きっと早すぎたのね、とつぶやく吐息


探していた後ろ姿を見つけ、声をかける。私の声に反応して翻った彼は、私を見るや否や顔をこわばらせた。しかしすぐにほぐれ、代わりに自嘲気味というか頼りない笑みを浮かべる。

「ええと、俺に何か用かな」

「孔明からの書翰を渡しに来たの」

「手間をかけさせてすまない。ありがとう」

へにゃりと力ない笑みに一言二言かけたくなったが、それらをぐっと堪える。

「それと。今夜の酒宴はどうする?顔出す?」

劉備様が日頃の慰労をしたいとのことで、今宵宴席が設けられる。従軍している兵士全員を集めるようだから、宴はきっと盛大なものになるだろう。慰労は結構だが、張飛様の酒乱ぶりを思い出して今から肩が重くなった。

「きみはどうするんだい?」

「私?女官だからそりゃ顔出すはめになるけど」

わかりきったことを訊ねる彼は「そう」と暗く呟き、顔に影を落とす。しばしの沈黙の後、彼はにわかに苦笑を浮かべて頬を掻く。

「俺が出席しても場を楽しませることはできないだろうから、房で飲むとするよ」

聞き慣れたはずの自評の低い文言に、けれども沸き立つ感情がある。我慢の限界でなにか言ってやろうと口を開いたところで。

「ええと、すまない。この後行かなければならないところがあるんだ。行ってもいいかな。孔明には後で返書を出すと伝えてくれ」

「……わかった」

返答に満足気な様子を見せ、彼は道の先に姿を消した。



 彼の言伝を携えて孔明の房を訪れる。扉が開けられているので普通ならば立ったところで余人は来訪者に気づきそうなものだが、余人より並外れた才を持つ者の特性なのか、自身の思索に耽ける彼は声掛け程度では現に戻ってこない。扉を数回叩き、名を上げたところでようやく顔を上げる。

「来ましたか」

寝物語を聞かすような低い囁き声が返ってくる。細く開けられた目は常に熱を感じさせず、ともすれば私は少しだけ苦手意識を抱えていた。人の話を聞いているのかいないのかわからないから。けれど彼ほどの自分の悩みに適した人も知らないので、日頃から彼には世話になっていたりする。

「元直はなんと」

「返書は後で出すとのことです」

「そうですか。―――それで、本望は達成できましたか?」

静かに問われ、首を振る。

「酒宴に誘うどころか殆ど会話できなかった。挙句用事あるからって逃げられたし。……ねえ孔明。元直ったらなんで急にこんなに距離取り始めたの?水鏡先生の頃はこんなんじゃなかったんだよ、体感だけどさ」

私と元直、孔明は水鏡先生に師事していた。女だてらに学など、と白い目を向ける他の門下生とは違い、この二人だけは対等に接してくれた。元直が劉備様に降ると聞いてそれに着いてきたはいいものの、私が女官、彼が軍師になった途端、何故だか急によそよそしくなった。それは、自分の興味のある分野にしか目が向かない孔明にもわかるほど明白で、今やそのことを引き合いに出しこうやって孔明の私室に通っている。おかげで私に「あの女官は孔明様と月英殿と夜な夜な怪しげな開発に携わっている」との浮名がつき、同僚の女官たちには一線置かれてしまっている。

「君子防未然、不處嫌疑間。 瓜田不納履、李下不正冠。という言葉を知っていますか」

「君子行の言葉だよね。賢人は人から疑われるようなことをせず、災いを未然に防ぐ者。瓜田で沓を履き替えたり、李下で冠を正したりしないように。昔、商人に盗む気か!って怒鳴られたことを先生に愚痴ったら教えてくれたから覚えてる。懐かしいなあ……」

