いつでも迎え入れる準備は出来ております
本編→過去編→本編の時系列。
口調、一人称捏造してます。
澄んだ小川を想起させる清廉な笛の音は、唐突に終わりを告げた。
「……どうした」
伏せていた目蓋を上げれば、笛を下ろして物言いたげにこちらを見る我が妻の顔が入った。
「我が君は藤を前にいつもこの曲を演奏させますわね」
眼影に彩られ形のよい目が庭へ向く。孟夏の日差しが降り注ぐ園林には、一本の藤の木が立っていた。野放図に細腕を伸ばし、垂れ下がる枝には無数の花をまとっている。寄せ合う花らは風にそよぎ、さざめく。
「一体どなたを考えておりますの?」
含みのある笑みにふっと口角を崩す。
「―――姉上だ」
予想外の人物に、目を丸くさせる。
「……確か若くしてお隠れになった方ですわね」
「ああ。この曲を好んで奏でていた」
「このような難しい古曲をお選びになるだなんて、きっと楽の才があったのでしょうね」
「事実、姉上が師事する怜人は口を揃えて己の力量不足を理由に離任を申し出たらしい」
「まあ……。それほどの方だったとは。ぜひ共に奏でたかったですわ」
「一度聴けば怜人たちの心境も理解できよう。確かにあれは正すことはできんだろうな」
「……楽が苦手でしたの?」
「不得手には収まりきらんほどに姉上の腕は壊滅的だった」
「まあ……」
「聴くに耐えん温習によく付き合わされたものよ」
遠くに咲く藤に目を遣る。さらさらと花弁を揺らし、細やかな音を奏でる。柔らかな風に運ばれ、やや甘い匂いが鼻先をくすぐった。遊ぶように、軽やかに。彼女が好むわけだ。脳裏に蘇るのは、藤の中で嫋やかに微笑む綺麗な姉上だった。
―――自分が姉上と初めて会ったのは自分が十の頃、彼女が十二の頃だ。生来体が弱く、時節の折り目には必ずと言っていいほど熱を出し寝込んでいたらしい。それも十二になった頃には徐々に快癒の兆しを見せ、半日外を走り回っても平気になった。無理のない範囲であれば自由を許された姉上は途端俺に構うようになった。
「子桓!姉様が遊びに来たのにご本読むなんて!こんなにも晴れているのだから園林に降りましょうよ」
「退屈でしたら他の弟妹の下へ行けばよろしいかと」
「子脩、鑠は共に遠乗りに出かけて留守だし、子建は詩文に夢中だし、節たちは市井へ出払っていて子桓しか居ないの」
「見事に誰にも相手されていませんね」
「いいのよ、彼らにはまた顔出すから」
「私も勉学に忙しいのですが」
「だから来たんじゃない。ここ最近外に出て居ないんですってね。女官から聞いたわ。たまには息抜きしないと駄目よ」
「姉上は反対にもっと勉学した方がよろしいでしょう。また怜人を泣かせたと聞きました」
「曲を奏でるのって大変だわ……。でも諦めるのは早いと思うの。練習を重ねれば先生にもきっと戻ってきてもらえるわ!」
と意気込んでみせるが、これを言うのは一回や二回程度ではない。記憶しているだけで五人もの怜人が彼女の下を去っていったと聞いている。それでも何が彼女を駆り立てているのか、上達しないと自覚しながらも一向に笛を手放そうとしない。
「そうだわ」
閃いたように声を張る彼女に、内心げんなりしながら目を遣る。
「曲ならここでも奏でられるわ。いつも頑張ってる子桓のために姉様頑張るわね」
嬉々として笛を取り出してみせたので、素気無く止めた。音律がぐちゃぐちゃに乱され、高音とは名ばかりの壊れた音程を聴かされるくらいであれば、大人しく園林に降りる方がよほど健康的と言えよう。高い音によってもたらされた耳痛は二度と味わいたくない。代替案をどう受け取ったのか、ぱっと顔を明るくさせ、笛をしまう。
「―――それなら姉様とっておきの場所に連れて行ってあげる!」
