかと唇の端が自ずと下がる。

「連れ立ったのは一人だけとも聞いたが」

「侍女を含め、正しくは三人ですわ」

「変わらんだろう。何度言えば聞くんだ、お前は。孟徳が治めているとはいえ、外はまだ危険が多く潜んでいる。出る際は護衛を増やせと言っているだろう」

始まった。たまの帰邸、その大半はこうした小言に潰える。やれ外を出歩くなだの、やれ危ないことをするなだの、やれああしろだこうしろだの。余人は彼を寡黙で恐ろしい武人だと評するが、とんでもない。自分から見れば躾に厳しい母そのものだ。

「おい。溜息を吐きたいのは俺の方だ」

こうして息を吐いてしまうほどに、全く以て鬱屈とさせる。礼儀作法に厳しい分には構わない。直接私に聞かず守衛に見張らせるのも、まあいいだろう。だが影から覗いて満足するでなく、さながら木偶を作り上げんと己の言い分を押し付けてくるのは頂けない。だいたい嫁する折に「夫としての役目は果たすが、男女の色事などは期待するな」と大口叩いたのが誰か忘れているのだろうか。

「あなたって」

「……何だ」

黙っていた口を開け、一言発する。それまで続いていた不満がぴたりと止まり、不機嫌を惜しまない鋭い眼光がこちらに向けられる。威圧する風体を有しながら、その奥にこうやってこちらの反応を恐る恐る窺う一面を持っているのは、なんとも変な気持ちにさせられる。

「口うるさい守役のようだわ」

「俺は言うことを聞かん悍馬かんばを相手している気分だ」

「精誠尽くす妻を馬呼ばわりですか。少しはご自分の主君を見習ってみては?」

「甘言に酣酔する奴でもないだろう、お前は」

ろくろく帰って来ない割に、自分をよく知っているのが殊更腹立たしく思えた。子供じみていると理解しながらも、意地を見せつけるように顔を背ければ、鼓膜を揺らしたのは再びの深い溜息だった。次いでがたりと榻が音を立てる。釣られて首を回せば、腕を僅かに動かせば袖が交わるほどの距離に彼が佇んでいた。

「あなた?」

不思議に思って呼べば、じっと見下ろしていた彼から衣擦れが聞こえた。

「あ……」

持ち上がる自分の腕。するりと肌触りの良い袖が滑り落ちて、彼の手のひらに掴まれた己の手首が露わになる。武人然としたもう片方の角張った指が私の手の甲を撫でた。戦場の評価など露も重ならないほど、優しい手つきだ。ざらりとした指の腹が止まる。手の甲に落とす彼の視線を追えば、そこには先日できてしまった薄い線があった。

「世話をかけさせるな」

不意に落とされた低い声。傷跡を撫でる指も、見つめる眼差しにも、その声にも。誰が彼を恐れられようか。今、自分の前に立っているのは、豪傑な武人でも小うるさい守役でもない。妻を案ずる不器用な一人の男だ。表向きは誰の目にも長いこと変わらずに映っているだろう。夫婦となった当初から「形だけの夫婦」だと、誰あろう父さえ思っているのだ。だが、紛れもなく変わっているのだ。己の職掌にのみ傾倒し、こなせばいいだろうと考えていた自分が彼を案じるように、彼もまた多忙の寸暇を私に割いてくれるようになった。

「気をつけます」

その時、彼の肩が緩んだのがわかった。彼は自分自身にも主君にも誰にも決して阿らないし、偽らない。時に呆れることもあるし腹立たしく思うこともあるけれど、心配する気持ちもまた真実なんだと知ってしまえば、絆されてしまうのも無理からぬこと。ふと、鎧が脳裏を掠める。腕の立つ刀匠に頼まなくては。この人が無事に帰ってこられるように。