すべてを君に与えましょう
「―――そこの女性。ここが何処か教えてくれるだろうか」
凛と通った低い声が耳朶を打ち、全身が硬直する。動かしていた指もぴたりと止まるが、心臓だけは反対に鼓動を早めた。徐々に上がっていく体の熱が思考をそぞろとさせるが、必死に宥めて落ち着かせた。そんなわけない。あるはずがない、と。
「仕事の邪魔をしてすまない。教えてくれると助かるのだが……」
硬直していた首が勝手に動き出す。声の方へ向けた視線は一人の男性の姿を認めた。目に飛び込んだのは、覚めるような葱緑だった。落ち着いて観察すれば、背丈は五尺と少しほど。髪は棕紅を濃くした色で、うなじで束ねて後ろに流している。堅剛な鎧に覆われて確かなことは言えんが、手のうちの肉付きや目付きなどを鑑みるに、何処かの武人なのだろう。
「私の顔に何かついているだろうか?」
無遠慮に見つめすぎたせいか男は顔に困惑を浮かべたので、はっと我に返った自分は「いや……」と喉を絞り、立ち上がる。
「ここで人間と出会えるとは思ってなくてね。驚いただけだよ。不快に感じさせたなら謝る」
「いや、それは構わない。こちらこそ作業の邪魔をして失礼した。しかし以前何処かでお会いになっただろうか?申し訳ないが、その、私には見覚えがなく……」
「ああ、いや。言葉が足りなかったな。正確にはお前さんではなく人間を指して言ったんだ」
「それはどういう意味だろうか」
「―――ここは月だからさ」
男はしばらくの間言葉を失った。何を馬鹿な、と視線で言ってくるので、空を仰ぐ。
「お前さんの知る空は金の色をしてるかい?金の草が生い茂るかい?百丈を超える木があるのかい?」
「…………いや」
視線を下ろせば、男は苦しげに眉根を寄せて項垂れる。ここが何処か理解したゆえだろう。
「では帰れないということか?」
「いいや帰れるさ。お前さんは迷い子みたいなものだからね」
「ほんとうか!」
痛ましい顔から一転して目を輝かせる男。彼には帰る場所があり、意味があり、待ち人が居るんだろう。久しく忘れていた感情が蘇り、笑みが漏れる。するとふいに弱々しい風が吹く。さあぁ、と短い草が一斉に揺れて細やかな葉擦れの音が上がる。次第に風の勢いは強くなっていき、とうとう目が開けられないほどになる。音の一切がなくなり、しばらくして布がはためく音も草木の音も落ち着く。目を開けると、無人の地面が何処までも平坦に続いていた。
一時の邂逅と思われた男とは、それからほどなくして再び顔を合わせた。葉に糸を通す手を休め、彼を見上げる。二度目とあって焦りや緊張といったものは感じられなかったが、迷い込む原因が本人にも見当たらないのか、腑に落ちないといった内心を露わにしていた。
「なんだい。そんなにお前さんの住む世界が嫌なのかい」
揶揄い混じりに笑ってやれば、彼は「そんなことはない!」と即座に食ってかかってきた。
「あそこでは帰りを待っていてくれる人も、帰らねばならない理由もある。それなのにどうして嫌えよう」
「悪かったね、ちょいとした冗談さ」
「……失礼した」
恥じ入る様子で肩を落とす彼の手に目が止まる。
「お前さん、怪我をしているね」
私の視線を追って己の手に顔を遣った彼は、軽く腕を持ち上げ、今気づいたといった顔をする。
「おそらく先の戦で負ったものだろう」
「……人死が絶えない時代なんだね」
「これもすべては世が乱れているため。一刻も早く治めるためには致し方ないことなのだ」
「お前さんの目に終わりは見えているのかい?」
「どういう意味だ」
神経を逆撫でさせたようで、彼の目付きが鋭くなる。
「何事にも終わりは大切だよ。終わりがなければ生きていけない。平穏な次代は素敵だが、期待を抱かせたまま死なす兵士らは、結局終わりを見ることなく絶えることになってしまう。それは酷なんじゃないかと思ってね」
