噂話に首ったけ


その人を初めて目にした時、感じたのは首を絞めるような息苦しさと、頭が沸騰しているような熱感だった。降り注ぐ陽光が髪に艶を与え、動作に連なって髪が揺れる。目の前を過ぎった刹那、衣に焚き染めていると思われる香の匂いに強い眩暈を感じた。

「―――兄様」

凛とした声が通る。したたかな眼差しは辿っていくと自分のよく知る人物へ集束する。李典殿だった。彼女の呼び掛けに振り返り、姿を認めるや否や黒い蓬髪を乱す。それはさながら悪事を暴かれた子供のように見受けられた。

「ったく、今度はどんな小言言いに来たんだ?」

「鬱陶しいと思うならもっとご自愛くださいな。負傷したと聞きましたよ」

「げっ。誰だよ、名前に告げ口した奴は……」

「兄様?」

「あー、はいはい。大人しく手当受けろって言いたいんだろ、わかってるよ。大したもんじゃねえのにな」

「大事じゃないから殊更気を遣うんです。いいから見せてください」

流れを静観するに、二人は兄妹らしい。戦場ではむしろ世話を焼く側である李典殿の新たな一面に面を食らうと同時に、あの美しき姫に心を砕かれていることが羨ましいと思った。

「ああいや!何を言っているんだ私は……」

相手は血を分けた兄妹。その仲に羨望など不義甚だしい。幸い二人はこちらに気づく様子はなく、荒事など無縁な華奢な彼女の指が李典殿の防具を器用に外していき、鮮血滴る傷痕に薬を塗り込む。手際は見事と言う他なく、一連の流れを見るに李典殿の手当は長いこと彼女が請け負ったんだろうと推測できた。医術の心得もあるのか。うら若き花である彼女の強い芯を垣間見たような気になり、ついつい魅入ってしまう。それゆえと言うべきか、気づいた時には既に遅かった。

「あの、何か……?」

ばちっと彼女と視線が交差してしまう。よもや気づかれるとは露も思わなかった自分にとってそれは青天の霹靂で、事前に準備などしていない口から出たのは文章にもならぬ言葉だった。

「い、いえっ!なんでもありません!」

それでもかろうじて理性を繋ぎ止め、言葉を紡ぐ。不思議そうに首を傾げる彼女だったが、突如李典殿が自分の肩に腕を回しぐいっと引き寄せた。

「お前に紹介するよ。こいつは楽進。なかなか正直者でさっぱりしたいい奴なんだが、これでも俺と肩を並ばせるくらい強いんだぜ」

「り、李典殿!それはあまりにも買い被り過ぎです。私などまだまだ未熟者……」

「なっ?いい奴だろ?」

同意を求めるように彼女へ顔を遣る。驚きに目を丸くしていた彼女だったが、やがて口元を崩して柔らかく微笑んだ。

「兄がいつもお世話になっておりますわ」

「い、いえ、世話なんてそんな……」

「これからもよろしくしてやってくださいね、楽進様」

その後の記憶は、情けないことにぼんやりとしか覚えていなかった。




 別の日。日課となっている鍛錬に勤しんでいると、背後から凛と通る声がした。

「―――楽進様」

その声に心臓は大きく調子を乱し、慌てた動作で振り返る。そこには李典殿の妹君、名前殿が居た。過日とは違い、今日の装いは落ち着いた色味の衣をまとい、髪飾りも簡素となっている。それでも、雪の中に咲く冬牡丹のごときしたたかな美しさには少しの翳りも感じなかった。もう一度「楽進様?」と名を呼ばれ、そこで初めて返答を失念していたことに気づく。

「す、すみません!はい、なんでしょうか?」

「いえ。こちらこそ鍛錬のお邪魔してごめんなさい。兄の所在をご存知ですか?兄様ったら作らせたくせに提盒弁当箱を忘れていってしまわれて」

言われて初めて彼女の手に提盒があることに目がいった。何段か重ねているのか重そうに見えた。

「李典殿でしたら先程尚書台へ向かわれました。……あの、私が持ちましょうか?よろしければ、ですが……」

突然の申し出にしばしの沈黙が下りる。やはり出しゃばりだったろうか。言葉を撤回しようと口を開いた矢先、彼女が頷いてみせた。

「お嫌でなければお願いしてもいいですか……?」

恥じ入って遠慮がちに訊ねる様に、言い知れぬ感情が込み上げ、無性に槍を振るいたくなった。




 また別の日。李典殿に頼まれて邸の前に立っていた。扉は閉められていて、それはまるでそびえ立つ鉄の扉のように思えた。扉を叩こうと腕を上げたり下げたりしてどれほどか。しかしこのまま邸の前でいたずらに時を浪費するわけにはいかない。決心しなければ。ばくばくと逸る心臓を抑え決意を固めた時。