柑橘を一つ買おうとして持ったまま袂を漁っていたら、わざと身振りを大きくして気を逸らす間にそこに入れて逃げる気なんだろ、と勘違いした商人に怒鳴られたのだ。負けん気強かった自分は喧嘩を売られたとこれまた勘違いして、商人と怒鳴り合いからの取っ組み合いにまで発展した。それを止めたのは騒ぎを聞きつけた元直だったのだが、止めに入った彼を両側から拳を入れたのは今でも反省している。あの後すぐに熱が冷めた私は彼の手当をしたのだが、腫れはしばらく引かなかった。そのような一連の出来事を先生に雑談の最中に言ったら、上記の俚諺を教えてくれたのだ。余談だが、商人とは先生の取り無しでお互い謝罪して和解した。

「でもそれ今関係ある?」

「彼は人に優しすぎる反面、変なところで疑り深いですからね。気を払うに越したことはありません」

「気を払うと言ったって、私そもそも親しくしてる人なんて居ないよ。同僚に距離置かれてるくらいだし」

「ふむ……」

羽扇を軽く扇ぎ、閉口する。こういう時の孔明は何かを考えている証だ。何か秘策でも与えてくれるのだろうかと期待して待つ。師を同じくしても才までは並ばない私の頭と違い、彼は稀代の軍師。それに元直をよく知る人でもある。きっと妙策を生み出すに違いない。そう思っていたのだが、しばらく考え込んだ彼が放った言葉は。

「今宵の酒宴にはいつも通り顔を出しなさい」

と、それだけだった。聞き返す余裕も与えてくれずに房を追い出され、納得しないまま己の仕事に戻るのだった。



 点々と瞬く星が綺麗な夜空。月は惜しくも薄雲がかって美しさは霞んでしまっている。しかしそんな情緒や風情などは、大飯食らいの男たちの眼中にはまるで無いようで。酒を新たにした側から替えを頼まれ、私を含めた多くの女官たちは休みなく走らされた。厨房に顔を出し酒と料理を頼むことわずか数回で要望を覚えられ、しまいには足音を聞いただけで意図を掴んだらしく、顔を出すと同時に「酒かい?料理かい?どちらにしろ待っとくれ」とおざなりに対応されるまでに至った。老体に鞭打って悪いが苦情はすべて劉備様にお願いしたい。湯気が立ち上る出来たての料理を手に、いそいそと房へ戻る。何百人と入りそうなほど広い房は道の遠い先にあり、数えきれないほど往復した脚は限界を迎えようとしていた。宴の歓声はここにも届くので、盛況ぶりを考えるに終わりはまだないだろう。大広間に入ると賑わいの声は廊下に居た時よりも大きく聞こえ、凄まじい熱気と酒の匂いに酔いそうになる。ちょっとまずいな。許可もらって夜風に当たってこよう。賑わう広間を他所に抜けようとしたところ、突然腕を掴まれた。

「お前もこっち来て飲め!」

張飛様だった。酒がだいぶ回っているのか顔は赤らんでいて、彼を囲むようにして空の瓶がいくつも転がっている。想定した悪夢が現実のものとなってしまった。泣きたくなるのを堪えて窘める。

「お誘いは嬉しいですがね、私まだ仕事が残ってまして……」

「なんだあ?俺の酒が飲めねえってのかあ?女のくせに生意気な!」

「ええぇぇ……。そんな殺生な……」

剛力無双と謂われている六尺ばかりの巨漢に腕っ節で敵うはずもなく、私は結局酒宴の席に無理やり座らされてしまった。通りかかった女官の一人と目が合うが、即座に顔を背かれてしまった。完全に触らぬ神に祟りなしである。悲しい。

「おら飲め飲め。今日は兄者の大盤振る舞いなんだ、飲まなきゃ逆に礼を失するってもんだぜ」

「よくそんな難しい言葉を……」

「ああ?何か言ったか?」

「いえなにも」

「いーから飲めや!」

「むっ……!?」

よもや瓶ごと口に押し込まれるなど、誰が想定できただろうか。大木の幹のごとき腕を叩くも緩む気配はなく、その間も滔々と酒が流れてくる。焼けるような喉の感覚に視界が明滅するが、酔った彼に私の状況などまるで見えちゃいない。流石に息が苦しくなって身を捩れば、瓶との間にわずかな隙間が生じる。