「終わりならある。領地を広げるばかりでそこに住む民草のことを考えぬ曹魏の奴らを討ちさえすれば、蜀漢の民も今は亡き劉備殿の意志を継いだ兵士らも必ず平和に過ごせるのだ」
「そう……。終わりが見えてるのならいいんだ。いやなに、ただ闇雲に走った挙句、大罪を犯して寄る辺を失った者を知っているからついね。老婆心と思っておくれ」
休めていた手を動かしたところで、彼は意外にも目の前に膝を折った。片膝を突いてまじまじと私を見つめる。その動向に首を傾げてみせると、彼はおずおずといった感じで口を開いた。
「無礼を承知でお訊ねする。あなたは女仙であられるか?」
「そんなものさ」
「私は初めて神僊とお会いするが……、あなたはあまり神僊らしくありませんね」
言ってから、彼ははっと気づいた風情で「決して悪意で言ったわけではありません!」と説明する。くすりと笑んでゆるりと頭を振る。
「自分でもその自覚はあるよ。けど畏まらなくていいよ、お前さんに福をもたらしてやれる存在ではないから」
「しかし神僊とは存在自体が福であると聞いています」
あまりにも真剣に言うものだから、自分は苦笑しか返せなかった。
「それはきっと私以外の神僊だろうねえ。自分には人を祝してやるほどの力はないよ。こうして大樹から落ちる葉を織ることしかできないのさ」
「大樹とはこれのことでしょうか」
彼は、私が背中を預ける樹木を見上げる。それに静かに頷いてみせた。百丈を優に超す大樹は天高くそびえており、金砂をまぶしたような薄雲を突き抜けて尚その頂は見えない。樹皮は黒曜石でできており、角度をつけて荒削りされているために光が細かく反射してちらちらと瞬く。枝などはないが、舞い落ちた葉の一枚が膝に軽やかに乗る。翡翠を想起させる鮮やかな葉を手に取り、糸を通す。
「これは桂樹と言ってね。私は言わばここの守役みたいなもの。落ちてくる葉を残さずこうして一つに束ねることが私の役目なんだ」
「お一人でですか?」
「そうだよ」
「いつから……」
「さあ。数えちゃいないね。なにせ神僊に一日の終わりなんて感覚はないから」
「しかしなんのために?」
「葉をお前さんらの元に落とさないためさ。これには毒があるから」
神僊はそうでない者と体の造りが異なるため、葉に触れようと花を食らおうと、この身が毒に冒されることはない。一枚、また一枚と薄い葉に糸を通して繋ぎ止めることが自分に科された使命。私は自分の使命を忠実に守るだけだ。淡々と、淡々と。
「迎えが来たようだよ」
天を仰ぐ。弱々しい風が上から降りてくる。さあぁ、と短い草が一斉に揺れて細やかな葉擦れの音が上がる。次第に風の勢いは強くなっていき、とうとう目が開けられないほどになる。音の一切がなくなり、しばらくして布がはためく音も草木の音も落ち着く。目を開けると、無人の地面が何処までも平坦に続いていた。三度目がありませんように。誰に願うでもなく内心呟いた。
しかしそれが聞き入られることはなかった。三度、彼は来てしまったのである。これには自分の方が瞠目してしまう。
「お前さん一体何者なんだい?月にこうも多く訪れる人間が居るなんて初めてだよ」
「私にも不思議です。先程までは確かに私室に居たのに、一度横になればここに来てしまう」
「なんとまあ数奇な運命を持ってしまったものだね」
「……ですがあなたと会えるのは、本音を言うと嬉しく思います」
「前にも言っただろう。私に祝す力は―――」
「承知の上です。その上で尚、私はあなたと居ると安らぎを覚えるのです。自分でも何故そう思うのかは不明ですが……。これはきっと女仙たるあなたのお恵みではないでしょうか」
彼の言にまたもや瞠目する。己の責務にばかり気を向けていた彼はその起因に気づいていないようだが、自分にはそれも含め大きな衝撃だった。同時にずきりと胸が悲しく痛んだので、さっと顔を背ける。
「……お前さんの気のせいだよ」
落ちた葉を取り糸を通し、重ねていく。
