婚礼も終え、賑々しい雰囲気も落ち着きを見せ始めた頃。袁紹はその日もいつもと変わらず立派な衣に身を包み、馬に脚をかける。ひん、と嘶いた馬はぶるりと身を震わせ、丹念に手入れされた鬣を揺らした。

「では行ってくる。有事の際は遣いを走らせよ」

威厳をたっぷりと見せつけると、名前は優雅に微笑んでただ一言。

「今日も無事のご帰宅を願っていますわ、旦那様」

「うむ」

阿りではない妻の気遣いに甚く気を良くした袁紹は、口角を更に吊り上げて大仰に頷いてみせる。それはさながら歓喜を気取られまいとするようであった。名前に見送られ、袁紹は朝の早い時分に邸を出たのであった。






下午ごご。邸を出立する頃ではまだ半分と出ていなかった陽も、真上に昇って今では西へわずかに傾いていた。燦々と注ぐ陽光を受け、外では数多の官吏が己の職務を全うするため慌ただしく駆けている。一枚の壁と数段の段差を隔てた房の中に袁紹は居た。彼の配下である顔良が近くにおり、二人は言葉を交わしている。その最中のことだった。

「え、袁殿……!袁本初殿!!」

二人の会話を切ったのは、血相を変えて駆け込んできた一人の男だった。身なりからして袁紹が抱える兵卒だろう。普段であれば主人の断りなく房に入るなど許されざる非礼だが、兵卒の青を通り越してもはや白とまで言える顔に只事ならぬ気配を感じ、言及することをしなかった。

「何事だ」

「袁殿の太太おくさまが―――」

「何!?」

思いもよらぬ言葉に、袁紹は人前であるということも憚らず声を上げた。ぎょっと驚く兵士を見て、すぐさま平常心を取り戻した袁紹は、見せつけるように咳払いをする。

「……それで。あいつに何があった」

「ええと、その……」

「何をまごついておるのだ、さっさと言わんか」

「は、はい。袁殿の側室方と談笑していた太太が急変し、……その、―――唐突に毒酒を差し出したのです」

一瞬にして空気が沈黙する。袁紹も顔良も兵卒も。

「―――毒酒だと?」

「はい……。我ら守衛も幾度となくお止めしたのですが、太太の命令には逆らえず……。隙を見て私だけこうして参った次第なのです」

「︎名前は今何処に」

「居邸にいらっしゃいます。太太が招集をかけたので……」

「すぐに行く。着いて参れ」

「はっ!」

袁紹には五人の側室が居る。どれも名前を正妻に迎える以前からの関係だ。そのことは彼女も知っている。今までそのことを話題にしたことは一度もなかったのに、何故急に……。名前の真意が見えなかった袁紹は胸中を焦りと困惑とで満たす。手遅れになる前にどうにか間に合え、そう念じながら馬を駆けた。






―――結論から言えば間に合わなかった。房に駆け込んだ袁紹が目の当たりにしたのは、数々の調度品と床を赤く染めて横たう己の側室たちと、その中心で佇む名前だった。毒酒だと聞いていたのにその手に掲げられている物は剣で、鋭利に研がれた剣先からは鮮血が滴り落ちている。噎せ返るような鉄の臭いに眉根を寄せると、こちらを振り返った名前が剣を握ったまま折り目正しく揖する。顔の衣に返り血がなく、剣も握っていなければ、自分は寸分も疑うことなく出迎えを受け入れていたことだろう。

「おかえりなさいませ、旦那様」

凄惨な光景を引き起こした張本人であるというのに、彼女の姿勢はとてもそれとは思えないものだった。自分を送り出した時同様に柔らかい笑みを口端に乗せ、阿りではない気遣いを夫の自分に向けている。泰然自若あるがまま、と下すには得体の知れない恐怖に背筋を逆撫でされてしまう。

「…………これはどういうことだ」

張り付く喉を引き剥がし、訊ねる。調子の外れた声であることは自覚している。背後に控える守衛も侍女たちも青褪めて言葉を失っている。衆目を一身に浴びながらも名前は動じる素振りを見せなかった。

賜死ししを命じました」

あっけらかんと答える様に背筋が凍る。

「な、何故そんなことを……」

図らずも声が震えてしまう。一方、名前はそれが心底不思議といったふうに首を傾げる。

「旦那様にはもう必要ないものでしょう?」

「しかし斬るのは―――」

「ええ。今までわたくしの代わりを務めたことを認め、彼女らに選ばせました。毒を呷るか首を斬られるか。毒を呷ったのが二人、斬られたのが三人です」

悠然と、あるいは平然と。名前は美しく象った笑みを崩すことなく袁紹を肝まで凍らせる。誰かがおそろしいことを、とぼそりと呟く。袁紹は内心同意した。眼前に居る名前は果たして自分の知る彼女であるのかと疑ってしまう。これがあの謹厳実直と感心した彼女なのか。在りし日の面影を探すも、少しも重ならなかった。言葉を失い呆然と佇む袁紹に、名前はにこりと笑いかける。

「―――旦那様にはわたくしだけでよろしいでしょう?」

そう約しましたものね、と付け加えて剣を放る。かしゃん、と音を立てて剣先は血に沈んでいった。





顔を出した紅月



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