一喜一憂したい吉報を
オリジンベースで進みます。
右腕には売れ残った衣、左腕には町で購った生活に使う代物。町へと下りた私は家で織った衣を売り、得た金で二人分の生活必需品を買った。前より売れないな、と苦い胸中を引きずりながら村里のもっと奥、余人など寄り付こうはずもない辺鄙な地に佇む一つの草庵にまで着くと、ほぼ同時にその裏手より見知った顔が現れた。
「父さん!」
父・張角である。籠に詰めた畑で穫れたらしい作物を左脇で抱え、自分の帰宅を出迎える。今しがた終わったようで、身なりは埿土で汚れていた。せっかくの端整な顔が勿体無いと思い、懐にしまっていた布で拭ってやる。すまない、と謝る父に笑ってみせる。
「道中何もなかったか?役人たちに何か酷いことされてはないか?」
「大丈夫だって。心配性だなあ」
「またしても重くなった税を絞れないとわかるや否や乱暴を働く者まで出てきたと聞く。心配して過ぎるということはあるまい」
着々と荒廃していく町。それはそこに住む人たちの生活が不安定に揺れ動き、誰しもが不安と恐怖に駆られ、なりふり構わなくなってきたからだ。奪える物は奪い、殺せる者は殺して、自分の腹を満たす。ろくろく外に出られもしない、とは知人の医者の言だ。
「大丈夫だよ。ほら私、元山賊だから腕っ節には自信あるし。そこら辺の男たちには負けないもんね」
胸を張って堂々答える。何かとすぐ気を揉む父を安心させようとしての言葉だったのだが、それは却って父の顔を曇らせることになってしまった。
「そうではない」
寂しそうな、申し訳なさそうな、またはその両方とも取れる笑みに口元を歪ませ、私の頭に手を置いた。農耕を長らく営んできた手だ。ごつごつと角張っていて、自分のそれよりも遥かに大きい。土で汚れちゃう、とは思わなかった。
「お前は我が娘。娘の身を安んずる親が何処に居よう」
「それは……、そう、だけど……」
実子じゃないからそこまで気にかけなくてもいいのに、と言うのは流石に憚られた。自分は彼に拾われた孤児だった。親の顔を覚える年齢であったが、食い扶持を少しでも減らすためにとある日唐突に山中に置いて行かれ、以降山賊まがいとして生計を立ててきた。通りかかる人を襲って金品を奪い、食料を奪い、細々とさながら非力な鼠のごとく、あるいは醜態を恥じる虫けらのごとく、影に潜んで生きてきた。身も心も荒みきっていた自分を、彼だけが案じ、加えて養子として迎え入れてくれたのだ。彼を襲ったにも関わらず何故そこまで優しくできるのか、と訝しんだ私に父は、大人として当然の責務だ、と頭を撫でながら言ったのを鮮明に覚えている。今は父と二人、村里の中でも特に誰も寄り付かなさそうなここに建てられた小さな苫屋を住処とし、暮らしている。
「ああ、そうだ。お前に渡したい物があるんだ」
言って、父は籠から一本の花を差し出す。茎が伸びているのを見るに野に咲いていたんだろう。紫と白とが目に鮮やかで、花弁の先は茎を抱き込むようにして反っている。確か、名前を花菖蒲と言ったか。綺麗な花だ、と感嘆しながら目を輝かせる私に父は笑みを漏らした。
「近くに咲いていた。年頃の娘に贈るにしては些か野暮ったい代物だが、以前好きだと言っていたのを思い出してな」
「それ私がまだ七つだった時のことじゃん」
もう元服も終わってるよ、と笑いながらそれを受け取る。父の中での自分は、ここに来た当初か出会った当初かで止まっているんだろうことは想像に難くない。子供扱いしないでと食ってかかることも日常茶判事だ。それでも手中を彩るこの花のように父の傍で父の拠り所として、これからも変わらずに居られたらいいな、と心の内で密かに願った。
―――入るぞ、と言って房に踏み込んだのは父だった。すっかり長くなった棕色の髪が動作に沿って緩慢になびき、同じく深い色を宿した双眸が憂いを帯びて自分を捉える。牀の上で横たう上体を起こして笑ってみせると、それは目に見えて深刻になり、眉間には皺が刻まれた。なんとしたものか、とそれでも尚自分は笑みを浮かべることしかできない。