「そういや傷治ったんだね。よかったよかった」
手元に顔を落としたまま言うと、視界の隅に自分の手を見遣る彼の姿が入った。
「紫草が効いたみたいです。元より小さな傷なので快癒が早かったようですね」
「昔から油断が大敵と言われているだろう?侮っちゃいけないよ」
「夏侯覇殿―――同志にもそう言われました」
「余程お前さんが心配なんだね」
「自分でも気をつけているつもりなのですが……」
「そういう人間ほど心配なのさ。とりわけお前さんは人を頼ることをしなさそうだからねえ」
「そんなつもりは……」
「嘘が得意じゃないから尚更さ」
返す言葉もなく押し黙る彼に呵々と笑ってみせる。
「いいじゃないか、人柄が好かれてる証拠で。もっとお前さんの国や仲間のこと聞かせておくれ」
「神僊たるあなたには見えないのですか?」
「下界を映す池なんかここにありゃしないよ」
それから彼はいろんなことを語って聞かせてくれた。彼には師と仰ぐ人が居て、その師はさる高貴な血を引く人の丞相を勤めたらしい。蜀漢を建国したのもその人らしく、曰く「徳に溢れ、人望厚い主」とのこと。その君主が掲げるのは「仁心で治める世」らしい。血こそ高貴なれど生まれは貧しく、それでもあの方は紛れもなく仁の世を創るに相応しい大器を備えた人物だとたいそう讃えた。その君主を支えた師たる丞相もまた臥龍と評されるほど賢才の持ち主で、幾多の戦もその智謀で切り抜けてきたんだと目を輝かせて言った。民もそんな彼らを悪し様に言う者はおらず、自分はそんな方々の国に仕えることができて光栄だと、晴れ晴れした顔で言った。
「―――ほんとうにお前さんは自国が好きなんだね」
「はい!私がかつて仕えていた国、曹魏では出征の多さに嘆く兵士も、土地が荒らされることに涙する民も多かった。……だが蜀は違う。兵士も民も己の国を誇りに思い、誰もが己の国を守ろうと勇んでいる。とても暖かいのです」
「そうかい。それは早く彼らの元に帰ってやらないとだ」
「あなたは下界に降りられないのですか?」
「行けないよ。私はここから離れられないんだ」
「葉を落とさないためですか?」
「それもあるし、私はとうの昔に昇仙した身だから顔馴染みは全員死んでる。今更降りたところで会う人も居なければ、私を待つ人も居ないのさ」
今では父母や友人の顔も思い出せず、人間だった頃の記憶は霞がかかってはっきりしない。情が薄い方だと自覚していてもここまでくると、そもそも自分にそんなものがあったのか疑わしくなってくる。
「―――私があなたの寄る辺になります」
「何を言ってるんだか……」
「私は本気で言っています」
手を重ねられ、驚いて顔を上げる。すぐそこに彼の顔はあった。真剣みを帯びてこわばった顔が。棕紅を濃くした色の髪が吹き抜けた軽い風に煽られ、ふわりと浮く。時間だ、ということは言葉にせずとも両者共に悟った。次第に風は強くなり瞑目する。風の勢いだけではない。彼を直視できなかったから。風の音に交じって何かが聞こえたが、深く考えることはやめた。知らない方がいい、きっと知ってはいけないことだ。鼓膜が轟音の膜に包まれたみたいに他の音が一切聞こえなくなってしばらく。膜が剥がれて草木の揺れる音が聞こえてくる。目を開けた時、無人の地面が何処までも平坦に続いていた。手を撫でると熱は残っていなかった。安堵に胸を撫で下ろした。心臓の裏側から滲み出す恐怖には目を背けて。
四度目の邂逅。特徴的な堅剛の鎧にはいくつもの傷ができていて、鎧に覆われていない肢体や顔には痛ましく血が流れていた。棕紅の髪は血で肌にこびりつき、かつての艶はそこになかった。変わり様に絶句していると、ふいに彼が膝を突いた。我に返った自分が慌てて駆け寄り、前へ崩れそうになる寸前のところで抱き留める。つん、と苦々しい匂いが鼻を刺す。
「いけ、ない……。神僊たるあなたを汚すわけには……っ」
