―――初めて見た時、本来ならば知らぬ顔をして通り過ぎるつもりだった。非道と知りつつも、大局を選ばざるを得ない状況なんだと自分に言い聞かせていた。相手はあの董卓。しかも奴の配下には、人中有呂布と謳われるかの武将が居る。僅かな隙も命取りとなる。ゆえに仕方ないことなんだと、目を逸らそうとした。しかしできなかった。乱暴な手がささやかに咲く小花をちぎろうとする刹那、その花は細く泣いた。その泣き声はあまりにも哀れに響いてしまったので、気づいた時には男と女との間に割って入ってしまっていた。一瞥すると女は両目がゆらゆらと揺らいでおり、驚きに見開かれた目からぽつりと一粒頬に落ちた。時が止まったかのようなその空間をどうにかして切り抜け、呆然と崩れ落ちている彼女の手を掴んで人気のない水亭にまでやってきて、そこでようやく彼女が声を発した。夜の静謐な空気によく通る声で、自分の名前を呼んだのだ。何故自分の名前を、との衝撃は遅れてやってきた。きっとあの時だろう。彼女が自分の名前を口にし、感謝を述べるあの一瞬で、自分の心は彼女に止まってしまったのだ。
「―――俺の道は生死不明の戦場へと続いています。ですのでこの先、あなたを巻き込むことなく歩むためには、ここで別れを告げねばなりません」
一言、一言を紡ぐ都度、刺されたように胸が痛む。愛しい人との決別とはかくも残酷で、悲痛なことなのか。病を得たこの身を顧みるたびに彼女への想いも募らせていく。意識して彼女を想うのか、彼女を想うから意識するのか。今となっては渾然一体となって自分でもわからない。それでも眼前の柔らかな花を散らさないためには、今ここで別れねばならないことだけは、はっきりと言える。董卓の目を掻い潜りながら逢瀬を重ね、別れた夜、幾度と考えた。董卓暗殺を遂行した後、彼女を連れて遠く僻地へ逃げる算段を。しかしいずれも妙案とは至らず、彼女に向ける比重が大きくなるたびに危機感のようなものも増していった。今は混迷を極めている。誰もが貧困に喘ぎ、安穏を希求している。自分が家を出たのは、その大望を叶えるに足る大器に献策するため。それは必然、彼女の別れを意味する。
「あなたは俺には勿体無いと思うほどの方。この先でも幸せになれます」
しかし彼女は首を横に振ってみせた。何度も何度も振り、抱き着く様に苦しくなる。嫌だと口にする声は思い詰めるように震えていた。おそらく彼女も理解しているのだ。己の本来の目的を知らずとも、互いの関係に先はないことを。草木の一つ一つに目を遣る純真さを持っていながら、彼女は時折人の機微に聡い一面を見せた。そんな彼女も己と同じく、逢瀬の都度に同じ痛みに喘いでいたのだろう。ここに来てそれを推し量り、遣る瀬無い思いに駆られる。
「いや、いやです。置いていかないで、公達様。わたしにはあなたしかおりません」
じんわりと腹部が湿っていく。細い指が背中の衣に爪を立てる。頼りなく跳ねる肩と声の調子が、己の根幹さえも強く揺さぶった。吐き出してはならない熱いものが込み上げてくる。ぐっと拳を握って、それを堪えた。
「俺はすべてを終えた後、東へ行くつもりです。そこで仕えるに足る主を見つけ、荒みきった時代を変える輔けをします。あなたが無事に暮らすためにも」
「そんな……」
「たとえ過ごした時が僅かであったとしても、俺の気持ちは千里同風のごとくこの先も変わりません。…………どうか、この温もりだけを心に留めていてください」
もうそれ以上は何も言わないでほしいと気持ちを込め、細い肩を抱きしめた。力を入れすぎている自覚はある。けれど彼女は何も言わなかった。流していた涙も止め、更に強く強く、自分の背中に爪を食い込ませた。その痛みすら愛おしく感じ、胸が切なく軋む。もし、などと考えることがある。もし彼女と出逢ったのがもっと先であれば、そしたら俺は―――。そこまで考えが広がり、瞬時に切った。