―――七つほどの頃だ。はるか北の方で移動しながら生活していた私は、ある戦乱で人買いに拐われ、今いる許へ連れて来られた。その後、さる商家に奴婢として買われ、生まれを理由に虐げられてきた。生き地獄が続いていたが、終わりは急に訪れた。槍を携え武装した背の高い男性がやってきて、私はその人の邸に居を移すことになったのだ。

「この部屋を使うといい」

愛想を取り払った低い声が指すのは、生活に必要とされる調度品が揃った簡素な部屋。陽は差し込まず薄暗い。圜土を思わせる部屋だったが、それでも一人きりの部屋を与えられたことがありがたかった。だからこそ何故ここまでしてくれるのかが腑に落ちなかった。けれど言葉がわからなくて困惑で見つめていると、男はたっぷりと間を置いてから口を開く。

「それが私の務めであるからだ」

ただそれだけ。腑に落ちる返答でなかったが、冷たい瞳を前にして疑いは懐の奥へしまいこみ、後を追った。




―――それからの日々は目が回るほどだった。あの家より使用人が少ないので一人一人が担う仕事量は多く、掃除に洗濯に買い出しにと駆られ、一息つくのはわずかな食事の時間だけ。あの家と忙しさは同じくらいだが、違うのは扱いだった。異族なので距離はあるものの、憂さ晴らしにぶたれないし食事を抜かれることもない。さらに主人の意向らしく、給金を貰えている上に言葉まで学ばせてもらえている。文句などあろうはずはない。

「でもいつまでこの生活が続くんだろう……」

洗った皿を布で拭いながら、ふと空を見上げる。澄んだ青はあの頃を想起させる。吐く息の白さと大地を覆う雪の白さが溶け合い、視界の果まで純白が覆う。酷寒の中で遊牧しながら生活を営んでいた。耐え難い寒さではあったけど、母と父とみんなとで一つの鍋を囲む時だけは辛さも和らいだ。一緒に駆け回った愛馬は元気だろうか。弟はどれくらい大きくなったんだろうか。よく風邪を引いていた祖母はどうしているだろう。自分のことより案じてくれた母や父。

「会いたい……」

ふつりとこぼれてしまい、慌てて周囲を見渡す。邸の裏手には自分だけで、ほっと胸を撫で下ろした。冷遇されないからと緩んじゃ駄目。いつあんな日に戻るかわからないのだから。立ち上がると同時に砂を踏む音が後ろから聞こえた。出てきたのは庖人頭を勤めている老齢の男性だった。

「それ終わった?」

「あ、はい」

「なら遣いを頼むよ。ここから少し歩いた先にある酒屋で物を貰ってきてほしいんだ。話は通してあるから」

「わかりました」

皿が入ってる桶を厨房に置いて門を出る。中午の時刻なので人影が所狭しとひしめき合っており、街道を挟むようにして点在する露店からは活発な声が飛び交っている。馴染みの酒屋が近づくにつれて食事の芳香が濃くなってきた。庖人が懇意にしているというこの店は邸から近い位置にあり、自分もたまに利用する。店の戸口付近に居た給使に来訪の旨を伝えれば、納得した顔で即座に厨房へ行き、小包を片手に戻ってきた。

「食べてく?」

「ううん。すぐ戻らなきゃだから」

「そ。またね」

「うん」

簡素な挨拶を交わして店を出た。帰るか、と来た道へ足を向けた時だった。同時に店の角から人影が出てきて肩がぶつかってしまう。あ、とか細い声が漏れる。きちんと見れば知らぬ長身の男だった。襤褸布に身を包んだ偉丈夫が私を見下ろし、黄ばんだ歯を露わにした。刹那、背筋に悪寒が走った。やばい、と悟った時にはもう遅かった。

