幸せだね、きっと、きっと
二人が住む故郷は、青々と茂る野が広大に延びる場所だった。ぽつぽつと生えるようにして建つ家々は、横たわる山脈に抱かれており、はるか先の山頂には薄く雲がかかっていた。疎らに漂う雲の間合いから陽光が注がれ、草花は朝露を浴びて輝く。山間の集落を進んだ先には段差があり、それを登ると一軒の家が顔を出した。下段の民家とは一線を画す造りのそれには門塀が設けられており、前には守衛とおぼしき男が二人立っていた。自分を認めるや否や破顔させ、うちの一人が門の中へと駆けていく。しばらくして―――。
「名前、久しぶりー!」
「お久しぶりです」
幼さを残す甲高い声に、落ち着いたもう一つの声が続く。門塀より現れたのは小喬殿と大喬殿だった。建業に居た頃とは派手さを抑えた衣に身を包みんでいるも、過日と変わらない溌剌さを二人から感じ取れた。目の前にやってきた二人に拱手する途中で小喬殿に抱き着かれ、思わず体勢を崩しそうになる。
「小喬!いきなり抱き着くなんて危ないでしょう」
「えー。だってそうじゃないと名前難しい挨拶するでしょ。あたしあれ好きじゃないもん」
「では礼を省かせていただきます」
苦笑して肩を竦めると、懐の彼女は甚く喜んだ。建業に居た頃より堅苦しい儀礼を忌避していた彼女。今でも健在のようだ。妹がすみません、と申し訳なさそうに眉尻を下げる大喬殿の手によって小さな体が引き剥がされる。
「名前元気にしてた?ご飯ちゃんと食べてる?」
「はい。つつがなく過ごしております。お二人もご健勝のようで何よりです」
「むう……。こっち来る時は友達として来てねって言ったのに堅苦しいなぁ……」
「なにぶんそういう気性ですので……。今日は小喬殿に用向きがあり、参ったのです」
「えっ。あたし?なになに?」
「一緒に来ていただきたい場所があるのです。日が沈む前には戻りますゆえ、同道を願えますか?」
「うん、いいよー!何処行くの?」
「―――長江です」
切り立った岸壁の合間を流れる大河。広大な水面は平らかで、自分たちが乗る舟の後ろには飛沫が上がっている。両側の崖はさながら山脈のような高低差があり、高いところなどは天の雲を突き上げていた。塩っけのある風が吹き、水面に細やかな波が立つ。注がれる陽光が波によって歪む。川面は目の覚めるような飴色に染まっていた。これらすべてが過日の美景と重なり、物悲しさが胸を満たす。
「どうしたの?気分悪い?」
頬に感じた熱にはっと我に返る。
「なんか辛そうに見えたから……」
憂いを湛えて見上げる彼女に「なんでもありません」と返す。心無しか声が固いような気もしたが、彼女はそれ以上何かを言うことはなく「そっか」とにこりと笑んだ。
「小喬殿はここをご存知でしょうか」
「ううん。なんで?」
懐から取り出した笛を構える。あ、と小さく声を漏らした彼女は私の行動の意図を悟って閉口する。燕楽には明るくない自分だが、彼の奏でた音色は深く深く鼓膜に刻まれている。指は自ずと動いた。立つ音は世辞にも彼と劣らぬなどと言えぬ出来だったが、小喬殿は何も言わずただ静かに音に聞き耽っている。一つ、また一つと音程を変える。高く、低く。時に鮮やかに強く、時にほんのりと弱く。彼の笛から奏でられる音が在りし日を呼び起こす。閉じた瞼の裏には彼の後ろ姿が克明に浮かび上がる。彼が目指していたもの、そのために自分の力を求めたこと、降将という立場にあっても冷遇しなかったこと。私を友と呼んでくれたこと。今際の際でこんな自分に大望を託してくれたこと。様々な一面が浮かんでは消えを繰り返す。胸が痛むのは鼓動のせいか感傷的になりすぎたからか。
「ここは周瑜殿と以前訪れた場所なのです」
今は亡き孫呉の大都督・周瑜。自分が呉に降ってから突然呼び出されたのがこの場所だった。見せたいものがある、と仔細のない呼び出しに応じたのはその頃には既に信頼が芽生えていたからだろう。今でも自分の変わりように考え込む時があるが、命運を分つことになるあの選択を後悔したことはない。
「今日は周瑜殿とあなたに気持ちを伝えたくてここに参りました。―――私は夷陵にて劉備軍を迎え撃ちます」
笛の音を静かに聴いていた小喬殿が、ここで口を開く。
「名前はそれで平気なの?」
憂う心を露わにした彼女に、自分は「はい」と首を振る。
「覚悟はとうにできております」
私はかつて蜀漢の将だった。降るに至った理由は城を落とされ、進退極まったゆえ。援軍は呼べる状況になく、かと言って進軍しようにも数多の手勢がやられ、退路も塞がれてしまった。城内には全滅されるよりはいっそ―――、という空気が濃く、城を任された自分は意見を総括し、呉軍に降った。当初は兵士たちを守るべく呉軍に従っていた。しかし時を重ねるにつれて次第と心が傾いていき、かつての同志が蜀へ密かに逃げる最中も自分だけはここに残る決意をした。それは、友と慕ってくれる周瑜殿の存在が大きいからかもしれない。
「私は漢室の臣下ではありません。呉の、ひいては孫家の将。友人のため、あなたのため、孫呉の未来のため。たとえ戦場の露と消えようとも命尽きるその刹那まで、私は自分にできることを尽くす所存です」
友とはここで未来をよく語らったものだ。彼の決意を、それに殉じた仲間を、それを背負って立っている殿を、私は支えたい。微力でも無力ではいたくないのだ。
「……あたし、戦のことよくわかんないけど、名前が決めたことは応援したいって思ってる。でもね、死にに行くことは駄目。あたしが許さないから」
天真爛漫な彼女には珍しい、怒りを感じる声だった。目を丸くする私に、彼女は髪から簪を一本抜いて差し出した。
「小喬殿、これは……?」
「周瑜さまに貰ったの。これ持ってって」
「しかしそのような物っ……!」
「ううん。持っていくの」
固辞し続けても尚、小喬殿は強く勧める。とうとう痺れを切らした彼女の手によって無理やり握らされてしまう。手中で簪の飾りが揺れる。ちりんちりん、と小鈴の清廉な音が散る。白い花のこれは鈴蘭だろうか。
「孫策さまも周瑜さまもみんなも、生きるために戦ってるの。みんなで戦って、みんなで生きるため。そこにはあなたも居なくちゃ駄目。きっと周瑜さまも同じこと言うよ」
「小喬殿……」
「あなたは孫呉の将なんだよね。なら最後まで何があっても帰ってくるために戦って!」
握らせるように私の手を丸める。彼女の手は自分のより小さくて柔らかくて、武器など振るったことのない白魚のごとく可憐な肌をしている。けれど手中に込められた想いの強さは、今は亡き孫呉の大都督を想起させた。
「一人で戦ってても、これをあたしと周瑜さまだと思ってね。無事に帰ってきて返してくれたらいいよ!」
白い歯を惜しげもなく晒して笑うその顔に、胸中が温かく満ちていく。気づけば自分も破顔していた。
「―――はい。必ずや生きて帰ります」
あなたの元に。友の元に。仲間が待つ、この孫呉の地に。