ある晩のことだ。仕事を終えて襤褸家に戻ると、同居人のあいつが神妙な顔で出迎えた。なんだなんだと話を聞けば「蜂起することを決めた」とのたまった。ここ最近新しい顔が出入りするなとは思っていたが、どうやら一党を築く段取りを話し合っていたらしい。

「今の朝廷では民の明日は変わらない。それどころか更なる惨憺たる光景をもたらすだけだ。―――だから俺は起つ。これ以上、理不尽に泣かせないために」

「それで?」

「そこでお前の力も借りたい。…………だが」

凛々しい顔が唐突に伏せられ、声色が沈む。言葉尻を濁す様に、彼自身の迷いが表れていた。

「俺が進む道は均されていない。お前が傷つくことは必至だ。ゆえに無理強いはせぬ。ただ、心の隅に留め置いてくれると―――いや、お前の意思を尊重すると言っておきながらこれでは矛盾だな。返事はいつでも構わない」

「ふうん……。随分めんどくさいことするんだね。あたしゃ協力することは構わんが、なにぶん唐突なのと展開が見えないせいで手に余る話だよ。どうしてそうなったんだか……。だいたいね、民を救うだの朝廷だのそんな仰々しいことはお歴々に任せればいい。あたしらはただの農人、度を超えたことに首を突っ込んでも色良い結果はありゃしない。それはあんたもよくよく知ってることだろうに」

「―――それでも」

翳った瞳に一縷の光が差す。立ち込める暗雲を晴らすがごとく燦々たる光明。そこには何度も目にしてきた、決意を固くする彼の姿があった。こうなったからにはどんな言葉も軛にならないんだろう。

「それでも、俺は悲痛に死んでいく彼らを見捨てられない。ただ産まれただけというのに、なぜかくも責め苦を受けねばならぬのか。これでは産まれぬ方がよかったではないか、そう思ってしまう時代は終わらせたいのだ」

お人好しも極まると組織さえ興してしまえるのか。彼とは昔馴染みだ、曲がったことを嫌う気性も馬鹿正直にすべてを背負う性癖も知っている。同時にそれが彼を凡人たらしめていることも。だが、凡人の感性では悪路は進めない。早々に足下を掬われ、獣たちに食われるだけだ。そのことを果たして彼は自覚できているのだろうか。

「今更止めろと言っても聞かんだろう、あんたは」

厄介な男だ、と呆れて首を振る。昔もあったな、似たようなことが。一人の旅人が盗みを働いて捕吏に連行されていった。その後、旅人は濡れ衣をかぶせられたと知ったこの男は、よせばいいのに捕吏に直談判して、無実の証拠を集めて苦心の末にその旅人を助けた。言うは易しだが、一人の人間を助けるのは途方もない労力だ。しかも役人が絡むとなれば尚のこと。一歩間違えたら自分も獄へ繋がれかねないのに、この男はそれも承知して動く。周りには聖人君子と映ろうが、自分は手放しに賞賛できなかった。それではこの男は誰が救ってくれるというのか。

「まあいいさ。知った以上は乗ってやろうじゃないか」

「……いいのか?」

「自分から振ってきたくせして何驚いてるんだい」

「協力してくれることは有難いが、俺としてはお前は断るだろうと考えていた」

「あんたに迷いが僅かでもあれば乗らなかったけど、そうじゃないみたいだし。覚悟決めてんなら反対も拒否もしないよ」

昔、不作を理由に身寄りのなかった私は村落を追い出された。年頃はだいたい十二くらいか。人買に売られなかっただけでも御の字だと思い、着の身着のままこの村に流れ着いた。沃土と呼べる土地でもなかったので、受け入れに渋面を見せる村長だったが、そこをこの男が身元を引き受けると進言したのだ。全くの他人で面識も恩義もない関係。長も自分も驚いた。同じ年頃の娘を追い返すのは忍びない、と言って私の世話の一切を一手に引き受けたのだ。こういった経緯があるため、求めを突き放すつもりはなかった。ただ、今回ばかりはやることが壮大かつ難なくといきそうにないため躊躇した。が、本人の意思がここまで固い以上はこちらが折れるしかない。