「待てよ」

地響きのような低い声と共に、身動きが一切取れなくなる。痛いほどに掴まれた腕。腕を引いてもびくともせず、それをいいことに男は笑みを深めた。

「見てくれだけで逃げることねえだろ?」

「は、離して!」

「騒いでも無駄だよ。なんせよそものを助ける物好きなんか居ねえんだからよ」

縋るように視線を散らすと、偶然一人の男性と交差した。しかし、すぐに逸らされてしまう。他の者も同様だ。ある者は気まずそうに。ある者は知らぬ振りで。ある者は疎ましそうに。男の言う通り、こちらに手を差し伸べようとする者は居なかった。騒ぎを聞きつけたらしい先程の給仕係だって、一瞥しただけで店内へ戻っていった。自分が異族だから。腕の痛みが心臓へ達したかのようだ。

「おら来い」

「や……っ」

腕を引かれて姿勢が前傾する。男の背後には知らぬ細道が続いていて、きゅっと喉の奥が締まる。恐怖が滲み出し、体はますます固くなっていき、しまいには声すら出なくなった。野卑な笑みを浮かべた男。ああ、嫌だ。涙が決壊したと同時のこと。突然、男が叫んだ。

「―――堂々と人を拐かすとは。厳罰に値する」

感情を取り払った冷淡な声。視界を裂くようにして降ってきた刃。男の野太い悲鳴と共に腕が解放され、思わず後方へよろめいたが、硬い壁が背中を支えてくれた。見上げるそこには見知った顔が。

「ぅ、于禁様……」

我が主人が立っていた。出会い頭に見た鎧をまとい、その手にはかの槍が握られている。厳を乗せた眼差しが背後へ送られ、何かを指示する。呼応して二、三の部下らしき者たちが、血を流す腕を抑えてうずくまる男を取り押さえた。それを見て于禁様以外にも人が居たのかと理解する。

「その者を囚獄へ繋いでおけ」

「はっ!」

鎧のぶつかる音を立てながら去っていくのを見届けると、途端に力が抜けていった。突然尻餅をつき、自分でも驚く。

「怪我したのか」

「い、いえ、大丈夫です。ちょっと気が抜けちゃって……」

「そうか」

立ち上がろうとしたら手を伸ばされ、目を丸くした。

「どうした」

動かない自分を訝しんで声を投げられる。はっと我に返り、手を重ねた。握り返された手の強さに呆けていると、彼の眉間がまた険しくなった。どうやらほんとうに怪我していないのかと疑われているようだ。慌てて大丈夫だと返す。

「すみません」

「何故謝る」

「お手を煩わせてしまいました」

腰を曲げようとしたところで、やめよと制される。

「私は己の務めを果たしまで。お前が謝罪する謂れはない」

「ですが……」

「お前の務めはなんだ」

「え?」

「外に出たからには理由があってのことだろう」

「あ、はい。遣いを頼まれて……」

「では疾く帰宅せよ」

くるりと踵を返したので慌てて呼び止めた。何用か、と問いかける彼に堪らず声を張る。

「助けていただきありがとうございますっ」

助けられるとは思ってもなかった。拐われて幾星霜。今まで自分を異族だと見下すか距離を置くかのどちらかしかなかった。どれだけ人目をひそんでも、耐えても、扱いは変わらなかった。痛めつけられることは当然なのだと指をさす者まで居た。だから諦めていたのだ。助けられることも、人として扱われることも。だが、彼は助けてくれた。彼ほどの人なら使用人一人居なくなったところで替えが利くだろうに、素通りせずに手を伸ばしてくれた。

「それが私のやるべき責務だ」

ここに来て初めて、凝り固まっていた顔がわずかに緩むのを感じた。




―――ある日の夜。中午から雲が停滞し始め、陽光が深く沈んだ時分には、凍てつくような寒風が吹いていた。庇に切り取られた空は雨催いを感じさせ、軽く息を吸うとうっすら雨の訪れが匂う。しんしんと冷える指先に息を吹きかけ、主たる于禁様の私室へ進む。戸の前に立つと、途端、体が硬直する。寒さではない。入っていいのだろうか、迷惑ではなかろうか、という迷いからだった。思い立った時には感じなかった迷いがここに来て全身を蝕み、入ることも去ることもなく時間が刻々と過ぎていく。どれほど立ち尽くしたであろうか。夜の静けさに、ぽつぽつと雨音が混ざったことに気づいた。見ると糸のような細い雨が降り始めていた。帰ろうかと思った時、眼前の戸が動いた。

