壹
河北に盛大な華燭の典が開かれていた。六礼のうち納采、納幣、請期を終えた袁紹は親迎をするべく、妻の生家に訪れていた。彼の背後には豪奢に飾られた輿を担ぐ男たちと、燕楽を奏でる伶人たちが列なっており、さながら書物で語られる荘厳美麗な光景は、市井の衆目を一身に集めた。二人の婚姻を祝する音楽が絶えず流れ、やがて長蛇の列は妻の生家の門扉に到着する。位の高さが堂々現れている立派な邸は門を開放しており、その入口には一際異彩を放つ格好をして佇む娘と、それを挟んで立つ初老の男女が居た。全身を赤い衣で包み、大きな布を頭から被っている華奢な娘こそ、袁紹の妻たる女性―――名前だった。ふん、と妻の存在を認めた袁紹は満足げに鼻を鳴らし、いっそう毅然と歩いてみせる。そして袁紹を待つ彼らの前までやってくると、娘の両親はその顔貌を喜色に満たす。
「今日という日をどれほど待ち侘びたことか。袁紹殿に大切な一人娘を嫁がせることができようとは、まさにこれ以上ない喜び。私と家内は勿論、この良き日に空をこれほどまでに彩らせた天上の神も、お二人を祝していることでしょう」
「うむ。袁本初、我が家名に賭けて約そう。お前たちの娘はこの私が幸せにしてみせると」
「ああ……、袁紹殿。よろしく、よろしく頼みました。私もようやく胸を撫で下ろせる」
「ぽっくり斃れてくれるなよ?お前には我が心房としてまだまだ動いてもらうからな」
「ええ、ええ。この劉嘉、謹んで袁紹殿に尽力しましょうとも」
娘の父・劉嘉は安堵の気持ちを浮かべてゆるりと破顔する。袁紹は一回頷くと、二人の間に佇む己の妻を見遣った。
「迎えに上がったぞ、名前よ」
「―――お待ち申し上げておりました。旦那様」
それはまさしく、清廉な小川のごとき透き通った声だった。声は弾みをつかせており、好ましい反応というのは伝わってきた。しきたりではあるが、妻にと迎えた女性から同じように応じられるというのは、彼に望外の喜びを与えたらしい。言葉をしばらく手放す程度には袁紹も落ち着きがなかったようだ。こほん、と咳払いをして手を差し伸べる。
「行くぞ」
赤い袖からほっそりした指が現れ、袁紹の手のひらに重ねられる。
「―――はい」
袁紹の目には、名前がゆったりと微笑んだように見えた。

つつがなくすべての工程を終えた二人は、これから寝食を共にする一つの房に居た。袁紹も名前も婚礼衣裳から睡衣へと変え、化粧を落として髪を整えた名前が牀に乗ると、先に待っていた袁紹がおもむろに口を開いた。
「疲れたか」
「え?」
唐突な物言いに名前は目を丸くさせた。
「今日は多くの家を回っただろう。疲労が現れておる」
「お心遣いありがとうございます。ですが、これしきのことで音を上げるわたくしではございませんよ」
ゆったりと笑んで返す彼女に、袁紹はますます自分の顔を渋くさせた。
「確かに名族の重圧は軽くはない。それは長きを過ごしたお前はわかっておろう。しかしだな、ここには私とお前しか居らぬ」
袁紹と名前は互いが幼い頃よりの関係だ。袁紹の父・袁成は彼を赤子の時に引き取って以降、自身と特に親密にしていた劉嘉を頼り、彼を養育した。その過程で劉嘉の娘、つまり名前とも交流を深めたのである。許嫁というような明確な関係ではなかったが、何せ時間があれば彼女の邸に赴き儒学者である劉嘉に師事していたので、その分だけ名前とも顔を合わせる機会が多く、今思えば許嫁と名付けていい関係に近しかった。彼女の幼きを知っている袁紹だからこそ、己に気を遣って胸襟を閉めているんだろうと理解した。彼女は昔から自分の本分を理解し、それに努めているのだから。
「多少は肩の力を抜いたらどうだ?」
「まあ……」
らしくないことをしている自覚はあったので、ついつい言葉の調子が淀んでしまう。名前はといえば、同じ感想を抱いたであろう反応を見せていた。目を丸くして袂で口を覆う様は驚愕と言うほかない。
「くっ、私にここまで言わせたのだ!さっさとせぬか!」