「怪我の具合はどうだ」
問いかける父の方が自分よりよっぽど痛そうに見えた。棕色の双眸は私の右肩を注視している。先の諍いで役人に斬られたのだ。こちらも剣の腕にはそれなりの覚えがあるのですぐに身を引いて受け流し、片腕を失わない程度に収めることができた。とはいうもの、不覚を取ってしまったのは変わらないので、布を何重にも巻いても尚出血は止まらない。父が訪うほんの寸分前に変えたばかりにも関わらず、布はもう汚れていた。
「大丈夫、大丈夫。少し切れたってだけ―――っ!」
いつもの癖で肩口に手を置くと激痛が全身を駆け、さながら電流が迸ったような鋭い痛みに呻く。
「無理をするな!」
堪らず折れた上体を見て、父さんはゆっくりと慎重に私の体を横たわせてくれた。手近にあった榻を引き寄せ、腰を下ろす。長い髪が顔に落とす濃い影も相まって今の父は何処か気落ちてしているように感じられた。気落ち?いや、違う。落ち込んでいるというより、何か深いことを考えて迷っているような。
「父さんこそ大丈夫?最近ご飯食べれてる?」
「ああ、問題ない」
「ほんと?なんか顔色悪いよ」
くすりと笑んでみせた父は前より窶れたようだ。なんでかな。暮らしも着てる服も農民時代と比べて格段にいいはずなのに、どうして父さんはこんなにも嬉しくなさそうなんだろう。舌の根も乾かぬうちに課税を繰り返して自分たちは遊興に耽る役人共、そんな役人共を諌めるどころか何処吹く風と歯牙にもかけない朝廷、飢えに亡くなっていく民と生きるために悪事に趨る民。自分たちを救う気などないんだ、絶望した父はとうとう蜂起した。朝廷に民の苦痛と嘆きの声を知らしめるために。数多の同志が父の下に集い、暴政と戦っている。怪我の理由となった先の諍いとて、またしても役人共がこれ以上は何も渡せないと泣いて懇願する老爺を痛めつけていたので、それを止めに入ったのだ。役人に逆らったというだけで剣を抜く奴ら。玉座に座る皇帝も下々の民など顧みない。黄巾党を詰る由が一体何処にあるというのか。
「……無茶をしないでくれ」
「無茶なんか―――」
「頼む」
切々と、懇願するように。どうしてそんなに苦しそうなの、と訊ねることはなんとなくできなかった。不明な困惑が胸中に渦巻きながらも首肯してみせる。目に見えて綻んだ父の顔に、どぷりと胸中の澱が音を立てる。怖い、と思ってしまった。なんだか間違っていることをしているような錯覚を抱いてしまい、眼前の父に訳もなくしがみつきたくなった。大丈夫、これはきっと気の所為だ。父さんが元気なさげに見えるから不安になってるだけなんだ。そう自分に諭すも、ざわつく腹の虫は収まらない。背筋を何かに逆撫でされている不快感は消えない。
「今日はしっかり休め。後で薬湯を持ってこさせるから」
頭を柔く撫でられる。房を出て行こうとする父の後背に、目の奥が熱を持った。しかし、言葉は出なかった。
―――あれから幾度もの戦を重ねた。時には朝廷と、時には豪族と、そして守るはずだった民たちとも。
「……俺は間違っていたんだろうか」
ぽつりと落とした言葉に胸が詰まる。
「苦しみに喘ぐ親を、子を、助けたかった。明日生きられるかさえわからぬ不明な世を治めたかった。……だが現実は守るべき民が穂先を自分たちに向けている。それは俺が指導者として道を外したからではないのか」
「―――父さんは間違ってなんかないよ」
絞り出した声は情けなく掠れていた。榻に腰を下ろして項垂れる父は顔を上げない。
「わ、私を助けてくれたのは父さんだもん。食べる物ないからと襲った私を育ててくれたのは父さんなんだよ。……きっと今だけ、今だけなんだよ、苦しいのは。みんなもわかってくれるよ。…………わかって、くれるんだよ」
まるで自分に聞かせているようだ、と言ってて思った。略奪に趨る同志も、朝敵として武装する民たちも。いずれは父の本心を理解してそれぞれ武器を収めてくれるはずだ。