「何用か」

「あっ、あああ、あの……!!ぉお、お茶を!お茶をおも、お持ちしました……!」

ここは于禁様の私室であり、いつ出てきてもおかしくないのは当然なのだが、心構えができていなかった自分にはあまりに唐突なことだったので、調子が外れた声が飛び出してしまった。しんと静まり返る辺りには徐々に気まずい空気が滲み出す。于禁様の眉間が険しくなった。やってしまった、と全身から血の気が引いて冷たかった体は更に熱を失っていく。折檻だろうかと考えた時、于禁様は踵を返して肩越しに言った。

「入室を許可する」

「……へ」

「そこでは寒いだろう」

声音こそ平坦で突き放すようなものだが、そこにある気遣いが凍りついた全身を瞬く間に解した。胸中で破裂した嬉しさで部屋に飛び込む。火盆が焚かれてあるおかげで中は暖かく、ほっと肩が緩んだ。榻へ腰掛けた于禁様に駆け寄り、几の脇に持っていた茶器を置く。蓋をしていたおかげか時間が然程経っていないからか、香りと共にうっすら湯気が立ち上がった。

「お忙しいんですね」

几にはたくさんの竹簡が広げられていて、それには見慣れぬ文字がびっしり羅列している。ほつりと呟いてはっと我に返った。

「す、すみません!決して詮索しようなどとは思ってなくてですね……」

「構わぬ」

「あ、ありがとうございます」

「これらはすべて我が主に送る書簡だ」

「主……」

こちらに連れてこられた際、家令から色々教えてもらった話を手繰り寄せれば、彼の主は曹操なる男であったはず。どういう為人かは知らないが、曰く頭が切れるとのこと。

「于禁様が仕える主なのですから、優れた御方なんでしょうね」

「―――ああ」

万感の想いが滲み出すような一言。たった一言、されどその一言が、自分の背中を押した。

「于禁様は何故曹操様に仕えようと思ったのですか?」

すぐに返答は来ず、部屋は外の雨音に包まれた。聞いてはまずいか、とも思ったが、彼が浮かべる顔色にそういった類いの影は見えなかったので待つことにした。

「当初、私は鮑信殿に仕えていた」

「ほ、ほう、しんさま、ですか?」

「ああ。あの方は郷里である兗州において大変潔白な方だった」

曰く。北に位置する兗州には鮑信なる人物がおり、その方は人によく尽くすおひとでした。決してその身分を鼻にかけず、民と対等に打ち解け合い、かつ政においても善政を敷くという兗州では名の知れた名主だったとのこと。于禁様はその方直々に見出されたようで、その人に衷心を以て仕えていたが、ある時、黄巾党の不意を食らって討たれてしまったらしい。その際に手厚く弔ったのが曹操様で、それに甚く感銘を受けて仕官したとのこと。

「曹操様はどういう方なんですか?」

「規律を重んじる方だ。厳として組織の風紀を統率している」

「そう……、なんですね」

普段から律に厳しい于禁様が言うのだ、主君の曹操様は輪をかけて真面目で怖いおひとなんだろう。未だ見ぬ主君の容姿を脳裏に描き、人知れず戦慄する。

「―――だが、決して情を知らぬ方ではない」

落とされた言葉に顔が上がる。

「厳しい戒めを他者に課するのは早々に乱世を治めるがため。ゆえにあの方はご自分をも重く戒めている」

今まで冷たいとばかり思ってきた目。それを初めて優しいと感じた。険しいことは事実だが、その奥にある行動理由は何処まで他者を思いやっているもので。あの時の引っ掛かりが今ようやく取れた気がした。

「私ばかり話していては公平ではないな。お前も話してみよ」

「え。で、ですが……」

「出自は調べた。調べた上で引き入れたのだ、隠す必要はない」

言われたことへ返答が出なかった。七つに拐わて以降、口を開けば不快だとなじられ、時には喋るのを禁じられたこともある。でもこの人は出自を知った上で生まれを理由に見下したりせず、助けてくれたこともある。この人になら打ち明けてもいいかもしれない。

