子桓様に見初められ、宮中に連れられて半年が過ぎた。しきたりなんてないに等しかった環境で育った私は、宮中の細かい序列や規則は慣れるのにかなり苦労したけど、侍女に恵まれたおかげで馴染みつつあった。ただ一つを除けば、とても充実していた。
「今日こそ張コウ様に判を押していただけるような文章を考えてきました!」
「おのが伴侶のため日々研鑽を怠らない。その姿勢は何よりも美しいですよ」
「ほ、ほんとうですか……?子桓様もお褒めくださるでしょうか」
「勿論!妻の愛を拒む夫が居るでしょうか!」
「……張コウ様にそう言われると勇気が出ます」
「ええ、ええ。それでこそあなたの語彙向上に付き合った甲斐があるというものです」
嫣然と微笑する張コウ様に、思わずうっとりしてしまう。私は日々「美」を磨く彼に師事している。最初は「教えられるほどではありません」と拒む姿勢だったが、連日熱心にぶつかっているうちに折れてくれて、今は彼に美しい言葉というものを教えてもらっている。自分が育った環境は花一つ満足に根付かない峡谷であり、その日を生き抜くだけで精一杯だったものだから、子桓様のような教養なんてなく、彼に詩を贈られるたび「凄いですね」しか返せないでいた。それでなくても、あの方は飾ることなく褒めてくれるから恥ずかしくなってしまいまともに顔も見れないのに、挙句気の利く詩一つ返せないとあってはいつ愛想尽かされてもおかしくない。綺麗な衣に包まれているだけでは、あの方はきっと満足されない。
「子桓様は水母娘娘様のように―――」
「お待ちください」
「はい!なんでしょう、張コウ様」
「何故、水母娘娘を?」
「私の郷里では水は大変貴重だったため、みんな水母娘娘様を信仰していたんです。雨が降れば水母娘娘様のお恵みだと言ってちょっとした祭りになりました」
「気持ちはわかりましたが、ここは一つ、角端などどうでしょう」
苦い顔して言うのでその部分を角端に変更した、曰く「黒い毛並みの麒麟で、賢徳ある君主の前に現れる瑞獣」とのこと。それでも水母娘娘様の方がいいことは否めなかった。
「とても良い女神様ですのに……」
どこか後ろ髪を引かれながら、残りの文章を張コウ様に添削してもらった。
添削が終わり私室に戻った私は、早速ダメだしされた箇所を直すことにした。張コウ様によれば、私には優美さが足りないらしい。
「優美とは無縁な場所で育ったからなのよねえ……」
言葉遣いも所作も直そうと思えば直せるが、感性というものはやはり綻びが出てしまう。正そうときつくすればするほどそれは自分の喉を絞める行為に繋がってしまうし、かと言って昔の感性のままではとても子桓様にお返しできる文章は作れない。美しさってなんだろう。学者でもないのにそんなことを考えてしまう。うーんうーんと頭を唸らせていると、背中の方で音が立った。
「私の訪いに気づかぬほど、何に気を揉んでいる?」
「しっ、子桓様っ……!」
思いもよらぬ人物の登場に気が動転する。立ち上がった拍子に裾を踏んでしまって前のめりになった上体を、間髪を容れず抱きとめてくれた。
「お前は会った時と何も変わらないな」
薄く笑う様に、出会い頭の過去が蘇る。郷里は峡谷なため酷い悪路が続き、油断すれば落命することもある。そんな場所を進行していた子桓様の元に落ちたのが、足を滑らせた私だった。恐ろしさは理解していたつもりだったのに、運悪く足場が崩れてしまい、そのまま急降下。子桓様一行が進行してくださらねば呆気なく潰れていただろう。恐怖すると共に高所から落下したにも関わらず、私を抱きとめ且つ無事でいた子桓様の強さには、私も郷里のみんなも感服せざるをえなかった。ほんとうは私の一族を傘下に迎え入れるべく向かっていたらしいのだが、私の一件で族長は快諾したということで、度々子桓様からは「お前は福を運ぶ女だったか」と仙女さながらに慈しまれることがある。私からすれば自分の失態を掘り返されてるようで、少々居た堪れない。
「す、すみません……」
「謝るな。飛び回る姿を見るのは存外目の保養になる」
「そんなに飛び跳ねてますか、私」
「儁乂に師事しているようだしな」
どきりと心臓が不自然に跳ねる。一瞬黙ってしまったのを肯定と見なしたのか、子桓様は口端にうっすら笑みを乗せる。こういう時の子桓様は、大抵意地の悪いことを考える。元々は彼への返礼のつもりだったのだし隠す必要はないのだが、ダメだしばかりの不完全な文章を晒せるほどの肝は備わっていない。
「……張コウ様の美を学び、子桓様のような綺麗な文を作ろうと思っていたんですけど、今日もまた上手く作れず……。あの、またの機会にお見せするというのは……」
「今見せろ」
「ほんとうに不恰好なのです」
「構わん」
「子桓様」
「そも、それは私に見せるために作ったのだろう。ならどこもおかしくないと思うが?」
「お、お見せするのはいいのですが、せめて明日に……」
「一日延ばしたところで変わらん。私はお前が作った文章が見たいのだ」
こう言われては反抗の意味などなく、私は了承する他なかった。迷ったけどありのままの文を見せることを選び、心苦しいが張コウ様の訂正を改めて直した最初の文を披露する。牀に腰掛けた子桓様を前に、つらつらと紡ぐ。静聴していた子桓様は、口を閉じた後も何も言わなかったので、室内は静寂で包まれる。やはり張コウ様に直してもらった文の方がよかっただろうか。冷たい汗が背中を下りた時、初めて子桓様は口元を綻ばせた。
「―――まこと、お前は私の歳寒三友よ」
梢に積もった雪が落ちるような、穏やかな微笑を垣間見た。とくり、と心臓に暖かなものが一滴垂らされる。それは全体に波及していき、やがて胸中が満ち足りたようになる。
「子桓様―――」
思わず手を伸ばした。いくつもの死線をくぐった武人然とした大きな手が、私の小さな手のひらを包み込んだ。子桓様の手の中は乾いていて、それでも暖かく、少しだけ所在無さげに思えた。禅譲を受けた今、子桓様の望めないものなんてないだろう。国も富も名誉も望めばいくらでも手中に収めることができるはず。それでも尚、この人は常に何かを求めているように見えた。何を求めてその手を伸ばすのか、何を見据えてその背中を向けるのか。私に、この方の支えとなれるのか。子桓様、子桓様。私には、政や人の裏は読めません。あなたのように立派な詩一つ、満足に諳んじることができない女です。それでもどうか、置いていきませぬよう。私の心は、あなたの腕の中に落ちたあの時から、どんな厳しい最中でも変わらずあなただけを想っているのですから。そっと目を閉じ、優しい口付けを受け入れた。