容姿への描写あり。途中で視点が変わります
降り注ぐ陽光が一面に張られた水面を滑り、廂から降りた際に飛び込んだのは目を刺すような白さだった。数回の瞬きの後、広がるのは鮮やかな色たちと心が洗われるほどに咲き誇る花たち。芳醇な香りが鼻を通って胸中を満たし、風光明媚な園林に設けられた橋を渡った先の水亭には、知った顔が縁に腰掛けて遠くを眺めていた。
「―――星彩が探していたぞ」
また鍛錬を放ったのか、と投げる。錦繍の衣を羽織った短躯が、最小限の動作でこちらを捉える。冕冠の珠が互いにぶつかって小気味よい音を立てる。被さるようにして池の鯉が飛沫を上げた。午睡を誘うほどに柔和な雰囲気を湛えた目は、悪戯が失敗した子供のように細められた。
「姐上のようにはなれませんので。私にはこうして園林を眺める方が合うのです」
「確かに。ここは人が来なくて肩を張る必要もないな」
「大変ですね」
「何を他人事のように。お前のことだぞ、禅」
髪色と同じ黒い双眸が、予想外だというふうに丸められる。
「はて。私には人に見せられるような威厳などはありませんよ。姐上もご存知でしょう」
「お前はまた……」
己の心中を決して是とも非とも言わせぬ笑みに、言葉を飲み込んで肩を竦めた。我が弟ながら、ほんとうに真意がわかりかねる時があり、手を焼かされる。姜維ほどとは求めないが、少しはあれくらいの素直さはあってもよいものだと思う時がある。
「姐上―――」
ふいに呼ばれ、視線を上げる。鯉がのびのびと泳ぐ池や、目が覚めるような色をまとう花たちへと向けられた横顔が視界に入り、なんとなく口を噤んだ。
「まったく。皇帝は何をお考えなのだ」
しかし被さったのは太い声で非難する男の言葉だった。
「朝議に顔出すくせして何も言わぬ。お考えを求めようものなら返ってくるのは、的外れ甚だしい問いかけかわからないというものばかり。何故、昭烈帝からあのような暗愚がお生まれになるのか。父君はああもご立派だったというのに」
「我ら官僚が何を言っても束ねる方がああでは、いくら献策しようと聞き入れてはもらえぬであろうな。聞いたか? とある官人を退任させるのにまた黄皓の意見を採ったらしいぞ」
「卑しき宦官などの意見を採るなんて。我らの再三の忠告は徒労だというのか」
「蜀は一体どうなってしまうのだろう……」
声のする方へ顔を向ければ知った顔の男が二人。茂みに隠されてこちらには気づいていないふうで、男たちの心情の吐露は止まらない。憂いを湛えた顔で首を振り、そうして去って行った。雑音が消え、葉擦れや風の音が戻ってくる。ふぅ、と息を吐いたのは私だった。
「お前がここに来る理由がよくわかる」
官吏共が彼をどう思っているのかは一目瞭然。面だけ取り繕う奴も居るが、真っ向から嫌悪をぶつける奴もおり、今では後者の割合が多い。反対に皇帝の特権に肖りたい宦官共は禅に良い顔しか見せず、獣心たる一面は彼の見えないところで表す。宮中は混沌として白も黒も混ざり合っている。
「仁とはつくづく儘ならないものですね……。父上は偉大だ」
その言葉が純粋な褒め言葉でないことはすぐわかった。偉大と言いつつ、託された物への嫌気が横顔に影を落とす。気づけば言葉が口から滑り落ちていた。
「お前には私がついているんだ、他人に背負わされた責など姐上が貰おう。その上でずっと傍に居る。だから案ずるな」
血を嫌い、死を忌む彼に代わって槍を手にした。傷つくのも恨まれるのも自分だけでいい。私だけでいいのだ。本来なら皇帝といった分不相応な身分などなく、市井の片隅で花を慈しむような人間なのだ。それを、血筋が彼の意思を問わずに変えてしまった。痛みに怯えて泣いていた彼を、これ以上苦しめたくない。今は亡き父上に「禅を守ってやってくれ」と頼まれた使命は今や我が本望にさえなった。そのためならば死することすら迷わないが、それでは彼はこの箱庭でたった独りで泣かせてしまうことになる。落涙を拭ってやる温かな手を失わせては、きっと泣くことすらもやめてしまうだろう。それはあまりに無情だ。