「つまらない話ですが―――」

母と一緒にご飯作ったこと、祖母に編み物教えてもらったこと、弟と遠乗りで馬の速さを競ったこと、父と狩りに出て弓矢を指南してもらったこと。どれもたわいないことだが、話していくうちに言葉が尻すぼみになり、所々途切れてしまう。

「帰りたいか」

何故そんなことを言い出すかわからなくて呆けていると、不意に頬が濡れていると気づいた。どうやら感情が昂って泣いていたらしい。

「す、すみません……っ」

慌てて顔を拭くと一言で制されてしまう。

「良い。郷里を懐かしむのは罰されることではない」

于禁様に初めて会った時、彼を冷たい瞳の人間だと思った。あの一件があるまでそれは覆らなかったが、この人になら誰にも言わなかった心の内を明かしても大丈夫かも。固く結ばれていた縄が解け、握りしめていた拳が緩む。

「…………帰りたい、です……」

噛み締める唇の間から本音をこぼす。于禁様はそれに嫌な顔をすることなく、脇の茶杯を取った。

「帰れるといいな」

普段の鋭さが幾分も和らいだ声に小さく頷き返した。




―――園林に積もった雪もすっかり解け、視界は生き生きとした彩りで染められている。往来は活発に行き交う人と声とで溢れて、見上げた青空からは痛烈な日差しが注がれる。皿洗いも終わり、次は于禁様の私室を掃いていると、戸口から部屋の主が現れた。

「あ、于禁様。おかえりなさいませ!」

鎧をまとい、手には槍が握られていた。ああ、と返す彼の顔には若干の疲労が見えたのでお茶をお持ちしますと急いで部屋を後にした。並々と注がれた茶杯を携えて私室に戻ると、平服に着替えた彼が榻に座って書簡を広げていた。

「こちらに置いておきますね」

「ああ」

「他に何かご用はありますか?」

「いや。己の務めに戻ってよい」

「かしこまりました」

といったものの、動きが鈍くなる。しきりに彼の顔色を盗み見ていると、ますます言葉にしたい欲に駆られる。一介の使用人が出過ぎではないだろうか。しかし彼がそういう人でないことも確か。うーんうーんと考えていると。

「どうした」

どうやら知られてしまったようだ。投げられた視線に腹を括ることにして、箒を持つ手に力が入る。

「差し出がましいかもですが、寝られてますか?」

「何?」

すっと目が細くなり、慌てて補足する。

「あまり食事も摂られていないように見えるので。もしかしたら寝付きも悪いのでは、と。違ってたらすみません!」

「…………そう見えるか」

「えっ?は、はい」

ふう、と深い溜息を吐き出して己の眉間を揉む。榻の背中にもたれる姿を見るに、やはり相当お疲れらしい。高位になると相応の苦労がかかるのだろうか。

「近々出征することになった」

「それって戦に行くってことですよね……」

「ああ。ゆえに調整せねばならぬことが山積している。その疲労が露呈してしまったのだろう。人の上に立つ者として厳に戒めなければと律しているつもりだが」

「で、ですが、根を詰めてはお身体を損なってしまいます。どうかご自愛くださいませ」

「………………善処しよう」

それを聞いてこわばっていた肩が緩んだ。彼が倒れるところは見たくない。もしそんな危機があれば代わりたい。そう思うほどまでに彼は自分にとって大切な人なのだ。

「あの、于禁様」

「なんだ」

「これをどうぞ」

おずおずと懐から差し出したのは小さな牙だった。白濁色の牙には小さな穴が穿たれており、細い糸が括り付けられている。于禁様はそれを怪訝そうに見つめた。

「御守りみたいなものです。小さい頃、祖母に作ってもらったんです。これを持っていると、悪いものを寄せ付けないと言われてます。よければ持って行ってくれませんか」

「だが、それは祖母がお前に渡した物だろう」

「いいんです。于禁様に持っていてほしいんです」

押し付けている自覚はあるものの、それでも彼に持っていてほしかった。戦地に赴けるわけじゃないから有事の際に盾になることもできない。尖兵として守ることもできないから。これはただの立願だ。無事に帰ってきてほしい、という。そんな強い思いが伝わったからなのか、彼はしばしの間を置いて静かに懐へしまい込んだ。

