―――幼い頃から我が実弟は優秀だった。詩作においても、礼儀作法においても、そして自分の感情を押し殺すことにおいても。優しげな微笑みにすべてを隠して、努めて穏やかに振る舞う。七つくらいの頃だったと記憶している。またしても父が開いた酒宴には大勢の氏族が密集していて、弟の優秀ぶりを肴にする。赤ら顔で酒気をまとって声高に感嘆する様相に呆れていると、盛り上がりの中心だった小さな姿がなくなっていることに目が止まった。厨房の手伝いでもしているのかと廊下へ出て一人歩いていると、かたりと小さな音を耳が拾う。時刻は夜で辺りに人影はない。とくれば肩がこわばるのも必至だが、それを押し殺して怖々と一歩、また一歩その音へ歩み寄ると、物陰に潜んでいた弟を見つけた。途端、肩が緩んで声をかける。曰く「ずっとお腹が痛かったのだが、とうとう耐えきれず抜け出した」とのこと。父や伯叔は当然ながら自分も気づかなかった。そしてその夜以降、自分の注意はとかく彼へ向けられるようになった。
「―――また供も付けず、おひとりで市井へ出向かれたと聞きました」
記憶にあった小さな姿は見上げるまでになり、腹痛に顔を歪める彼をあやすどころか、自分の行動を哥哥然と窘めるほど。すらりと伸びた長躯には程よく筋肉がつき、成長と共に蓄えられた知識の功績で、彼の主君にかの張良の字名で呼ばわれている。親戚だけでなく姐である私自身も鼻が高い弟だ。だが、幼少期の生真面目さは緩むことを知らなかったらしい。ほう、と吐いた息を見逃さず、切れ長の目はさらに剣呑を増して細められた。
「有事があってからでは遅いのですよ。それを知っているのですか、姐上は」
「わかってるわかってる。大丈夫だってば」
「いいえ。今日こそは下がりません。鍛錬を積んでいるとはいえ、姐上は女性の身。乱世が続く時勢なのですから、行き先を私か父に言い置いてから行かれてください。供も最低二人は付けるよう―――」
「あーもう!!」
耐えに耐えて糸が切れた。声を張り上げて榻より立ち上がると、滔々と流れていた言葉の水がぷつりと止んだ。
「何度も!何度も何度も言いますけどね!私が何処其処行きたいと言っても、文若もお父様も聞き入れてくださらないでしょうが!」
「行く先によります」
「聞き飽きたわ、それ。そんなんだから抜け出したくなるのよ」
睨んでも彼が引き下がる様子はなく、目線で窘められて居心地の悪さが倍増する。この顰めっ面を見る度に昔が恋しくなる。うんと小さかった彼は、口の代わりに目が心情を語っていた。まるまると大きな瞳は私の動きをつぶさに追いかけ、離れようものなら着いていきたいといわんばかりに不安定に揺れる。ああ、今思い出しても可愛らしい。あの頃の文若が戻ってくればいいのに。
「父より言伝です」
「聞きたくない」
「今日から見張りを増やす、とのことです」
「はあ!?」
「ご自分が招いたことですよ。反省なさってください」
「…………あなたの入れ知恵ね、文若」
「なんとでも」
ほんっっとに可愛くない方向に成長したものだ。涼しい顔で睨みを往なす彼へ更に憎しみを強くさせながら、やむなしと父の仕置を受け入れた。
―――ある日のこと。自分しか知らない抜け道を通って居室に戻ったと同時に扉が叩かれた。次いで通り抜けた声は文若のだった。入室を促せば、折り目正しく断りを入れてから扉の合わせから顔を覗かせる。背中から入る白い陽光が彼の肌をいっそう照らし、深く沈んだ双眸が透き通って輝いた。長い睫毛が幾度か上下するのを何気なしに眺めていると、瞬きの律動が崩れて瞳が揺れた。
「あの、私の顔に何かついていますか?」
「ん?ああ。いーえ、なにも。ただ今日も私の弟は麗しいなーと見惚れていたとこ」
「美辞を並べても用向きは変えませんよ」
戸惑いは何処か、完全に失敗を隠す子を窘める親の顔つきになっている。こうなった文若はとにかく執拗い。なんで知られたんだろう。使った道も一人になる際の理由だって細心の注意を払ったのに。顧みても原因が思い当たらない。それともなにか、彼には千里先を見通す眼でも備わっているというのか。花顔には到底似合わないから今すぐにでも仙人に返してきてほしい。
「聞いているのですか、姐上」
「はいはい。聞いてますよ。あ、文若いまお腹空いてる?侍女に言って何かこさえてもらいましょうか」
「要りません。先程いただきましたから」
「そうなの?誘ってくれればよかったのに」
「居ない相手をどう誘えと?」
「いやね文若。姐上はちゃーんと家の中で大人しくしてましたわ。なにせ、何処かの誰かがお父様に要らぬ知恵を授けたせいでろくろく動けませんもの」
「そうですか。……余談になりますが、最近腕の良い玉工と話す機会がありました」
「へえ。いいじゃない」
「ええ。なんでも彼は鳳雛しか彫らないとか」
「それは何故?」
「自身の手で完成させたくない、とのことです」
「ええと……。要は、これから起こるであろう様々なこと、それで得られる成長などを現段階で決めたくない、ってことかしら」
「流石姐上ですね」
「私だって勉強してますもの」
「しかし、それだけではありません」
「え?」
「流通不明ですが、彼はある石を好んで使うそうです」