なかなか理不尽な当たり方であるが、効いたふうには見受けられなかった。しまいにはくすくすと嬉しそうに、あるいは楽しそうに笑い出す。
「旦那様、わたくしは疲れたなどとは申しておりませんわ。わたくしはただ、不安なだけなのです」
「……何を気に病むことがあるのだ」
「わたくしは旦那様に相応しいかどうか、と」
笑みを絶やさなかった名前の顔貌が、ここにきて初めて翳る。
「くだらんな。お前はこの私の、この袁本初の妻に足りうる存在だと判断し、一族に迎えたのだ。下郎共の世評など気に止める必要はない」
ばっさりと斬り捨てた袁紹が、堂々胸を張る。幼き頃はただ己の本分を努めんがため、色恋沙汰には顔を向けなかった。しかしそんな中でも、名前の存在は目の端にいつも止まっていた。それは恩師の娘というだけではなく、彼女の振る舞いが理由だった。片時も奢侈を望まず、勉学を怠らず、孝を忘れず、いつも自分のやるべきことに努めてきた。そんな名前を袁紹は深く感心し、父・袁成から婚姻を打診された時も、家柄や品格は然る事乍ら、それ以上に彼女であれば袁族の長の妻を立派に務めてくれよう、という確信を持ち、二つ返事で名前を迎えたのだ。
「―――旦那様。わたくしの旦那様」
静かに聞いていた彼女が袁紹を呼ばう。静謐ながらも誘うように甘く、あるいはしなだれかかるように重く。袁紹を見つめる瞳からは胸中は窺えない。
「旦那様はわたくしを愛しておいでですか?」
「なっ……!」
「どうか、どうか。旦那様の衷心の一端でよいのです。わたくしはそれを賜りたいのです」
袁紹は言葉を失った。婚姻を考え始めた頃より散々物を贈ってきた。模様が美しい衣も金と玉をあしらった簪も、風光明媚な園林まで。どれも彼女から要望された物ではなかったが、しかし貰う都度嬉しそうにしていた。今とは違う顔を見せていたのだ。だからこんな顔は初めて見る、と袁紹は戸惑いを覚える。同時に口を固く閉ざすほどの羞恥にも襲われた。愛を言にするなど今まで一度もしたことがないからだ。する必要も感じられなかった。男から自分の女に贈り物をする、それ自体が愛情表現だと見なされている。慣例に倣えばもう十分示してきたというわけである。
「言わんでもわかるだろう……」
「一回でよいのです」
「う、ううむ…………」
言い淀み、苦渋の決断を差し迫られたといわんばかりの表情を浮かべる。どうするべきか―――いや、頭では理解できている。妻の不安を取り除いてやるのも夫の役目、それはわかっている。わかっているのだが、口が動かぬ。何故今になってそのようなことを言い出したのだこいつは。腕を組み、きゅっと爪の先を丸める。そしてゆっくり口を開いた。
「……あ、愛しておる…………」
「わたくしを一番に?」
「そ、そうだ。―――ええい!お前の要望に応えてやったのだ、これでいいだろう!以降はくよくよするでない!」
痺れを切らした袁紹が声を張ると、彼女はくすくすと嬉しそうに肩を震わせる。
「ええ、はい。これ以降は旦那様のためだけに生きられること、この上なく嬉しく、そして光栄に思います」
「……もういい、寝るぞ。私は疲れた」
「はい。おやすみなさいませ、旦那様」
牀に横たう袁紹は目を閉じる。しばらくの後衣擦れが鼓膜を揺らし、ふと体が布に覆われる。被子か、と思った袁紹は特に何かを言うでもなくそのまま。やがて意識が揺らぎ、うつらうつらし始めた時のこと。出し抜けに鼻先を香の匂いが掠める。ぼんやりした頭ではそれが何であるか正確には読み取れず、ただただその違和感に疑問を抱くのみであった。目を開けることすら億劫となった彼の耳に、声が滑り落ちる。
「―――これでやっとあなたのものになれましたのね。わたくしも愛しておりましたわ、昔からずっと。ねえ旦那様、わたくしだけをこの先も愛してくださいましね?」
何処か暗さを湛えたふうに感じられたが、袁紹の意識は間もなく暗転した。
与り知らぬ夜明け