「帰還した後、お前に返却しよう」

「待ってますね!」

彼ならきっと大丈夫だ。将軍と言われてる彼ならそれこそ無傷で帰ってきてくれる。滲み出す不安を押し殺すようにして笑ってみせた。




―――数えて二年程。山から下りる風が冷たく感じられるようになった頃、彼が帰還した。国をそむいた裏切り者だと、誰かが叫んだ。その声を皮切りに、罵声が雨のように降り注ぐ。帰ってきたことを手放しに喜びたいのに、顔貌に広がる深い翳りがそれを許さない。彼が漢奸であるはずがない。乱世を治めんがために己を厳しく律してきた彼が、己の主に一途の忠を誓う彼が、私欲に溺れて裏切るなんて到底信じられない。何か事情があったはず。けれども、彼は誰にもその胸の内を明かすことをしなかった。周囲を覆い隠す暗闇に浮かぶ一つの円月。月明かりには薄雲がかかって翳っており、静寂も相まっていっそう夜気が冷たく感じられた。

「于禁様、私です。お茶をお持ちしました」

外から声をかけるも返事はない。

「……入りますね」

断りを入れて戸を押す。求めた影は几に向かい合っていた。宮廷から回されたらしい書簡を広げ、静かに筆を滑らせている。黙々と、静粛に。過ぎた日の姿を重ねてしまうほど変わりない手つきだ。しかし、よく見れば月日を感じる。蝋燭の灯りに浮かぶ稜線は、やや痩けてしまっており、落とされる影は濃い。束ねられた髪には白いのが目立っている。筆を握る手は老翁のそれを呈している。何より眼差しが変わってしまった。固い決意を宿していた瞳がすっかり翳ってしまっている。一言も発さず手を動かす様は、妄執に取り憑かれた屍のよう。なんと言えばいいか、今の自分にはわからなかった。

「于禁様。お身体はどうですか?」

「問題ない」

「しかし……」

視線がいったのは几の脇に置いた料理だ。少量でも栄養がつくように菹と羹を用意したが、手付かずのまま残っている。長時間放置されたそれは当然だが冷めている。彼は食べる素振りも見せぬまま腕を動かしている。皇帝と謁見してからというもの、彼はろくろく食事も摂らずに仕事に没頭している。何を言っても上の空で、覇気もなければ生気も感じられない。いつ斃れても可笑しくない様子に、こちらが寝られないでいた。

「火盆を取り替えますね」

「ああ」

「寒さは大丈夫ですか?綿を詰めた衣もお出ししますが」

「ああ」

「……何か欲しい物はありますか?今でしたら乾棗がおすすめです。甘くて腹持ちいいと評判なんですよ」

返事はなかった。肩が自然と落ちる。彼がここに居ること以上のものなんてない。だが、周囲は違うようだ。一度主と決めたならばその人のために死ぬことを恐れてはいけないらしい。ゆえに、それをせず敵に降った彼はこれほど苦しめられている。批判する者の中には私的に彼を気に入らない輩もいて、そういう連中から見れば今は好機なんだろう。彼の高潔さに惹かれたと言っていた守衛もおらず、彼のご飯を作っていた庖人もおらず、私だけが残っている。なんで彼はこんな責め苦を受けねばならぬのか。ぎり、と悔しさに奥歯が鳴った。