そう言って自分の手を掴んで駆け出した姉上は、庭にかけられた欄干を通り、池を回り、亭を過ぎて、石に足を取られそうになったのを支えながら木々の間を抜け、ようやく歩が緩まりを見せた。自分の私室からかなり離れて奥まった場所に来たようだ。人の気配は薄く、官吏の話し声といったものも葉音一つに隠されてしまう。予想外に歩いたせいで体は熱を帯び、手のひらがじんわり湿った。望んだ場所に着いたにも関わらず姉上は掴んだ手を離そうとはせず、くいくいと引っ張り再度歩き出す。壁を曲がったところにそれはあった。よく見かける普通の木々の間から頭を垂らしている一本の木。地面につくんじゃないかと思うほど花をぶら下げ、春の柔らかな風に吹かれて波打った。見上げる自分の耳に感嘆の声が届く。
「ね。凄い綺麗でしょ?これを子桓に見せたかったの」
「藤、ですか」
「ええ。でももっと凄いのは中で立ってみるとわかるわ」
言うや否や駆け出す。丈夫な体でないから負荷をかけるな、との大医の言をすっかり忘れているらしい姉上は、藤の花の中に飛び込む。手を掴まれている自分も必然的に飛び込むこととなった。見上げる姉上は何処かうっとりした顔で相好を崩す。
「見上げてみて、子桓」
言われるがまま仕方なく顔を上げると、紫色の花の先が間近に迫っていた。
「こうやって見ると藤に抱かれているみたいよね」
「姉上はいつもここに訪れているので?」
「体調がよくて、小うるさいお目付け役が居ない時はね。私ね、藤の花が好き。とっても綺麗でこんなにも近くに居るんだもの」
そう言って笑ってみせた姉上は、藤の花に隠されてよく見えなかった。
夏を過ぎ、徐々に冬の寒風が吹き始めた頃。風邪を引き、熱を出した。虚弱な姉上ではあるまいし、と常々彼女を呆れて見ていた自分がこうなるとは。世辞にも色良く言えない薬湯を流し込み、牀の上で横たわる。大医曰く「風に冷やされたんでしょう。安静にしていれば一日で治る」とのこと。窓を閉め、布をかぶっているとは言え、悪寒はあった。不快な寒気が身を震わせ、考え事もままならない。吐く息は熱く、全身汗ばんで落ち着いて眠れそうになかった。動悸がうるさい。少しの音も煩わしく感じ、気分は乱高下を繰り返す。彼女もこんな感じだったのだろうか、とらしくないことが脳裏を過ぎるほどに平常心を手放していた。それでも余人は居ないのだからまだいい、となんとか意識を黙らせようと奮闘すると、私室の扉が音を立てた。
「誰だ!」
女官には決して誰も居れるなと命令しておいた。それでも尚立ち入るなら、それは敵だろう。忍ばせた懐剣を握り牀から上体を起こす。眩暈を覚えてふらついた自分が見たのは、我が姉の姿だった。
「驚かせちゃってごめんなさい」
「……何故来たんです、姉上」
今度は別の意味で眩暈を覚える。というのに肝心の彼女といえば悪びれる様子もなく、持っていた提盒を前へ突き出し、ぱたぱたと駆け寄ってくる。
「料理長に頼んで薬膳を作ってもらったの。何も口にしていないと聞いたから」
「要りません」
きっぱり断った自分に、姉上はむっと眉根を寄せて険しい顔になる。
「駄目。体が万全でない時こそ少しでも食べないと治りが悪くなるわ」
「薬なら飲みました。空腹でもない今、それを食べたところで治りには影響しません」
「あら、そんなことないわ。食事ってお腹が空いたから摂るものじゃないのよ」
「……ではなんだと言うのです」
「私は元気を貰うために食べてるわ。薬って苦いでしょう?いくら体によいからっていつも薬飲んでは気が滅入るわよね。けれどね、間に食事を挟むことで元気になるのよ。美味しいものをたっくさん食べるために頑張ろうって、そう思えるの」
だから薬だけなんて言わないで少しだけでいいから食べて、と提盒を近くの几に置く。正直言って食指は進まない。倦怠感がまとわりつき、ご飯を飲み込むくらいならさっさと寝てしまいたいと思った。けれど蓋を開けて漂ってきた粥の温かな匂いに腹が鳴ってしまう。言葉でこそ指摘しない姉上だったが、顔はそれ見た事かと言わんばかりであった。所詮持論だ、と片付けるにはいかない空気を感じた。小さく息をつき、牀から足を下ろす。