「―――楽進様?」

「は、はいっ!失礼しました今行きます!あ、名前殿!?」

前からした声に体が硬直し、思わず声を張る。意識して気づく。自分の名前を呼んだのが件の彼女だったことに。ぱちぱちと目を丸くして瞬く彼女が、扉を押して隙間から身を出している。不思議そうに小首を傾げる様にどくんと大きく波打った。

「何かご用ですか?」

肩から髪がさらりと流れ落ち、隠された頬が露わになる。日差しの下に出てくると普段との差異がありありと見て取れた。ほどよく焼けた顔がいつもと比べて上気して、汗ばんだ首には細い髪がいくつも張り付いていた。

「李典殿からあなたが熱を出して寝込んでいると聞き、こちらを持ってきました」

腕に下げた籠を差し出せば、彼女は受け取って布をめくる。

「兄様ったら。そんなことで楽進様の手を煩わせないでほしいですわ。……兄がごめんなさい」

「い、いえ!謝ることでは……っ」

「兄には私からよくよく言っておきます。でもほんとうにいただいてよろしいのですか?」

不安げに見上げる双眸にあれほど騒いでいた胸中が静かになっていく。

「…………実は、李典殿からお願いされなくてもあなたを伺いたいと思っていました」

「楽進様……」

ゆっくりと見開かれていく反応に、耐えきれずに視線を外す。

「えっと、一目あなたに会えてよかったです。ご養生ください」

踵を返したところで「お待ちください、楽進様」と呼び止められてしまう。何度も呼ばれているはずというのに、彼女に口にされる度に調子が乱されていく。

「またお礼させてくださいね」

病人を日の下に晒し続けるのはよくないと理解しているが、頬をうっすら朱に染めて破顔する美しい様は、いつまでも目に焼き付けておきたいと思ってしまうのだった。


二日後。名前殿はどうなったんだろうか。快癒したんだろうか。回復して笑っていてくれたらいい。持ち上げた筆先から墨が滴り落ちる。あっ、と目を張ると同時に墨は瞬く間に広がり他の文字と混ざり合っていく。やってしまった、と肩を落とす自分の耳に家奴かどの声が届いた。

「楽進殿」

「どうしました?」

「楽進殿にお会いしたいという女性がお待ちです」

どくん、と心臓が跳ね上がる。

「名はなんと」

「名前、と」

家奴が口にした名前に自ずと腕が下がる。榻から立ち上がる音と彼の通しますかという問いかけが被さり、彼は驚いたようにこちらを見たので「私が出向きます」とだけ返して房を出た。客間の扉は開け放たれていて、すぐに彼女の姿が目に飛び込んだ。榻に腰掛けていた彼女は、自分と目が合うや否や破顔して立ち上がる。しなやかに揖礼する様は気品を感じさせた。

「急な訪問、お許しください」

「そんなっ……!どうか気にしないでください!むしろお会いできて光栄です」

「まあ。楽進様ったら兄様の評価以上にお優しい方なのですね」

「そ、そうでしょうか……。自分にはもったいない言葉です」

くすくすと笑う彼女に肩身が狭くなる心地になった。

「あれから体調はどうでしょうか?」

「楽進様からいただいた薬と桃のおかげでよくなりました。今日はそのお礼をと思い、以前兄から私が作った天心を甚く気に入ったと聞きましたので、作って参りました」

腕にかけていた籠を几の上に置き、蓋を開ける。中にはふかふかと白く丸い天心がいくつかあった。

「名前殿が作ったのですか?」

「はい。……お気に召しませんでしたら今からでも他のものを―――」

「いえ!ぜひこれをいただきたいです!」

喜び勇んで受け取ると、彼女は嬉しそうに頬を染めて微笑んだ。柔らかな風に煽られて髪が、衣の裾がなびく。胸に満ちるこの感情になんと名付ければよいのか。突き動かされる衝動なのに、体はぴくりとも動かずに彼女をただ見つめている。それでも一つ言うならば、この時間がずっと続くのを願うことだけは変わらない。