「―――その手はどうした」

訝しむ視線の先には自分の手があって、冬の病ともいえるあかぎれによって酷い有様になっていた。

「まだまだ寒いですからね。でも大丈夫です。こんなのは慣れてます」

笑ってみせても彼の固い表情は和らがない。

「私は医方に通じているわけではない。だが、それは凍瘡によるものでないことは一目瞭然。……誰にされたのだ」

息を呑む。瞳の奥に煌めいた一縷の怒りに臆したのではない。よもや露呈するわけないと思っていた秘密が、誰あろう彼によって暴かれたからだ。

「え、ええと……」

上手い嘘を作ろうと思考を巡らすも、平常を失った頭では妙案など思いつかない。それどころか、しどろもどろな声が出てくるばかりで、彼の猜疑心を増幅させる一途だ。とうとう観念して打ち明けることにした。

「………………自分にできることを探していろんな家の手伝いを少し」

将軍という栄光は昔の話。日々の生活費を捻出するには稼ぎに出なければならなかった。異民族の私を受け入れてくれる家は少ないが、それでもあるにはあるのでなんとか食い繋いでいけているのが現状。話を聞いて眉根を寄せる彼に両手を振ってみせた。

「私にできることだから気にしないでください。自分なんかよりも于禁様のがずっと大変なんですから。だから少しでもご飯を召し上がって―――」

「すまない」

唐突に頭を下げられ、言葉が切れた。この時、初めて彼が視線を逸らした。

「私のせいでお前に要らぬ負担を強いている」

ただの使用人に過ぎないのに、なんでこの人はこんな時でも他人を考えるのだろう。ふと彼に助けられた日のことが脳裏を過ぎった。生まれを理由に誰からも手を伸ばしてもらえなかった自分を、彼だけが救ってくれた。なのに自分は一助もできていない。歯痒い気持ちが吹き荒れる。

「私のことは、いいんですっ……!あなたの傍に居られるならなんでやるつもり、です。なんだって、できます……!だから負担とか言わないでくださいっ……!今まで受けた恩を返させてくだ、さい……っ」

堪えきれない想いが頬を伝った。滔々と流れ出る涙は拭っても勢いを増すばかりで、止まる気配を見せない。言葉に詰まりながら首を振る。嫌だ、嫌だ嫌だ。この人のこんな顔なんか見たくない。彼はこんな扱いを受けていい人じゃない。不器用な優しさを知っている。揺るがない信念を知っている。変わらない忠誠心を知っている。自分はそれらを知っている。なら彼の君主だって知っているはずだ。なのにどうしてこんなふうに扱うのか。顔を知らぬ主に憎悪に似た感情が募っていく。

「…………お前は」

低い声が静かに落とされ、涙の勢いが僅かに緩む。

「以前、故郷に帰りたいと言っていたな」

大きな波がうねった。冷たいものが肝に落ちてきたかのような、嫌な気配を察知して指先から熱が抜けていく。続けようとする言葉に恐怖を抱いた。

「国境に配置された兵の目が届かぬ道を知っている。伝えるゆえ、―――帰郷せよ」

「なっ……!?」

思いもしなかった言葉に目を見開き、しかし次の瞬間には頭を振っていた。

「嫌です!于禁様から離れるなんて!何故そんなことおっしゃるんですか。今まで不要なんておっしゃらなかったのに……!」

責めるように声を荒らげても、彼の眉目は僅かばかりも動かない。こうなることを見越していたかのように冷静沈着だ。

「お前の責務はなんだ」

「于禁様に仕えることで―――」

「家族を亡くするとしてもか」

塊が喉に閊え、言葉が途端出なくなる。

「それってどういう……」

震える声に応えるようにして懐からある物を取り出す。それは出征前に彼へ手渡した御守りだった。ちゃら、と光沢を放つ牙が細い音を立てる。幼い頃に祖母から贈られたそれは長い年月を経ても尚、在りし日の輝きを失っていない。

