干し店に並べてあった簪を見つめていると、視界の端にこちらに向けて揃えられた沓先が入った。顔を上げるとそこには名前の姿があった。得物の長槍を携え、甲冑をまとっている。
「これはこれは。思いがけない邂逅だね。徐州との国境を任されていたのでは?」
「交代命令が下されまして。たった今、洛陽へ戻って参りました」
なるほど、ゆえに若干の疲労が滲んでいるのか。都を出たのはおよそ二年ほど前。それより以前は自分の下で働いていたという関係から、その間も文でのやり取りを交わしていたが、それには帰還のことなど記されていなかった。
「あなたもお人が悪い。言ってくれてもよかったのに」
「ちょっとした意趣返しですよ。こちらばかりが振り回されるのは癪でして」
してやったりと得意げな顔を見せるので、その子供らしさな一面に面を食らうも、笑みがこぼれてしまう。出会った初めはこんなにも胸襟を開けてみせることはなかった。上官とそれに仕える武吏という線引きを明確に維持し、求めたことのみに応える。人間らしさなど欠片も見せなかったあの頃から随分変わったものだ。
「―――郭嘉殿?」
名を呼ばれ、不思議そうに見つめられて意識を戻す。
「いや。初めの頃を思い出してね」
「初め?」
「あなたが私に紹介されたばかりの頃だよ。あの時と比べて、私は信用するに足る器になれたと考えていたんだ」
「ああ、懐かしいですね。あの時は私も若く、加えて知らぬ土地でしたから余裕がなかったんです。己の責務を完璧に果たすこと、求められた期待に十全に応えること。この二つのみを絶対的な指針としていました。だから郭嘉殿には愛想の無い田舎者に見えたでしょうね」
「そんなふうに思ったことはないけれど。……そうか、あなたはそんなことを胸の内に抱いていたのだね」
「恥ずかしい話、郷里でも然程人と関わってこなかったもので殊更……」
「なるほど」
人と関わるのが嫌いかと思っていたが、どうやら口下手の部類であったらしい。ともすれば、あのような生来笑ったことがないといった顔にもなる。長い月日を経て合点がいった自分は小さく頷いた。
「しかし、曹操殿や郭嘉殿が信を置いてくれたおかげで周りの方からも認められるようになり、こうして国境の警備を任されるまでに至った。郭嘉殿には大恩を感じているのです」
「そう硬くならなくていいよ。周りの信頼を集めたのは私の評価以上に、あなた自身の功績によるところが大きいだろうから」
「ではよりいっそう責務に精を出し、信頼に応えてみせます」
とはいえ、生真面目なところは生来のものらしい。許せば拱手もしそうな勢いに笑って流した。そういえば、と彼女が言葉を続ける。
「女性への贈り物ですか?」
「そうだよ。簪をね」
「どれも素敵ですね」
しげしげと見つめる様に疑問をぶつけてみる。
「初めて見るかのようだね」
「簪自体、ここに来て知ったんです」
そう言われ、軽く驚いた。
「曹操殿に登用される以前は機会もあったはず。一度もなかったのかな?」
「はい。山間の小さな村落でしたから行商も来ず、周りもつけていなかったものですから、飾るといえば小さな野花くらいしか」
「気になるなら一つ試してみるといい。きっと似合うよ」
「いえ、やめておきます」
意外にも未練なく身を引いてみせた。
「男衆に居て身を飾っていては下の者に示しがつきません」
「相変わらずだね。髪を飾るのに性差はないだろうに」
「武人には似合わないでしょう。工師に申し訳ないです」
「―――そんなことはないよ」
棚の端に他と紛れるようにして置かれてあった一つの簪を取る。黒々と光沢を放つそれは手掌に収まる程度の大きさをしており、目を惹く意匠こそ施されていないものの、脚が不揃いな物も多い中、これは均一に削られ、角度をつけると細かな紋様が刻まれている。手触りは滑らかで傷もなく、余程腕の立つ工人が手がけただろうとすぐにわかった。照らし合わせてみると、不思議なほどに納得してしまう。彼女のために作られたかのようだ。
「衆目を魅くことだけが飾る目的ではないんだ」
「郭嘉殿……?」
「うん、やはり誰かの手に渡ってしまうのは惜しいね。店主、これを包んでほしい」
「郭嘉殿!?」
私には過ぎた物です、似合わないです、と散々に卑下する彼女に半ば無理やり押し付ける。屍を積んでも曇らず輝く瞳を知らぬとは、かくも罪深い。それに魅了されているのは自分だけでないのに。
「付け方も知らないのに……」
「では私が挿してあげるよ。―――余人が居ない二人きりの時に、ね」
耳打ちしてやると、大きく肩を震わせて退いた。郭嘉殿!と張り上げる声はいつもの平静を忘れている。今、眼前に居る彼女はみなの知る武人ではない。顔を赤くさせて慌てふためく娘を見て、心地よい悦が胸中を浸す。
「私からのお返しは満足いただけたかな?」
こちらが振り回されるというのは、存外癪に障るようだ。そんな子供じみた想いを込めて。