「お前を独りになどさせないさ」
肩を抱き寄せれば、胸元に頭が傾けられた。
「―――姐上は花は好きですか?」
「花? 何だ急に」
「私は好きです。物言わず美しく咲き、見る者を癒す。姐上、何故人は口で愛を謳いながら殺しに走るのでしょう。愛する者を守るために、何故他者を殺めるのでしょう。国というものは、それほど大切なものなんでしょうか」
その問いかけに返してやる言葉を持っていないことを、初めて悔やんだ。自分は別に国の為に槍を振るっているわけではない。父上の仁など掠りもしない。生まれながらに玉座に括り付けられてしまったたった一人の弟を守るために過ぎない。だから彼が生きることが約されるのであれば、他者を手にかけることに躊躇いはない。
「難しいな。何故なら私もその類の人間だからだ。口先で守れるものなど己の見栄以外にない。結局、血腥いこと以外ではお前を守れない」
宮中一つ取ってしてもこれほど生きにくい。騙し騙され、信頼を約した者は明日には敵へと転じている。ろくろく食事も取れず、寝付くこともできない。そんな状態でも臣下はみな皇帝に絶対的な庇護と、物事を正しく見抜く慧眼と、国民だけに向けられた慈愛を求める。その逆はないのに。それを痛いほど見てきた。だから対人関係を忌む彼の気持ちに一定の共感はできるが、だからといって武器を下ろして失望と無関心は買えない。それは敵にとって隙という名の香餌でしかないから。
「そんな姐上を、お前は軽蔑するか?」
たとえ軽蔑されても父上のように厭まれても構わない。後戻りする道は己の手で潰した。けれど彼はゆるりと首を横に振り、否を表した。優しい奴だと胸をくすぐられ、口唇の端が緩む。
「姐上は優しい方だ。不出来な弟を昔から慈しんでくれます。何も返してやれない己が不甲斐なく思うほどに」
「そんなことお前が気にすることでは」
「ふと考える時があります。父上のような仁心も、姐上のような智勇も持たぬ不肖の身、あの白牡丹に変えることが叶えば、戦で傷つく姐上を幾許かでも慰めることができるのではないか、と」
「禅……」
「私は皇帝に到底相応しくない器だ。国よりも誰よりも、あなただけを想うのだから」
耳に届いた音は切なさを含んで聞こえた。水面に落とす視線は憂いも悲しさも持っていて、水面が跳ね返した陽光が彼の黒い瞳に細かな輝きを与え、落涙したのかとさえ錯覚した。禅がこんなふうに考えていたなど初めて知った。乳母の手に抱かれた彼を覚えている。その頃から慈しみ、二人で育ち、彼のことは誰よりも熟知している自負があった。だがそれは自分の過大評価だったらしい。
「禅、私の大切な弟。お前はお前のままで在ればいいんだ。物言わぬ花など要らん。皇帝に相応しくなくていい。姐の名を呼び、姐に笑いかけてくれるお前がいいんだ」
日に晒されて尚白く映る頬へ手を添える。熱を帯びてうっすら汗を浮かばせる肌は手のひらに吸い付き、彼の温度を如実に感じ取った。諦観を秘めた黒い双眸が静かに私を見上げている。嗚呼、やはり駄目だ。花などにさせてはならぬ。人に蹂躙されるだけの儚い花などに変えさせては、彼は誰とも知れぬ輩に拐かされてしまう。私が守らねば。私が慈しまねば。幾多もの兇手から、この柔い命を守り、隠さねば。
「そうだ、お前は花が好きだと言ったな。それなら私はこの白牡丹を贈ろう。何処へ行っても必ず花を携えてお前の下に戻り、たわいない話をしよう。なんでもいい、その日あったことや見たこと感じたこと、つぶさに姐上に聞かせてくれ。そしてそのひとときは他のことは考えなくていい」
それを聞いた禅の瞳が僅かに小さくなった気がした。彼はこんなにも優しさで溢れているのに、それをわざわざ傷つけることはない。誰に謗られようと、誰に後ろ指をさされようと、彼には私がいる。それを知ってほしかった。姐はいつ、いかなる時でもお前の下へ帰ると約すから。眼下でひっそりと輝く白牡丹で部屋を埋め、安穏と微笑む掌大の世界を守ってやるから。