「そんな状態で何言ってるんだい!無理するんじゃないよ、私に体を預けな」
「申し訳、ありません……」
息も絶え絶えに言うと、彼の体を横にして膝の上に頭を乗せた。鎧も相まって彼の体は大変に重く、しかしそれは向こうも同じだった。胸を上下させることすらやっとな面持ちで彼は息をつく。若々しい輝きを放っていた顔は、悲痛に歪んでいる。どうにかしてやりたい。けれどここに紫草などない。薬草も仙薬も、何一つとしてないのだ。もどかしさと無力さに奥歯を噛む。
「不覚を……、取ってしまいました……」
「生真面目そうなお前さんらしくないね」
「……あなたに見せたかったのです。私の国を、仁心で治める国を」
「なんでそんなこと……」
「あなたは永い間、ここにお一人だとおっしゃった。その時のあなたの顔が、私には寂しそうに見えたのです」
目を見開き、息を呑む。自分にそんなつもりはなかったからだ。哀愁などとうの昔に枯らした。ここへ来た時に。
「……私にそこまでしてやる価値はないよ」
「いいえ―――いいえ、私にはあります」
傷を負いながらも彼は鋭い眼差しを向けた。ざわり、と嫌な予感が胸を衝く。
「あなたを想うと胸の内が軽くなるのです。安心、と言えばいいでしょうか……。―――私はあなたをお慕いしているのです」
その言葉に胸が打たれ、胸中は瞬く間に熱を失っていく。言わないでほしかった。私にそれを思い出させないでほしかった。知らないままであれば、言わないままであれば、彼と五度目の邂逅だってできただろうに、彼が言葉にしてしまったばかりにもう会えなくなってしまった。
「神僊殿、何故泣かれるのでしょう……?」
戦で負った傷で喋ることが辛いだろうに、私を気遣うその心が暖かい。けれど同じように悲しくも感じた。
「私にそんな価値はないんだ、ないんだよ。
―――下界から逃げてきた咎人なんだから」
彼の双眸が衝撃に小さくなる。
「それはどういう……」
「前に下界へ降りないかと訊ねたね。寄る辺がないと返したけど、ほんとうは自分が寄る辺を捨てたんだよ」
それは私がまだ人の身であった頃、一人の男と夫婦になった。豪族の権威を鼻にかけない好青年で、貧しい生まれの私にも優しかった。夫婦の契りを交わした折、私は仙籍に入った。彼が神僊だったからだ。ある時、弓の名手だった夫に天帝が「本来一つであらねばならない太陽が十も昇っては大地が枯れてしまう。どうにかしてくれ」と勅命を下した。夫は下賜された彤弓と素矰を用いて、九つの太陽を撃ち落とした。そのことに激怒した天帝は、私たちを仙籍から外してしまったのだ。憐れんだ西王母が夫に不死の霊薬を授けた。……そう、夫だけに。それを知った私は夫の目を盗んで霊薬を呷った。そして西王母からも夫からも逃げるため、月へ昇ったというわけである。
「―――私はただ自分が生きるためだけに最愛の夫を裏切り、見捨てて、一人ここに来たんだよ。ほんとうは神僊を名乗るのもおこがましいほどなんだ、私は。お前さんに敬ってもらえるような存在でも、ましてや誰かの手を取ることを許されるような身でもない」
ほんとうは言いたくなかった、知ってほしくなかった。脳裏の奥底に燻るあの目の残滓を容易く蘇らせてしまう、この人にだけは。ああ恥ずかしい……。消えてしまいたい……。何故自分はあの時あんな愚かなことをしてしまったのか。後悔しない日も夫に申し訳ないと思わなかった日もなかった。何千年と余り、私はただ無言で葉を織りながら、その数だけかつての夫に謝り続けた。天帝の怒りに怯えたのは自分だけではなかったろうに、夫だけが霊薬を手にしたとそればかり思考を取られ、許されないことをしてしまった。
「私は生まれてはならなかった女なんだよ」
「―――そんなことはない」
場にそぐわない凛とした声が通る。膝に乗せた彼が、思わずこちらが目を背けてしまうほど力強い眼差しを湛えていた。