「彼らだって元は農民。同じだったんだ。話せば村里を襲うのやめてくれるはず……。私、頑張るから」
だから落ち込まないで、と父さんの体を抱き締める。自分を抱き留めてくれた大きな体を、初めて小さいと感じた。背中に手を回して在りし日の手つきを手繰り寄せ、軽く叩く。父さんが考えてることはなんだろう。知りたい、そして支えたい。胸を焦がす強い思いはしかし伝わっているかどうか。
「―――すまない」
ああ、私たちはもう引き返せないんだ。そう直感した。
―――司隸州河南尹洛陽県。いよいよ決戦の日がきた。蒼天たる霊帝とそれに準ずる各豪族たち、こちらは父・張角を奉じて結集した元農民たち。差は歴然かと思われたが趨勢は意外にも拮抗していた。それが呼び水となって軍中の士気はますます盛っていく。ここで勝てれば皇帝は自分たちと認めざるをえない。そう、すべてはこの勝負にかかっているのだ。なんとしてでも勝つのだと血気盛んな私たちは目論見通り優勢だった。役人を斬り、その主君を斬り、武功を立て。戦場に身を置く同志たちは、各々の燦々たる未来を双眸に描いていっそう奮い立つ。前線で指揮する自分も目に見えて疲弊して退却する敵を目の当たりにし、心の内で歓喜の声を上げた。本拠地に居る父へあの選択肢は間違っていなかったんだと、あなたが間違うはずもないと、誰よりも立派なことをしてるんだと飛ばして、痛みに呻く体を奮い起こした。敵を薙ぐごとにふつりと胸中にある蝋燭に灯火が点っていく。それは明日への道を照らすがごとく。―――だが、現実は無情だった。飛ぶ鳥を落とす勢いで盛んだった我らは、気付かぬ間に劣勢に追い込まれていた。眼前の敵を倒すことだけを考えて突き進んできた先で見たもの、それは同志が尽く斬られて逃げ惑う光景だった。何故、どうして。そんな疑問に応えてくれる者など居るはずもなく。逆賊張角を討つべし!と誰かが放った敵の言葉に敵の勢いが増した。連れて、こちらの死者も増えていく。勝てないとわかるや否や降伏する者も現れ、同志の証である黄色い布は戦火に呑まれていった。すっかり瓦解した今、私は父を助けるべく馬を走らせていた。阻まんと立ち塞がる敵の攻撃を受けながら、既に折れそうな意識に食らいつき、やっとこさ彼を見つけた時に言葉は出なかった。ただ無事に生きていたことが嬉しくて嬉しくて、まともに体勢を直す力などないのも振り切って馬から落ちて駆け寄ろうとする。案の定足がもつれて倒れる。そんな私を父さんは血相を変えて抱き留めてくれた。ほっと胸が安心する。父さんの体はやっぱり小さくなんかない。今でもこうして自分を受け止めてくれる。鼓膜を打つしたたかな鼓動に思わず涙が溢れた。
「……いこう、とうさん…………」
荒い息に気持ちを混ぜる。酷く掠れて聞き取れたものでもないだろうに、この距離が助けてくれた。行こう、誰も居ない場所へ。父さんは頑張ったんだ、だからこれからは二人で静かにひっそりと暮らそうよ。もう何もしなくていいから。胸を衝く万感の思いは言葉にこそ成らなかったが、きっと父には届くはずだと思った。なのに。
「―――行けぬ」
瞼を下ろしてゆっくりと、しかし確かに首を振った。一瞬息を忘れ、頭が真っ白になる。体中の悲鳴も遠くの剣戟も悲鳴も聞こえなくなったほどに、それは受け入れ難い衝撃だった。父は今なんと言ったのか。
「弟も数多の同志たちもここで散った。ならば俺にできることは一つ。すべてを託して散った者へ報いるために、決して逃げずに最期まで立ち向かうことだ」
どうして。どうしてそんな目をするの。何故今になってそんな強い決意を見せるの。ああ、いやだ。嫌だ嫌だ嫌だ。滔々と流れる涙が血と混ざって鼻の奥をつんと刺激する。
「なら私も―――」
「ならぬ。それは駄目だ」
「っ、嫌だ……!父さんがそのつもりなら私も残る!死ぬことになってもいい―――」
言葉はそれ以上続かなかった。ぐるりと回った視界、遅れて広がる頬の熱、そして自分に向けられる非難の眼差し。鋭い眼光に射貫かれて呼吸が一瞬詰まった。