「姐上」
黒い双眸がゆっくりと細められる。こぼれるように静かに微笑む彼は小さく首肯し、頬に添えた私の手に己の手を重ねる。
「阿斗はずっとあなたの帰りを待っています」
胸中がみるみる温かくなっていき、気づけばほっそりした体躯を腕の中に閉じ込めていた。ああ、帰ろうとも。どんな姿になっても、お前の下へ。囁くように話すお前の言葉を聞くために。くすぐるように触れるお前の指に触れるために。ふいに風が通り抜け、牡丹が池へ落ちた。間もなくして影が浮上し、白い花びらは呆気なく水中へ引きずり込まれていった。
―――鼓膜を叩く轟音。土煙が視界を染める中で響き渡る馬の嘶きと人の怒号と剣戟。胸の奥底に閉じ込めた安穏な世界から強引に呼び戻され、全身は悲鳴をあげた。地響き立てて駆け回る馬を止める声もなければ、穂先を突き立てて上半身を起こす膂力もない。こうして胸が浮沈する都度、激しい痛みに穿かれて呼吸も億劫になる。せっかく安らかな思い出に耽っていたというのに。しかし、こうして息を吹き返したことで手放し難い罪悪感が胸を衝く。揃いの黒髪と黒目。体と立場は違えど、同じ血を分けて生まれてきた私たち。この世界で唯一お互いだけが理解者となりえる存在。だというのに私は彼を置いて行かなければならない。約束したのに。いかな敵も困難も払い除け、彼に添うと。悲しく苦しい世界で彼を独りにさせてしまうなんて。帰りたい、彼の下へ。触れたい、彼の熱に。そして華奢な体躯を閉じ込めてしまいたい。目のふちから溢れ出した熱いものが頬を滑り顔を汚す。こんなにも想っているのに、もう会えない。堪らなく苦しく、辛く、それはさながら熱した水を強引に流し込まれているかのよう。私の可愛い禅、どうか、どうか無事でいてくれ。どんな兇手にも晒されぬよう宮の奥で隠れていろ。そして待っていてくれ。姐上が必ずお前の下へ帰るから。
「禅―――」
あの日交わした約束を、姐上は反故になどせん。何があっても、たとえ人ならざる者へ堕ちたとしても、お前の下へ帰ろう。美しい白牡丹を携えて。
―――ある日の夜。おすすめの茶葉を携えて劉禅様の部屋を訪っていた。建前はただのお茶に過ぎないが、自身の狙いは別にあった。顔が広い父は私に彼に近づけと命じた。それ即ち寵愛を受けろとの意。いくら暗愚と呼ばれている彼でも、立場は皇帝。その恩恵は絶大なもので、ともすれば個人の好悪など天秤に乗るはずもなかった。そなたが淹れる茶は美味しい、と笑う彼ににっこり微笑み返す。やっと部屋に訪うことができたのだ、振り出しに戻るわけにはいかない。次に繋げるものはないかと部屋に視線を散らした時、夜風に煽られて花弁が散る白牡丹に止まった。茶杯を傾ける劉禅様に訊ねてみる。
「劉禅様は牡丹がお好きなのですか?」
茶杯から目が上げられ、窓辺にある皿へ視線を移された。水を並々と張った皿には白牡丹が揺蕩っている。窓の天井から顔を覗かせる月が光を落とし、花は妖しく輝く。何故だか背筋に冷たいものが下りた。
「ああ。花の中で一番好きだ」
「わたくしも牡丹が好きなのです」
「そうか。それは気が合うなぁ」
「わたくしの家は色とりどりの牡丹が咲いておりますの。劉禅様のお庭には敵いませんが、一度ご覧くださりませ」
「おぉ、それは良い誘いだ。そこでそなたの淹れる茶があれば、きっと楽しめるであろう」
「待ち遠しいですわ」
そこでふと茶色いものに気づいた。水を湛え皿には白い花弁以外に茶色い花弁が疎らにあり、それは絞った布のように萎びて浮かんでいた。榻を離れ、それを一枚摘む。
「女官たちは何をしておいででしょうか。今すぐ片さなければ」
「―――それはそのままでいいのだ」
柔らかな声が制止をかける。えっ、と驚きながら振り向くと彼がつかつかとこちらに歩み寄る。手元に浮かぶ花たちを見下ろし、指が掬ったのは悠然と咲き誇る白い牡丹ではなく、今にも屑となりそうな茶色く変色した牡丹の花弁だった。
「これは大切な人から貰った花。たとえ枯れても手放すつもりはない」