―――学問に明るくない自分に、友人がいつぞや己の胸中を吐露してみせたことを思い出した。花も草も同じ場所に生きるが、同じ場所で死ぬことはできない、と。それが惜しいとも続けていた。当時は理解できなかったが、今になって彼の本意に甚く共感した。薄い紅色に染まった小ぶりの花が、細い枝を覆い尽くす。風に吹かれて花びらが舞った。その一つが風に運ばれて自分の足下に落ちる。

「これほどに美しい光景は初めて見ます」

感嘆にあふれた声で見上げる彼女の横顔は、桃の花をまとう木以上に胸を打たれる。同時につんとした痛みも広がる。

「私も、聞くまで知りませんでした」

「楽進様は花を愛でるご趣味がおありで?」

「いえ。自分は武一辺倒に生きてきましたから。………………ここへ誘ったのは、あなたに伝えたいことがあるからです」

「楽進様?」

「……私は無骨者ゆえ、詩を諳んずることはできません。ですが御身を守るため、この槍を振るうことはできます。たとえあなたが何処に居ようとも、死を迎えるその時まで、私の心をあなたに捧げることをお許しください」

片膝を突き、拾い上げた花びらを差し出す。本来なら輿入れが決まった女性に胸中を明かすなど許されないこと。しかし隠して彼女を送り出すことに耐えられなかった。いかな謗りも甘んじて受ける覚悟で、彼女をこの場所に誘った。一目見た時から彼女の美しさは翳りなく、ますます眩くなるばかりで、そんな彼女を迎える男を羨ましがった。自分であれば、と拳を握ったのも初めてだった。だが行動に移さなかった自分が悪いのだ。ゆえに彼女と遂げることが叶わずとも、せめて遠くから見守らせる許しがほしかった。幸福に抱かれて微笑む彼女のために槍を振るう許しがほしかった。あなたを一途に想うだけの許しがほしかった。それだけをいただければ、後は何も望まない。

「―――楽進様、顔をお上げになってください」

ゆるりと顔を上げれば、陽光を横に受けて目を眇める彼女が目に飛び込んだ。眩しそうにしているようにも、微笑んでいるようにも見受けられる表情にただ見上げていると、やおら持ち上げた彼女の手が己の頭へと向かう。髪に挿されていた一本の簪を抜く。しゃらん、と音が鳴った。金を用いて造られた簪が陽光を跳ね返して輝き、そしてそれは自分に差し出された。

「あの、これは……?」

「私の気持ちです。受け取っていただけますか?」

目を見開き、激しく狼狽した。

「し、しかし、あなたはっ……!」

思わず立ち上がった自分に、彼女はくすりと笑んだ。

「嫁ぐのは兄の侍女ですよ」

「…………え」

「私ではありません」

くすくすと肩を小刻みに震わすのを見て、己がとんでもない勘違いしたことに途端羞恥が襲いかかってくる。だが同時に安堵した。そうか、まだ誰の下にも行かないのか。胸を撫で下ろした時、ふと気づいた。

「何故私が勘違いしているとわかったのですか?」

「勘です」

何処となく兄の李典殿を想起させる笑い方に、目を丸くした。

「楽進様」

「はいっ!」

「―――死ぬまで楽進様のお傍に居ること、楽進様を慕い続けることを、お許しいただけますか?」

どくどく、と心臓が逸り出す。鼓膜に押しては引く低い音はまるで潮騒のようで、何も考えられなくなる。舞い散る花びらの中で悠然と微笑んでいるこの美しい人が、私を慕ってくれている。幾夜も願ったことというのに眼前のこれが白昼夢ではないと信じられず、言葉が浮かんでこない。形の良い唇が自分の名を呼ぶ。途端、大きな波がすべてを呑み込んだ。腕が動く。伸ばされる指の先にはちらちらと瞬く金の簪。

「―――楽文謙、生涯あなただけを愛すると誓います」

簪ごと彼女の想いを受け取った。