「ごほっ……!ごほっ……!」

「なんだお前、酒弱えのか。情けねえ!」

激しく咳き込む私の背中をばしばし叩く張飛様。痛い、痛すぎる。関羽様ならいざ知らず、練武を積んでいない女官の体は彼の怪力を受け止める造りになっていない。心臓に直接響くような痛みと振動が加えられる都度、呼吸が跳ね上がる。さっき飲まされた酒のせいで視界もぼやけてきた。彼の酒乱ぶりは兵士の間にも知られているが、あんまりだ。熱を帯びた頬を滲んだ涙が伝う。

「ちょ……ひさま……。い、痛い……っ」

「―――親父!!何してんだよ!」

突然割って入った怒声が、背中を叩く腕を止めてくれた。ぜえぜえと息を整えながら後ろを見ると、慌てて駆けつけてくれたらしい彼の子息の姿があった。

「名前はただの女官なんだぞ、親父の調子についていけるわけないだろ!見ろよ、すっかり息が上がっちまってんじゃねえか」

「おい張苞。おめえ、いつから俺にそんな口叩けるようになったんだ?ああ?」

「あー、完全にできてんなこりゃ。すまん、親父が迷惑かけて……」

「い、いえ、大丈夫です……。ありがとうござ、います……」

「無理して話さなくていいぜ。親父の相手は俺がするから今のうちに行きな」

「失礼します……」

詫びと言って杏の実をいくつか貰い、席を離れた。静かなところで夜風に当たりたいと思い、廊下を彷徨う。行く宛ては決まっていないが、それでもなるだけあの場所から遠ざかりたかった。夏の終わりを感じさせる夜気は熱った体を冷ますにはちょうどよく、歩くにつれて徐々に眠気が首をもたげた。心地よい感覚に鼻歌を歌いながら歩を進めていると、曲がり角で何かに衝突する。柔らかいとも硬いとも言えぬ何かにぶつかった私の体は容易く後ろへ傾いた。手から杏の実が離れていくのを何処か他人事のように見つめながら倒れゆく体は、これまた唐突に止まった。

「―――大丈夫かい?」

頭上から心配そうな声が降ってくる。反射的に閉じた目を開ければ、煙る視界に浮かび上がる馴染みの顔があった。咄嗟に伸ばされた彼の腕が背中を支えていた。

「げん、ちょく?」

「……まさか酒を飲んだのか?きみ酒弱いのに何故―――」

窘めるように顰める顔が懐かしくて嬉しくて、私は堪らず彼の首に手を回して抱き着いた。彼は驚いて調子の外れた声で私の名前を呼ぶ。酔ったのかいとか落ち着いてとか誰かに見られたらとか耳元でうるさくされ、しまいには強引に体を引き剥がされた。その目は強く私を非難していて、胸がずきずきと痛む。

「……元直は私が嫌いなんだ」

「誰もそんなことは言ってないだろう」

「だってさっきからずっと怒ってる」

「怒ってなんかないよ。ただ、無防備すぎると言ってるだけで……」

「ほら。やっぱり怒ってる。嫌いなんだ、嫌いだから怒るんだ。嫌いだから私と距離置くんだ」

「そんなこと―――」

「ある。水鏡先生のとこに居た頃はもっと話してた。飲みにだって行ったし夜通し話したりしたし、よく釣りに誘ってくれたじゃん。なのに劉備様に降ってからは釣りに誘ってくれなくなったし飲みにも行かなくなったし、私と話してくれなくなった。話しかけてもすぐどっか行くじゃん。私は元直と話したいのに。もっと一緒に居たいのに。でも元直はそうじゃないんでしょ。私なんかどうでもいいんでしょ。いっそ居ない方がいいんでしょ。……付きまとわれて鬱陶しかったでしょ、私元直と違って頭良くないから気づけなくてごめんね。もうこれから用ある時以外は話しかけないし、見かけても素通りするから。釣りにも飲みにも遊びにも誘わないから。―――だから、きらわないで…………」