微笑ましく見つめる横顔に、それは誰なのかと訊ねる。
「姐上だ」
「大小姐が遺していかれたのですね……。なんと弟想いな」
「それは違うぞ」
「え?」
「三日前に貰ったのだ」
なんてことないふうに返され、背筋が凍る。彼の大小姐は半年以上前に戦死しているのだから。恐怖にこわばる口唇を笑みの形に歪め、平然を装う。
「劉禅様もご冗談をおっしゃられることがあるのですね」
「冗談ではない」
にこにこと微笑んだままの彼が不気味に覚え、恐怖が足元より登ってくる。もはや笑みを象る余裕さえなくなり、思考の糸がはち切れる。固まってしまった自分のことなど蚊帳の外といわんばかりに、彼は掬い上げた牡丹を見つめている。情人かのような眼差しで。その時だった。一陣の夜風がさっと入り、その冷たさに身を震わす。窓の向こうに広がる園林に目を向けた刹那、息が喉を擦り、鼓動が大きく乱れた。
「―――ひっ」
さらさらと音を立てる園林に生植された柳の足元に人影が一つ。濃紺の夜空で皓々と光る月に薄雲がかかり、陰る。それでもその人影を視認することができたのは、その者が小さな提灯を提げていたからだ。見たくもないものが嫌でも視界にこびりついて、しかも全身がすっかり恐怖に固められてしまったから背くこともできない。さささ、と草木が夜風に揺れて音を立てる都度に心臓が跳ね上がる。それは鎧をまとっているにも関わらず音を立てず、滑るかのようにして影を引きずってやってくる。徐々に縮まる距離。躍動は加速を増し、息が上がる。それでもそれは止まる気配を見せず、とうとう窓辺へ辿り着いてしまった。それを一言で表すならば、おぞましいに尽きる。片腕は欠け、顔の半分は放置した殴打の痕のように変色し、顔の片側は頬から耳にかけて鋭く深く抉られていて、とても正視するに耐えられなかった。それでも凝視すれば鎧の合間から垣間見える丘陵な線を見るに、正体不明のこれは女だと理解する。提灯から微かに良い香りが漂い、一瞥すると提灯はこぼれるほどの白牡丹に飾られていた。硬直した自分の耳を、衣擦れが掠める。同時に高いところにある目が横へ動く。
「ああ、姐上。今日も来てくださいましたか。待っていましたよ」
どくり、と心臓が嫌に大きく跳ねる。今、なんと言ったか。眼前に立つおよそ人間とは思えない異形を、彼は姐と形容したのか。これがあの名前様だと?顔こそ知らぬが、その勇名は商家に過ぎない私の耳にまで届いている。怖いと思った。人からかけ離れた姿をした眼前の生き物が、それを姐と呼ばい、情人のごとき眼差しで微笑む彼が。二人から醸し出される不気味で濃密な空気に、腹の中がざわめいて何かが喉元に上がってくる。耐えられない、無理だ、怖い。ここに居たくない。逃げ出したい。崩れそうになる脚が意思を汲んだのか、僅かに一歩後退った。その音で彼がこちらを見遣る。
「私の姐上だ。今日もまた花を持ってきてくれたのだ」
「花……?」
首肯すると同時に窓の向こうに立つ異形が腕を上げる。部屋に入ってきた腕の先には提灯が提げられており、灯りを受けて淡く照る白牡丹が一輪、水を湛えた皿へ落ちた。
「ぁ……」
「姐上、彼女の淹れる茶は格別に美味い。飲まれますか?」
彼へ向けられていた目がこちらを捉える。赤く充血した目。これが何を考え、何を思っているかなど到底読み取れるはずもなく、微動だにしないまま見つめられることがこの上なく息苦しく感じた。ふと体が軽くなる。浮遊感というのだろうか。あれほど苦しかった胸も喉も楽になり、息がしやすい。頭の中の緊縛が解けたことにより、体が動いた。ゆっくりと傾く視界。したたかに打ち付けられた床が頬に張り付き、夜風で冷えた床の感触がしかと伝わる。遠のいていく意識の中で最後に見たのは、姐上と言った異形が彼の頬に手を宛てがい、それに自身の手を重ねて穏やかに目を細める彼の姿だった。暗愚と周囲の嘲笑を買う彼に初めて底知れぬ恐怖を覚えた。
ふたりだけの白昼獄
出 典:怪談牡丹燈籠
テーマ:花/救済様に提出