「……少しだけです」
自分の意見が聞き入れられたのがよほど嬉しかったのか、ぱっと目を輝かせ「ええ!」と気色ばむ。食べさせようとまでする姉上を制し、食べれるところまで手を動かした。半分ほど食し、牀で横になる。食べたばかりとあってか悪寒はなく、心地よい温かさに全身が包まれた。不快な熱感ではない。
「なんですか」
「寝付くまで手を握っててあげる。安心して寝られるでしょう?」
「姉上と違い、私は一人でも寝られます」
そう言うと目に見えて驚く姉上。
「子桓は立派ね。姉様が子桓より小さい頃は、母様が傍に居てくれたらとよく願ったものよ」
「―――劉夫人ですか」
姉上は父の最初の正室、劉夫人との間に生まれた。若くして亡くなったため気性などは伝聞でしか知らない。それは姉上も同じのようで、いつぞやそのことが話題に上がった時、姉上は「私も母様のことはあまり覚えていないの」と物憂げに言っていたことを覚えている。表立って実母を語ることはしないが、折々に見せる顔はやはりそうとしか見えなかった。
「でも卞氏様に大変よくしていただいてるから寂しくないわ」
「わざと持ち上げる必要などありませんよ、姉上」
「そんなつもりは―――」
「ご自分の実母を求めることを咎めるほど暗愚ではありません」
「子桓……」
目を丸くした様に、心外だと思った。それほど子供なわけでも狭量でもない。表立って吐露しない胸裡を一滴こぼした程度、自分はなんとも思わない。それよりそれを咎める人物だと思われたことの方がよほど腹の虫を騒がせた。
「…………やっぱり子桓は立派よ、流石ね。姉様も鼻が高いわ」
あまりにも嬉しそうに言うものだから毒づくことはできなかった。
「これは姉様の我儘なのだけれど、子桓が寝付くまでこうしててもいいかしら。子桓と手を繋いでいると安心するの。駄目?」
いつも自分の可否など意に介さないでしょう。平常時であればそう言って突き放していたが、今日はなんとなくその気が起きなかったので「勝手になさってください」とだけ言って目蓋を下ろした。意識が徐々に微睡みに沈む中、聞こえたのは「ありがとう」という掠れた小さい声だった。
自分が十五、姉上が十七の頃。姉上が倒れたとの報が駆け巡った。母が父に頼んで何人もの大医に診せるが、いずれも色良いことを言わないらしい。半年持てばいい方だと宣告された、と侍女から聞いた。折を見て姉上の私室に寄る。倒れてからというもの、できるだけうるさくしないように余人を近づけていないらしい。姉上が望んだことか父母の配慮かはわからない。姉上の私室は自分含め他兄弟らとは違い、邸の奥まったところに隠すようにしてあった。周囲は様々な花が咲く園林で囲まれ、葉擦れの音だけが響く静寂な空間だった。水が張った桶を抱えて出てきた侍女に容態を訊ねれば、どうやら今は落ち着いているので多少であれば話すことも可能、とのこと。入れ違いで扉を軽く叩く。
「姉上。子桓です」
室内の印象としては、質素ここに極まれりであった。飾り立てることを好まない気性ゆえか室内の調度品は数える程度でしかなく、目を癒すような彩りなどは見受けられなかった。全体的に暗い色で調えられたその奥。牀の上で横たわる姉上が「子桓……」と自分の名を呼ぶ。風に掻き消されそうなほど弱かった。近寄り、近くの榻に腰を下ろす。体を冷やさないようにと衣を着込んでいるものの、頬肉はげっそりと落ち、顔は土気色に近かった。
「子桓から来てくれるなんて初めてね。嬉しいわ―――」
破顔した姉上だったが、途端激しく咳き込む。喉からは擦るような掠れた咳が出続け、落ち着くのに時間を要した。ふう、と胸を撫で下ろす姉上を見兼ねて腰を浮かす。
「体調が優れないようなので私はこれで―――」
「待って」
