官兵衛様は言葉が少ないお方だ。表情も声色も変えず、数少ない言葉に優しさは見えない。歯に衣を着せぬ言動から屋敷に勤める女中らは、彼を一様に恐れている。かく言う自分もそうだ。いつ不興を買ってしまわぬか戦々恐々。だから眼前の光景に胃が苦しめられていた。
「―――なんて顔してるの。まるで病人みたい」
くすくすと転がす笑い声で、はっと我に返る。敷かれた布団には、官兵衛様のご令室である名前様が厚着をして横たわっている。もくもくと湯気をくゆらせる湯呑みを取り、悪びれながら差し出す。
「も、申し訳ありません……」
「いいのよ、ただの冗談だから。こんな天気ですもの、考え事が捗ってしまうわよね」
僅かに開けられた襖の向こう。剪定が行き届いた庭が広がっている。一刻前の雨が嘘のような快晴ぶりで、草木は雫を垂らして照っている。濡れたからだろうか、普段に増して青さが際立って見えた。体を冷やしてしまうと襖を閉じようとしたが、名前様に押し切られる形で半開状態となっている。
「雨に濡れた庭って綺麗よねぇ。私ね、雨後の散歩が好きなの。土と草の青臭さとひんやりした空気が新鮮で」
「いけませんよ。今外に行っては熱までお出しになってしまわれます」
「……、少しも?」
「奥様」
「はいはい」
悪戯を叱られた童のような笑みを浮かべる。ほんとうにわかっているのだろうか。つい先程までたわいない雑談をしていたが、突然咳き込まれてしまったのだ。横になった甲斐あって今は落ち着きを見せている。茶を啜って肩の力を緩める。
「あなたの淹れるお茶って美味しくて好きだわ」
「そんな……。恐れ多いことです」
「謙遜しなくていいのに」
ふと襖の前に影が立つ。暗くなった室内に、奥様とも自分とも違う第三者の声が割って入った。
「―――私だ」
官兵衛様だ。思いもよらぬ人物に自分も奥様も目を丸くしていたが、奥様の入室を許可する声でさっと隅へ移動する。同時に官兵衛様が姿を現した。色鮮やかな花たちを背負っても彼の異様さは目立つ。むしろ不釣り合いな分、異色は増すばかりか。月に一度帰ってくるかどうかで、それも夜間の数刻が大半の彼が、空の明るいうちに帰邸している。叱られまいかと恐々とした気持ちで床を眺めた。
「お茶を持ってきてくれる?」
奥様にそう言われ、さっと立ち上がった。思えば、官兵衛様にお茶を淹れるなんて初めてかもしれない。厨へ向かう足取りが追うごとに重くなる。奥様にはああ言われたけど、口に合わなかったらどうしよう。叱責で終わってくれるんだろうか。最悪暇を出されたら。茶人に泣きつきたい気持ちを引き剥がして湯呑みを盆に乗せる。下男に訝しがられたが、説明したら慰めるように肩を叩かれた。毒にも薬にもならない慰めを受けて見送られた私は、とうとう奥様の私室前に差し掛かった。
「―――温泉に行ってみたいです」
一歩、前に出そうとした脚がぴたりと止まる。どうやら雑談しているらしい。片方の声が聞こえないので、一方的なものだろうが。官兵衛様が雑談なんて考えもできない。そういうのひっくるめて無駄口だ、とか嫌悪しそうだ。
「ご存知でしたか?近くに病に効く温泉があるそうなのですよ。蜜柑と一緒に浸かってみたいですね」
「何故そこで蜜柑が出てくる」
「温泉に浸かりながら食べる蜜柑は格別なのだとか」
私の話だ。以前、奥様に話したことだ。名湯のある地で生まれ育った私は、その地域ならではの作法を訊ねられた。それを官兵衛様に話すなんて。怒られてしまわれないだろうか。茶のことも忘れ、完全に聞き耳を立てていた。
「快癒したら行けばいい」
「まあ。でしたら今からお着物を決めませんと。夫婦初めての遠遊ですから気合いが入りますね」
「……何故私が出てくる」
「まさか私おひとりで遠出しろと?」
「護衛と使用人が居るだろう」
「私はあなたと遠出したいのです。夫婦なんですもの、たまには水入らず過ごしとうございます」
「まずそれを治せ」
今の私はおそらく口を開けたまま立っているに違いない。だってあの官兵衛様が遠出を了承しただけでなく、妻の容態を気遣ったのだから。呆気にとられていた自分だったが、お茶のことを思い出して声をかける。どうぞ、と促されて襖を開けた。官兵衛様の前には饅頭が数個置かれていた。もしや奥様の好物なんだろうか。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう。来て早々に申し訳ないのだけれど、少し二人にお願いできるかしら」
「は」
官兵衛様の傍に湯呑みを置いて退室する。少し歩いたところで中から奥様の声が聞こえた。
「飲んでみて。彼女ね、淹れるの上手なのよ」
飲む前から期待を上げられることってこんなに苦しいものなのか。若干の気恥しさも出てきて肩が縮こまる。しばらく返答がなく静かだったが、ふいに一言。
「ああ」
自分の中に築き上げた官兵衛様像が音を立てて崩れていく。少しだけだが、彼の為人の一端に触れられた気がした。