よく伸びた片方の前髪が動作に揺れて音を立てる。かつん、かつん、と沓音が響いて文若は近づいてきた。高いところから注がれる視線はただ一点へ集中する。口を結って見下ろしている彼が不思議だったが、その目が何を捉えているのかに気づくと手が勝手に動いた。片耳を抑えて勢いよく後退した私に、彼は息を漏らす。
「何故あなたはいつもそう危険な橋ばかり渡るのです、姐上」
「危険じゃないわ。ちゃんと人の紹介で行きました」
「どなたですか」
「…………さ、酒屋の主人……」
「姐上」
顔色も声色も変わったのを感じて声をあげる。
「最後に好き勝手するくらい、いいじゃない!」
「―――最後?」
怪訝そうに繰り返したのを見て、はっと思い出した。まだ彼には伝えていなかった。
「私ね、輿入れが決まったの。徐州の楚郡へ」
「徐州、ですか……。彼の地は土地が豊かで人の出入りも多いと聞きます。懸念点がないわけではありませんが、良い嫁ぎ先と言えるでしょうね」
「何処も戦火で痩せているものね。あっちへ行っても定期的に文を出すから返事してちょうだい。丞相になった、でも書いてあれば飛んで帰って来るわ」
「な、何を言っているのですか、姐上は」
「やあねぇ。冗談よ、冗談」
目を丸くさせてあたふたするのを笑い飛ばす。堅物なまま大きくなったらどうしようかと思ったが、まだまだ可愛いところが残っていたようで安心した。
「楚郡に行ったらそこの名物食べるつもりなの。きっと美味しいんでしょうね。それだけじゃないわ。あそこはいろんな流民が入るって聞くから、その人たちから話を聞くの。ああ、今すぐにでも家を出て行きたいくらいだわ」
「姐上」
「わ、わかってるわよ。別に遊び呆けるだなんて言ってないじゃない。ちゃんと嫁の務めは果たしますし、火遊びもしません」
可愛い一面見たと思った矢先のこれだ、やっぱり可愛くない。徐州は、ここ豫州から一日から二日ほどの距離にある。行こうと思えば行ける距離なので、嫁に出すと言い出したくせに顔は苦痛に歪められていたお父様と我が弟に会いに抜け出してくるのもいいかもしれない。夫には言っておいて、彼らにだけ秘密。きっとたいそう驚くに違いない。小言を受けることはもはや避けられないことだが、彼らの驚きに目を丸くする顔が見られるのなら我慢しよう。なんて考えを見透かしているのか、文若の自分を見る目が徐々に翳りを帯びてきていることに気づく。
「ち、ちゃんとやるって言ってるじゃないの。もう、そんなに姐上が信用ならない?」
「いえ……」
口では否定するも顔色はやはり曇ったまま。日頃の行いが物を言い過ぎたようだ。これは流石に身の振り方を改めなければいけないな。と、内心で自省していたところ。両手を組み、静々と頭を下げた。
「姐上の御婚姻を心より慶祝申し上げます」
真面目な彼らしい祝い言だ。しかし、言葉を飾り立てても、穏やかな語調を取り繕っても、自分の経験までは誤魔化せない。
「―――文若」
手を伸ばし、頬に添える。やや筋肉質な手触りに胸の奥がじんとなる。もちもちと柔い頬がこんなにも硬い。顔を上げて、と呟くと折り曲がった腰がゆっくりと伸びる。何かよいことをする都度撫でた頭が、今やあんなにも高いところにある。ほんとうに大きくなったものだ。ほろりとこぼれそうになり、口元が緩む。
「文若、何かあるなら言いなさい。姐上に誤魔化しは通用しませんよ」
やんわりと窘めれば、それが意外だというふうに軽く目を丸め、そしてふっと肩を落とした。
「姐上には到底敵いそうもありませんね」
眉尻を下げて苦笑する。当然だ、誰より近くでずっと見てきたんだもの、こればかりは譲れませんことよ。勝気な笑みで応じてやれば、文若の目線が下がった。
「……成長の中で、姐上と終生居れることはないと理解していましたが、こうして目の当たりにするとお恥ずかしながら…………離れ難い気持ちになります」
今度はこちらが目を丸くした。日頃から行いに口酸っぱく苦言を呈する彼が、よもやこのような気持ちになるなんて想像だにしなかったのだから。
「常、姐上に民の規範たらんと細かく言ってきた身として不肖千万ですが、こればかりは―――」
「馬鹿ね、もう」
「あ、姐上……?」
なにするんだとばかりに声をあげるのも無視して、高い位置にある頭を下ろすため、両頬を挟んで引き寄せ、並行になった視線をしっかり捉えた。弾みで彼の帽子がずれ落ちたが、今はどうでもいい。
「私はあなたの姐上です。あなたが幾つになろうと、私が何処へ行こうと、それは絶対に変わりません。それこそ、お互いお祖父様とお祖母様のようになってもよ。だから姐上の前では素直になりなさい。恥ずかしいことなんてないのだから」
切れ長の細い目。豊かに伸びた髪。律がはっきりした言葉遣い。確かに出で立ちに限って言えば記憶の彼と重ならない。だが、自分の本音を吐露する際に見せる臆病な物言いは変わらなかった。
「私の可愛い可愛い弟。大きくなるにつれて変わってしまったと寂しかったから嬉しいわ」
喜びに声を弾ませ、染み入るように彼を見つめる。なんでも一人で抱えて、気づけば姐を優に超して。なんだか置いてけぼりをくらった感じで距離を感じていたけれど、なんてことはない。文若は文若のままだ。窓から日差しが差し込む。静かで温かく、揺籃の中に居るかのよう。願わくば、私が離れても彼が健やかにいてくれますように。