退室しようと立った自分の指を掴む姉上に、動きが止まる。その手は酷く窶れており、かつての強さなど微塵も感じられなかった。ほんの数年で人はこうも変わるのかと胸が軋む。今にも落ちそうな細い指を掬い上げ、再び腰を下ろす。姉上はそれに安堵を露わにする。
「せっかく来てくれたんだもの、何か話したいわ……」
「無理を押すと体に響きますよ」
「それでもいいわ。子桓に何か遺していきたいの」
「……どういう意味でしょう」
ぴく、と眉間に力が入る。気づいていないのか、姉上は力ない笑みを浮かべるだけだった。
「ついぞあなたに笛を褒められることなかったから……。他のものしか遺せないの」
「弱音とは姉上らしくありませんね」
「…………そうね、私も思うわ。でも目を逸らし続けるわけにはいかないじゃない」
一区切り打ち、深く呼吸する。どうやら続けて喋る体力も残っていないようだ。
「―――私ね、昔はいつ死んでも構わないって思ってた。……いいえ、早く死んで母様の元に行きたいと願ってた」
ぽつぽつと語り出す胸中は、瞠目するほどに普段の彼女からかけ離れていたものだった。
「でも弟妹たちと会ってから死ぬのが怖くなったわ。同じように、死ぬなら何か遺していきたいと思うようになったの。―――子桓、あなたは特にね」
「何故?」
「あなたは昔から人の機微に聡い上、人に本心を打ち明けないからよ……。その強さが万人に等しく映るわけではないでしょう?……だから心配なの」
「病褥に就いて尚、弟の心配ですか」
「弟離れできてない駄目な姉様よね……」
寂しそうに見える顔にしばらく考え込み、それから窓の外へ顔を向けた。
「遺すと言うのであれば、あれを」
それは藤の花だった。今は花を落とす時期であるため、紫に色付いた花はすべて地に落ち、一糸まとわぬ樹皮のみが腕を伸ばしていた。
「そうね……、ちょうどいいかもしれないわ。あれを姉様だと思って大切にしてちょうだい―――」
掠れた咳を何度も吐き、しまいには血が混じるようになった。榻から立ち上がった自分を姉上が止める。細い指が自分の手首を掴む様は縋るようであり、誰かを呼びに行かなければ手遅れになると理解していて尚、こちらを見上げる姉上の眼差しに微動だにできなかった。
「いいの、いいのよ……」
知ってか知らずかゆるりと首を振り、目を細めて笑う。こんな時でさえ笑うのか、あなたは。言葉に表せない感情が胸の内にとぐろを巻く。
「―――逝かれるのですか」
こちらの問いかけには、曖昧に微笑んでみせるばかりであった。
「子桓。私の可愛い子桓。姉様はいつでもあなたの傍におりますよ。いつかあなたが眠る時、姉様が迎えに行くわ」
病人の顔など大抵蒼白いものであるのに、眼前に重なったのは、昔藤の腕に抱かれて微笑んだ一人の美姫だった。
―――何処からか聞こえてくる笛の音。調子の外れた、世辞にも上手とは言えない音色。高音は騒がしいだけで耳痛を起こし、息の調整が下手なために音が切ったように途切れる。実に不愉快な音律だった。我が妻の音を聞いて尚、やはり上達しなかったようですね、姉上。調子が外れた音を真剣に吹く姿が蘇り、ふっと口元が緩む。さささ、と葉擦れが重なった。動かすのも億劫な体に力を入れ、目蓋を開ける。飛び込んだのは房の外に植えた藤の木だった。季節外れというのに樹皮にはいくつもの花弁がなっており、風に揺らされ宙を泳いでいる。その中から一人の影を見つけた。笛を口に宛てがい、神妙な顔つきで指を動かしている。奏でられるのは当然のごとく不協和音ばかり。堪らず失笑する。
「……ほんとうに下手ですね、姉上」
こぼすと、窘める声が聞こえたような気がした。錯覚か事実かなど小さきこと。息を吐くに従って胸がゆっくりと沈む。肌を覆う布の感触、目蓋の裏に射す光、室内の匂い、薬湯の苦味が次第に薄れていく。意識がぽつぽつと途切れるようになった時、ただ一言。「お疲れ様」という懐かしい声が聞こえた気がした。