「任地への道中、これと類する物を所有する男と邂逅した。その者は掴み掛る勢いでこれを持つ者のことを訊ねたのだ。即ち、お前のことを。心当たりあるだろう」

「ぁ……」

それはきっと私の弟のことだ。だって、互いの手を決して離さず助け合って生きるように、との戒言と共に贈られた物なのだから。

「彼は―――弟はどんな様子でしたか?」

忘れた時などない。彼の安否は常に気にかけていた。よもやこんな場面で知ることになろうとは、思ってもなかったが。

「安心せよ、様相は健勝であった。お前の容態を気にかけると同時に言伝も預かっている」

「言伝?」

「部族間の争いに敗れ、居住地を移すことになったそうだ。父親は戦に行ったきり戻らないと聞いた」

「そんな……父さんが……」

私に狩りを教えたのは父だ。だから当然腕は確かなもので、その父が戻らないなら最悪の予想も自ずと出てしまう。

「伝えるのが遅くなってすまかった。だが、帰途の用立ては済ませてある。今からでも遅くはない。これを持って帰れ」

御守りと一緒に渡される一枚の地図。曰く、弟との合流地点とのこと。ここからの経路がわかりやすく示されている。これを精確に読み取れるのは彼の教えによるものというのに、その彼に恩返しできぬまま去ってしまうのか。ぐっ、と込み上げるものを感じて返事ができなかった。

「あなたはどう、なるんですか」

振り絞って出した問い掛けには、しばらくの時間を置いてから返答があった。

「泥土を行く覚悟は、降った時にできている。」

「でもっ……!そんなのあんまりです!敵に降った将なんて于禁様以外にも居るのに、何故あなただけが謗られるのですか!!今まで衷心を以て仕えてきたあなたに、何故弁解の機が与えられないのですか……!」

決死の叫びにも彼は動じる素振りを見せなかった。諦めているのか。受け入れるというのか。それでいいとでも考えているのか。交差する眼差しからは何も読み取れなくて、悔しさも怒りも理不尽に対する憎しみすらも膨張していく。

「私のことは案ずるな」

「そんなこと……っ」

できるはずがない。なのに彼は首を振ってみせた。許さない、というのか。傍に居ることも、想うことさえも。自分がここを去ってしまえば、おそらく彼は独りで逝ってしまうだろう。今や隣家さえ敵だ。彼の君主に恩情など期待できない。一体誰が彼を守るのか。そこで思い至った。彼を救う方法がたった一つだけある。

「―――私と行きましょう、于禁様」

「何を……」

「一緒に逃げましょう、こんな場所。みんなには私から言って聞かせます。大丈夫です、于禁様ならみんなともすぐに打ち解けますよ。私たちは一度家族として迎え入れたらどんなことがあっても決して見捨てません。蔑むことも陥れることもしません。向こうでは慣れないこと続きで不便もありましょうが、私が頑張りますから安心してください。だから行きましょう?于禁様。おひとりで残るなんてこと、しないでください。お願いです、お願いですから……」

邸に巣食う鼠同然の扱いだった私を助けてくれたのは彼だ。文字も言葉もわからない自分に学を与えてくれたのも彼だ。出生を理由に隔たりを設けずに接してくれたのも彼だ。そんな人を見捨てて逃げるなんて、できるはずもなかった。僅かに見開かれた目に一縷の望みを賭ける。