「お前には助けられてばかりだな。……だが、お前が傍に居てくれるのは情けない話だが心強いんだ」

眉尻を下げて微笑むこの男を誰が救うのか。知れたこと。それは自分の成すべきことだ。




―――黄巾党の名が周知されるまでに至った今日この頃。一介の民間組織は今や師団をいくつも抱えており、理不尽に喘ぐ民衆を助けんと一党を興した棟梁は「大賢良師」などと呼称され、戦の折には「天公将軍」と仰がれている。いち農民が大きくなったものだと感心する反面、近頃気になることが出てきた。

「入るよ」

天幕を分け入れば、几に広げた地図に向かって腕を組んでいる張角が居た。相当思慮に耽っているのか、眉を顰めて微動だにしない。再度声をかけると、ようやく身動いだ。

「ああ、名前か。どうした」

「どうしたじゃない。あんたがあたしを呼んだだろうに。耄碌かい?早いねえ」

「そう、だったか?……いやそうか。すまん、今回の陣容に見落としや誤りはないか確認していたんだ」

「あんま根を詰めすぎるんじゃないよ。棟梁様の代わりは居ないんだからね」

「……ああ」

「で。用事はなんだい」

「斥候からの情報を知りたい」

「朝渡した情報通りだよ。依然変化はない。陽動が上手くいけば苦戦せず落城できる戦だ、大丈夫」

「そうだといいのだが……」

「…………、まったく。棟梁たるあんたがそんな暗い顔してどうするんだい。同じになれとまでは言わないが、玉台にふんぞり返るお偉方を見習いな。今のあんたにゃそれが必要さね」

「―――時々、お前が羨ましくなる」

「あたしが?」

出し抜けの言葉に目を丸くした。首肯してみせた彼が二の句を紡ぐ。

「自分が歩いているこの道が果たして正道か。困窮する民草を救えているのか。一人の夜は特に考え込んでしまう。その際、お前のように胸中を実直に打ち明ける強さがあればと思ってしまうんだ」

驚いた。彼が自分をそんなふうに評価していたなんて。他人を慮りすぎて自分の心情を二の次にしてしまう彼と比較すれば、確かに自分はあけすけな方と言えよう。それを美点と評して羨むとは。同時に得心がいった。近頃ちらつかせていた翳りはこれだったか。呆れも湧いてくる。

「思うことあるならあたしを呼ぶなりすればよかったろ」

「一党の長が甘えるなど……」

「何言ってんだか」

うじうじ食い下がる彼の額を堪らず指弾した。痛みに低く声を上げ、そこを抑えて身動ぐ。何するんだといわんばかりの彼に溜息が自ずと出た。

「―――寝食を同じくする以上は我らは家族。家族に遠慮は要らない」

彼の目が大いに揺れる。

「あたしを受け入れた夜、あんたが言ったことだよ。あたしは家族なんだろ?」

「……そうだな。お前は俺の家族だ。梁と宝と同じ、俺の家族。…………すまぬ、またお前に助けられてしまった」

「あんたの泣きっ面は見慣れてるんでね、これくらいなんてことないさ。―――それよりも、だ」

話を切り上げた自分に、彼は目を丸くする。

「戦が終わった暁にゃ美味い飯を食べよう。梁と宝も誘って」

数多の命は彼のために散っていった。だが、剣となったあたしが居る。盾と矛になった弟たちが居る。そして彼にはまだ明日がある。なら明日を紡いで、己の意思も亡くなった同胞の遺志も示さなくてはならない。大丈夫だよ、張角。あんたは道を踏み外さない。あたしが踏み外させない。自分の言葉に頷いてみせた彼の目には、翳りは見えなかった。