「親に死に目を晒すことの何処が孝か」
「でも私は―――!」
「お前は生きろ。生きて、幸せになってくれ」
幸せなんて、そんなの父さんの傍でしか有り得ないのに。娘だ大切だ言いながら独りにするのか。何故最期まで同道させてくれないのか。誰も彼もが困窮に喘いで死に行く冷たい時代に、私だけ生きろと言うのか。何故私に守らせてくれないのか。実子でもない私なんかに、どうしてそこまで。
「言っただろう。娘を安んずる親など居ない、と」
頭を撫でる手が意識も矜恃も揺さぶる。傍に居たいという本意さえも。この人は縋っても希っても一緒に生きてくれないんだと、理解した。
―――あれから数年と経った。幾つもの季節が巡り、見知った顔や知人の医者は戦火や流行病によって没したと便りで知った。父の手によって決戦場を脱した私は、流れ流れでやってきた地に腰を据えた。そこに住まう先住民たちは素性を暴くこともなく受け入れてくれた。どういう巡り合わせか夫ができて子も宿した。何処の馬の骨とも知らない女を妻にしたばかりか、夫の家族も一人娘のように可愛がってくれ、感謝しかない。戦場で負った傷は長い長い月日を経てようやく塞がりつつある。けれども、このような日には傷跡が疼くのだ。雲一つない澄んだ青が広がる空。何処までも果てなく続き、地平の彼方までも覆っている。風の噂で同志たちは敗北したと聞いた。父の行方は杳として見つからないようで、洛陽では今も尚数多の役人たちが黄巾党の棟梁を探し続けているらしい。逆賊を討たんする名目を掲げているが、その実ただ恐怖しているだけだ。豪族たちが結集した勢力と肩を並べた黄巾党。我が父・張角一人の手によって成された組織なのだから、また何処ぞで再起されてはお歴々も困るんだろう。しかし、その一方で亡くなったとも聞く。病か戦火に散ったかは諸説様々だが、一貫しているのは一人の元農民の存在が時代の根幹を大いに揺るがしたということ。上から下まで、みなの目を一様に攫っていった我が父。蜂起する理由はただ人を救いたいというものだった。最初は父の下に集まった者も同じ気持ちだった。なのに膨れ上がるにつれていろんな感情や気持ちが錯綜し、父の手では収まりきらなくなってしまった。それが逆賊と後ろ指をさされ、朝敵となった大きな要因だろう。だが、自分は思うのだ。我らが散った後も尚、各地の戦乱は治まらない。国土は一向に養われず、疲弊していくのみ。もし真に父のみが悪因であるのならば、今は豊かになっているはずだ。しかし現実はそうはならない。一人の敵が倒れただけで、上の意思など変わらない。結局、腐ったものは腐り続けるだけなのだ。―――たまに考える時がある。父がこれほど心を砕いても変わらぬのであれば、乱暴にでも父の手を引いて逃げてしまえばよかったのでは、と。かつての同志たちが父を奉じたのは自分たちが気持ちよく暴れたいがため。朝廷が父を国賊と断じたのは己の不祥事を暴かれないため。誰も彼も己のことしか考えていない。それならば自分が攫ってもよかったのではないか。私には父以上の必要なものなどなかったのだから。晴れ渡る日には窈然と考え込んでしまうが、どれもすべて夢想と潰えるだけ。一つ、ここに居ない父に伝えるとするならば、あの時の言葉を贈りたい。
「……子も親を安んずるわけないんだよ。父さんが想ったように、私だって父さんの幸せをいつも想ってたんだ」
孤児であった私を育ててくれた父。血を流せば己のことのように案じて手当してくれた父。一人の子を持つ親になった今なら、父が常言っていた気持ちが理解できる。―――だが、それでも。親が子を生かそうとするように、子もまた親に生きてほしい、生きて傍に居てほしいと求める生き物なんだと、彼に知ってほしかった。温かな家庭や愛してくれる夫がおれども、何処を見てもあなただけは居ない。それがどうしようもなく虚しい。見上げた空は果てなく蒼い。