胸に秘めた思いを吐き出したというのに一向にすっきりしない。ずっと胸は痛いままだし、なんか喋り続けたせいか頭まで痛くなってきた。体を冷やすために外に出たはずなのに逆に暑い。ずっとずっと彼が好きだった。お人好しで騙されやすいところも、自評が限りなく低くてその都度落ち込んでしまうめんどくさいところも、私が商人に絡まれてる時迷わず助けに来てくれたところも、自分の好きな話になると饒舌になるところも。ぜんぶぜんぶ好きで、大好きだから劉備様に降るって聞いた時も迷わずついてきたのに、彼からみればすべて邪魔としか思われていない。あからさまな距離を置いて遠ざけようとするくらいには、私は彼に嫌われたようだ。張飛様に飲まされた酒のせいか思考がおぼつかない。頭が痛いし胸が痛いし、それになんだか腹の辺りがもぞもぞする。気持ち悪い。

「ごめん、元直―――」

「俺の方こそすまない。名前にそこまで思わせていたなんて知らなかった。言い訳に映るかもしれないが聞いてほしい。劉備殿に降ってからというものきみは孔明の私室に入り浸っていただろう?だからきみたちの邪魔をしたくなくて距離を置いていたんだ。ただそれだけなんだ。名前のことを嫌ったからじゃない」

「元直」

「俺がきみを嫌うはず、ないよ。だって昔からきみには迷惑かけてばかりで、それでも俺と親しくしてくれることがほんとうは嬉しかったんだから。……今でも覚えてるんだ、きみとの出会い。泥棒の罪を着せられてあわや連行されるところできみは俺を助けてくれたよね。一度も話したことない俺にどうしてそこまで、と訊ねた時きみは迷わず、なんの罪もない人が罰を受けるなんて見過ごせないと言って捕吏に食ってかかった。必ず潔白を証明してみせるからと方々を駆けてそしてほんとうに助けてくれた。大恩あるきみを、どうしたら嫌えるのか」

「元直、聞いて」

「きみが俺に愛想尽かすことはあってもその逆はないよ。……ああでも、俺にこんなこと言われても迷惑だろうか。だけど俺がきみを好ましく思っているのはほんとうなんだ。こんなこと思ったらいけないんだろうけど、たまに思うんだ。孔明のような才があればきみは俺を見てくれたんだろうか、と……。霧を掴むような話だから実現はしないんだけどね。きみが許してくれるなら、まだ間に合うのなら、また以前のように話せないだろうか。迷惑なんて思ってない。鬱陶しくなんて尚更。きみに話しかけられるのを俺はいつでも―――」

「ごめん、元直」

「…………そう、か……。いや、いいんだ。きみを傷つけてしまったのは俺なんだから謝らなくて―――」

「そうじゃなくて。……………………吐きそう」

それだけ言うと空気が一転する。ぴしりと固まった元直は、床に崩れ落ちた私を見るや否や「桶を貰ってくる」と言って飛び出した。


 あの後の記憶がぼんやりとしかなくて、元直の牀で目覚めた私が榻で眠る彼を起こしてあらましを聞けば、どうやら吐き続けた後に気を失ったそうで。自分の房が近いからと私を牀で寝かせ、自分は榻で一夜を明かしたとのこと。謝り倒す私に何故か彼が謝る始末。何が何だかわからなかったが、それ以降というもの、元直はよく話しかけてくれるようになった。水鏡先生の下で一緒に学問を極めた頃に戻ったようで私は嬉しかった。ただ一つ言うとすれば、それは頑なに酒を飲ませようとしなくなったことと、孔明の元を訪れる際は彼もついてくるようになったこと。よくわからないが孔明と月英には良かったですねと微笑まれた。