「私がお守りしますから」

「―――主の命に背くというのか」

返ってきたのは予想外に冷たい声音だった。

「え?」

訳がわからぬまま彼を見ると、自分を射抜いたのは氷の如き眼差し。当初に見た顔つきで私を見据えている。状況を咀嚼できない私に、彼は冷然と言い放った。

「去れと言ったのだ。所懐を述べる許可は出していない」

「う、于禁様……?」

「命に背くことはできぬ。去れ」

「でも―――!」

「一切の弁論を禁ずる」

「于禁様……っ」

しかし、二の句を継ぐことは叶わなかった。腕を引かれ、廊下へ放り出される。外に出ると同時に固く戸を閉められてしまった。何度呼んでも返事がくることはなかった。名を呼ぶ都度、想いが弾け飛ぶ。物の輪郭が滲み出し、戸を叩く手が湿り、とうとう声が出なくなっても、彼が出てくることはなかった。ほんとうにお別れなんだ。もう二度と会えないんだ。悟ると力が抜けてしまい、膝から崩れ落ちてしまった。目の縁から溢れた涙が衣に溶けていく。拳を握った時、中で硬い物が触れる。祖母から贈られた御守りだった。住処を追われたみんな。その中には母も弟も祖母も居る。父は行方知れず。同じように、彼らからしたら私も同じなのだろう。幼い頃に見たっきりの家族が思い浮かび、唇を噛み締めた。――帰らないと。――でも于禁様は?残したら彼は今より酷い目を見る。――彼は来ないよ。――だからって見捨てるわけには。――だったら家族はどうなる?あっちも大切なんだ。――でも于禁様が。――しっかりしなさい、私。私の責務は何?望まない土地で死ぬことじゃないでしょう。生きるんだよ、生きて家族の下へ帰ることなんだよ。それが彼も望んでいることなんだよ。言い聞かせ、脱力した体に力を入れる。傷ついても、泣いても、何があっても故郷へ帰る。地図を握り締めて邸の裏手へ向かった。虫も鳥も寝静まる夜更けの時刻。密集する木々に繋がれていたのは、毛並みの良い馬だった。きっとこの日のために于禁様が用立ててくれたんだろう。つん、と痛む胸を抑えて跨る。手綱を取った時に気づいた。どうやら爪を深く立てていたらしく、血に濡れていた。痛みに泣くのはこれっきりにしよう。今一度彼の部屋の方向を見て、馬を走らせた。




―――それから長い年月が過ぎた。あの後、合流地点にて弟と再会を果たして無事に帰郷できた。離れたのは七つ、戻ってきたのは二十に差し掛かる年頃。母も祖母も他のみんなも帰宅を泣いて喜んでくれた。当然だ、死んでいても可笑しくない年月離れていたのだから。結局父が帰ってくることはなかったけれど、弟世代の男衆を筆頭に、今は違う土地で生活を営んでいる。相変わらず寒さは厳しいし余裕があるとは言えない暮らしだけど、隣を見れば自分を心から案じてくれる家族と愛する夫が居る。そして下を見れば屈託のない笑みを浮かべる愛娘が居る。そんな中、いつも通りに料理して洗い物していたら遊びに出ていた娘に呼ばれた。

「ねえねえ母さん」

「うん?」

「母さんがいつもいれてくれるお茶って、いつ教わったの?」

「私があなたくらいの年頃だった時かな」

「……それって悪い人たちにいじめられてた時?」

母から聞かされたんだろう私の過去に、娘は顔を曇らせた。からっと笑い飛ばして答える。

「嫌なこともあったけど、そればかりじゃなかったよ」

「そうなの?」

「そうねぇ……。もう話しても大丈夫かな。じゃあお茶を飲みながらお母さんの昔話を聞いてくれる?」

「うん!」

鼎に水を入れ、薪に火を灯す。ぐつぐつと煮立ったところで、予め砕いておいた茶葉を投入。茶葉が溶け出して色が変わると、干した蜜柑の皮をちぎって入れ、味を整える。多少の甘みを加えねば、幼い娘には苦すぎるのだ。やがて蜜柑の匂いがくゆり、器に移して娘に渡す。湯気がほくほくと立ち上る。口に含んだ娘は満面の笑みを浮かべる。

「おいしい!」

「実はね、お母さんのお茶を褒めてくれた人が居るの」

「父さん以外に?」

「そう。私がこっちに帰ってきた日の時に」

于禁様に去るよう言われたあの夜。腕を掴まれて部屋を追い出される寸前のこと。小さい声で、確かに「お前の淹れる茶はいつも美味かった」と言ったのだ。今まで口にしなかった彼が言った最初で最後の褒め言葉。あれは職務に追われて身を損ないかねない彼のために学んだもの。于禁様は己の責務ゆえに私を助け、その責務のために生きると言った。なら私の責務は?それはきっと波乱を生き抜いて娘を守ること。そして、あの時誰もが後ろ指をさした彼の為人を忘れぬこと。暗い荒野でうずくまっていた私の光。厳しい眼差しに隠された不器用な優しさを、私は死ぬまで忘れない。





あの瞳はどうしようもなくひび割れた硝子のよう