枯れた寵愛は戻らず、無残な艶姿を晒すこと


賈充から手渡された竹簡。巻かれた紐に指をかけた時、賈充に呼び止められた。

「覚悟しておけ」

どういう意味だ、と口にするもそれ以上口を開くことはなかった。自分が衝撃を受けるほどの人物が連なっているのかと推測し、紐を解いた。音を立てて広がった板の上に書かれている名前を目で追い、ある一文で焦点が動かなくなる。

「―――嘘、だろ」

掠れた声が漏れる。自分の暗殺を企てる計画に携わった人物らに、側室の名前が記載されてあった。



圜土ろうごくの中は薄暗く、天井から染み出た雨水がぽたりと地面へ落ちた。陽光が一切入らないこの場所で光源となるのは蝋燭の灯りと手に握る松明のみ。しかしそれも隙間風によって輪郭を歪ませ、心許ない。雑踏も遠くに聞こえる中、響くのは自分の沓音だけだった。かつん、かつん、と岩床を鳴らして奥へ進むと、壁に設けられた蝋燭の灯りによってぼんやりと相好が浮かび上がってくる。硬質的な輝きを放つ鉄格子とその中で座る一人の女。罪人を閉じ込めておくための場所に酷く不釣り合いな格好をした女が一人、こちらに首を巡らせてゆったりと微笑んだ。

「これはこれは。子上様自ら居らしてくださるとは夢にも見ませんでした」

恍惚とさえ呼べるような眼差しで、名前は自分を捉える。艶を滴らせる髪には、赤い牡丹が咲いている。彼女の胸中は自分では見通せない。だが名前の方はどうだろうか。怠惰と責務との間を行き来する俺の本性を見透かして裏切ったんだろうか。彼女に映る自分の評価をこんな状況で知ることになろうとは、こちらとて夢にも思わなかった。

「お前を他の奴に預けておけないからな」

皮肉を込めて言うも、彼女はくすくすと笑ってみせるだけだった。余裕綽々といった態度が余計に神経を逆撫でする。

「なんでそこに居るか、わかってるのか」

「ええ。私がここを選んだからですわ」

臆することなく断言してみせた姿に、一瞬言葉を呑み込んだ。

「俺の手を退けるほどなのか」

謀反を企てていたからといって、最初から罪人として冷遇するつもりはなかった。圜土に容れるべきだと言う周りの言を跳ね除けて、一度だけ手を伸ばした。本来ならば今居る場所は冷たい圜土などではなく、俺の部屋だったはずだ。しかし名前はそれを拒んだ。花露滴らせる笑みで泰然と道を分つ方を選んだのだ。一度こうだと決めたら何事でも揺るがないと知っている自分は、それ以上何か言うでもなく部下に圜土に容れるよう指示した。せめてもの情けとして衣はそのままに、圜土の中は彼女だけであれるように手配して。俺が贈った衣を身につけて対峙するのはどんな意図なのか。腹の底がざわついて気がそぞろとなる。

「あなたの手など久しく忘れておりましたもの」

意表を突かれ、口を噤む。否定できない事実だからだ。自分とて彼女の顔を見るのは久方ぶりだ。

「それが動機なんだな」

「さあ?そうかもしれませんし、そうではないかもしれません」

「……できることならお前を殺したくない」

「お優しいですこと」

何も響いていなさそうな調子に苛立ちが募る。鉄格子を蹴るとがつんと音が反響した。眉一つ動かさず、笑みを貼り付けたまま泰然としている。それはまるで処刑さえ恐れないといったふうに見受けられた。

「最後にもう一度だけ聞く。ほんとうに俺の手を取る気はないのか?今ならまだ俺がどうにかしてお前の潔白を―――」

「無礼千万もこうも極まると笑いが出てきますわ」

ここで初めて名前の顔色が変わった。空々しい笑みを落とし、眼差しを凍らせる。口角を下げ、眉を均した顔に背筋がぞくりとした。初めて見る顔だ。それもそのはず。彼女は咲き誇る牡丹が似合うような女だったからだ。いつも朗らかな笑みを絶やさず、誰にでも衷心を以て接し、俺の愚痴にいつまでも付き合ってくれた。久方ぶりの逢い引きにさえ苦言一つ呈さず、ただおかえりなさいと言って受け入れてくれたのだ。そんな彼女が笑みを削ぎ落とした顔をし、さながら部屋の隅で鼠を見つけたかのような眼差しで、俺を見上げていた。

「私が子上様の暗殺に加担したのは私自身が選んだこと。事ここに至って、今更我が身惜しさに頭を下げたりいたしませんわ。―――子上様、あなたの目に映る女はあなたを殺めようとした女に過ぎません。あなたを愛し、あなたに愛された側室の女など、とうの昔に朽ちたのですよ」

淡々と、冷徹に。しかし断固とした意志の強さを見せつけて。辺りはしんと静まり返る。

「…………そうかよ」

それ以上の言葉など不要だと断じた。扉を開け、中へ入る。彼女は両膝を折った姿勢で背筋を伸ばし、堂々胸を張っている。力強い眼差しは自分ではなく虚空を見つめている。剣を抜く。剣身に蝋燭の仄かな灯りが乗り、おどろおどろしく照るそれは一瞬流れる血を錯覚させた。かぶりを振り構える。

「……俺は今でもお前を愛してたんだ」

ほつりと呟くと返ってきたのは噴き出した小さな笑いだった。失笑か、嘲笑か。構えた剣の先を一息に胸に沈めた。ぐにゃりとへこんだそこからは血が滔々と流れ出し、彼女の艶やかな衣を赤く染め上げていく。しかし灯りが殆どないここではそれは黒く見えた。剣を引き抜くと同時に薄い体がばさりと地面へ崩れ落ちる。赤い牡丹が灯りを受けて際立った。赤い牡丹は俺が昔彼女へ贈った花だ。以降、彼女はそれを髪に挿していた。花びらが一枚二枚と舞い落ち、闇と同化するように流れてきた血に溶けていく。牡丹は死んだのだ。