「生きたいと願うことの何処が誤りだろうか。神僊も元は同じ人の子だと聞いています。であれば尚のことそれは間違いなんかではない。あなたは終わりは必要だとおっしゃった。それは私も同じです。だが、終わるために生きるのではありません―――」
その途中、彼は激しく咳き込んだ。顔を横に倒し、苦悶の表情を浮かべる。薄い金の草木に鮮烈な赤が飛び散る。しばらくして落ち着きを見せ、胸が大きく沈む。いくらか眉根の皺が伸ばされている。
「……あなたに言いたいことはまだあるというのに……。この身が口惜しい……」
「……もう静かにおし。目を瞑ってお前さんを待つ仲間を想うんだ」
「まだ―――まだ、あるのです……。あなたに聞いてほしいことが……」
ゆるりと頭を振って目蓋を下ろそうと伸ばした手を、彼は掴んだ。初めて触れる手は硬く、大きく、微かに震えていた。切々と懇願する眼差しに口を噤み、全身が硬直してしまう。
「もし私がその夫君であったら、あなたが霊薬を飲んだことを責めはしません。むしろあなた一人に飲ませていました」
「……それで自分が死ぬとなってもかい」
「はい」
間髪を容れず返され鼓動が大きく乱れる。
「妻の死に顔など、耐えられませんから……」
力なく緩む目元にあの人が重なった。一瞬息が詰まり、さっと頭を振る。都合のいい幻覚に過ぎない。そう頭で理解しながらも、眼下にはその都合のいい幻覚を広げて胸中を満たそうとする。愚かな私はその幻覚にあやされ、無様を晒してしまう。目元を拭う硬い指を掴んだ。
「……知ってたかい。桂樹にはごく稀に花がなるんだ。霊薬とまではいかないが、それでもお前さんの傷くらいなら快癒する」
髪に挿していた一輪の花を抜く。槐黄色の花は花芯を突き出していて、手のひらより一回りほど小ぶりだ。彼はそれを不思議そうに見上げている。
「葉は毒だが、花は薬だ。お食べ。楽になるよ」
口元へ近づけると最初は躊躇っていたが、大丈夫だともう一度言えばそれを受け入れた。咀嚼して嚥下したのをきちんと見届けてから口を開く。
「お前さんの名前を教えておくれ」
「そうか……、まだ名乗っておりませんでしたね。私は姜維、字名を伯約と申します」
「そう。覚えておくよ、お前さんの名前」
「あな……たの、名前……は…………―――」
言葉は途切れ途切れになり、声音が沈んでいく。それまでぱっちり開けられていた目蓋も少しづつ、少しづつけれど確実に降りてきている。抵抗も虚しくしばらくもしないうちに完全に意識を手放した。苦しそうに寄せていた眉根は脱力している。胸は深くゆったりと緩慢に上下し、顔についている血も体のあちらこちらに見える傷も瞬く間に消えて、元の肌が戻ってくる。棕紅色の長い髪が通り抜けた柔らかい風に撫でられる。穏やかで優しい寝顔だった。風が徐々に勢いを増す。淡い金の草が揺れるたびに視界がちらちらと輝き、細かい光が粉となって彼の体を覆う。爪先、脚、胴体、指先、腕、―――最後に顔。ゆっくりとゆっくりと、彼の体が溶けていく。なくなった箇所からは金の粉が舞い上がり、天上へと昇っていく。棕紅色の長い髪が最後にふわりと煽られ、彼の顔が覗いた。ひくり、と自分の指が反応する。片方の手で抑え込み、彼の体が完全に失くなるのを見届けた。細かい粉が昇っていき、しばらくして見慣れた平坦な地面が現れる。桂樹の葉は毒だ。―――しかしそれは花も一緒。私は承知の上で彼に毒を飲ませたのだ。
「あなたの旅路に祝福を。命の灯火が尽きるその刹那まで、どうかあなたらしく駆け抜けられますよう」
二度と会えないのだとしても、あなたと共に過ごした安らぎは忘れません。腕を顔の前で交差させ、頭を下げる。ふいに葉が落ちてくる。余人の居ない月世界。後悔と悔悛の日々が少しだけ報われたような気がした。他の神僊みたいに祝す力は授けられないけれど、それでもあなたの道程を想いたい。あなたが私にそうしてくれたように。―――姜維様。